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2006.05.30

■存在しない事実

 私たちはほとんどの情報をマスコミから得ている。自宅からつい数十メートル離れた家で火事があったことも知らぬ朝、新聞でイラク情勢を読んでいたりするのだ。

 だから逆に、報道されない事実は、存在しないのと同じことになってしまう。厳密な意味で「報道されない」ことはなくても、扱いが小さかったりして私たちの目にとまらなければ、それはいわば「存在しない事実」となる。

 たかだかこの10年以内に、例えばコンゴやスーダンやソマリアやアンゴラで殺された人たちが何人いるかご存じだろうか。あわせると実に数百万人!になる。こう書いていても自分でも信じられないほどの数字だ。
 最近の朝日新聞によると、コンゴだけでも150万人だという。死体を隙間なく仰向けに寝かせていけば、東京大阪間を埋め尽くしてしまうほどの人数だ。

 比べるべきではないのかもしれないが、イラク戦争での死者(大半は「戦闘作戦終結後」だが)はおそらく5万人に満たない。しかし、マスコミ報道におけるその扱いの差は、逆転しているどころではない。
 さまざまな意味で、イラク問題の重要性はわかる。しかし、いくら何でも、この圧倒的な報道量の差はバランスを欠きすぎてはいないか。

 つい先日には、南シナ海を大型台風が襲い、死者・行方不明者が少なくとも300人近くに達しているという。が、これを扱っている日本のマスコミは、もしかすると皆無なのではないか。
 被害に遭っているのは、中国・ベトナム・フィリピンといった、近隣国の人々である。人数も決して少なくはない。インドネシアの地震より1週間以上前のことだから、地震報道でかき消されたということもない。それなのに・・・

 私自身、知人(ベトナム人だ)から聞くまで知らなかったので、ネットでニュース検索をかけてみたが、日本のマスコミが取り上げた例はただの一つも見つからなかった。日本語で報道しているのは、中国系メディア、ロイター、CNNだけである。その数も扱いも大きくない。

 これもまた、今回のインドネシアの地震報道と比べて明らかにバランスを欠いている。確かに死者は10倍以上になるかもしれないし、日本人が地震のニュースを身近に感じるのもわかる。しかし台風のニュースだって、ひとたび日本で起これば、人的被害がなくてすら、大々的に取り上げているではないか。

 数少ないネタに飛びついて、集中豪雨的報道をするばかりが能ではない。そうやって耳目を集めていてすら、結局はすぐ忘れてしまうのに。パキスタン地震のその後はどうなっているのだ?

 マスコミは、「自分たちが報道しない事実は、存在しないことになってしまうかもしれない」ことにもっと自覚的であって欲しい。意識的・無意識的に消された事実の中に、そうするにはあまりにも大きすぎるできごとが多数含まれすぎている気がしてならないのだ。

 そしてまた、自ら情報を探索できるツールを手にしているわれわれも、もはや単なる情報の受け手ではなくなっていることを自覚せねばならない。その気になって探せば、存在しないかのように見える事実を掘り起こすこともできるし、ささやかながら、こうしてその事実を外部へ発信することもできるのだから。

 疲れるけど・・・

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2006.05.27

■いいかげんな報道■

 八尾空港で小型飛行機が事故を起こした(2006.5.25)。幸い、けが人などはいない。

 この事故を報じたテレビニュースを見たのだが、いわく、

「着陸に失敗」
「八尾空港には滑走路が1本しかない」

 どちらも間違いである。こんなごく基本的なことすら確認もしないで大々的に大嘘を流すのだろうか。
 だいたい、前者はともかく、後者はだれが言った(もしくはどこに書いてあった)ことなのだろう。八尾の滑走路が1本だと思っている人は、関係者には皆無のはずである。

 事故の原因はまだわからないが、小型機は正常に着陸した後、離陸しようとしていたときに脚に異常を来したらしい。新聞報道からも状況からも、少なくとも「着陸に失敗」したということはない。

 八尾空港には2本の滑走路がある。これには議論の余地がない。

 ・・・

 たまたま知っていることなら、こういう間違いにも気がつく。しかし、テレビニュースで流れることで、われわれが知っているようなことはほとんどない。
 ごくたまに知っている内容が報道されると、この有様である。

 テレビニュースがこれほど杜撰だとしたら、ニュースを今以上に疑わなければならない。「放送する」ということの責任の大きさを顧みてほしい。

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2006.05.19

■これは梅雨?

 梅雨としか考えられないような天気が続いている。いつ干したかわからない洗濯物がベランダにかかったまま。

 もしかしたら乾いているかもしれないから、これから取り入れようかなあ・・・

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2006.05.17

■今日の出来事

 珍しく一日中雨が降った。

 民団と総連が歴史的な和解をした。

 イタリアのプロディ首相がナポリターノ大統領に閣僚名簿を提出した。

 ヒューザーの小嶋社長らが詐欺罪で逮捕された。

 紫式部日記を読んだ。

 来日外国人から強制的に顔写真や指紋をとる改正入管法が成立した。

 京都府亀岡市で行方不明になっていた7歳の女の子が無事保護された。

 夕張メロン2玉が80万円で落札された。

 台風1号が九州に接近している。

 ERを4話も見てしまった・・・

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2006.05.16

■中途半端な良心の澱

 ・・・という題をつけたけど、これ、コンプリケイティッド・ライフ II だな...

 以前にも書いたが、私の住んでいるところは、ほとんどどんなゴミでも一緒くたにして燃やしてしまう。自転車でも電子オルガンでもアイロンでも応接セットでも・・・

 幸い、これまでそんな恐ろしいものをゴミとして出したことはない。でも、永久に出さないかというと、多分そうはいかないわけで、今から良心が痛んで仕方がない。

 家から出るゴミで、どうしても捨てられないものに、使い切った電池があった。ボタン電池や充電式の電池なら、回収ボックスがあったりするが、それでもよほどの気力と行動力がなければ、いちいち回収ボックスを探し回れない。これまで何度か、思い切って店員に尋ねたりしたことがあった。

 もっと困るのは乾電池である。そもそも、ほとんどの回収ボックスには「乾電池を入れるな」と大書してある。ではどうすればいいのかは書いていない。やはり、生ゴミと一緒に出すのが正解なのだろうか。そんな恐ろしいことはとてもできない。

 そんなこともあって、電池はなるべく買わないようにしている。必要最小限にとどめ、かつ、充電式を多用する。そんな生活をしていてすら・・・

 使い終わった電池が、スーパーの小さなポリ袋を満たすぐらいあったのだ。ゴミ箱に捨てられず、回収にも出せず(確か1〜2度は出した)10年近く溜まってくると、やっぱりそれぐらいになってしまう。

 今まで、気にはなりながらも捨てられずに溜まる一方だった。

 それが・・・

 職場にあるよくいく店に、電池の回収ボックスがあることを知った。滅多に電池を買わないから(職場で買ったことはないかも)今まで気づかなかったのだ。
 しかも頭のいいことに、電池売り場に新品の電池と並べて置いてある。新しい電池を買いに行くと、嫌でも回収ボックスが目にはいるという仕組みだ。多くの電器屋のように、回収ボックスを探し歩いたり店員に聞いたりする必要がない。

 陳列商品を少しでも増やしたい「売る側の論理」からは、こういう発想は出てこないだろう。陳列棚の一部を使ってでも電池を回収しようという行為に、ちょっとした敬意を覚えた。

 お蔭様で、我が家に溜まった中途半端な良心の澱(=使用済み電池)も一掃できた。お決まりの「乾電池を入れるな」との表示もない。

 だが心配が一つ。ボタン電池も乾電池も充電池も同じ箱でいいのだろうか。実際に混じって入ってたのだが。回収してから人力で仕分けしたりするんだろうか。
 念のため、私自身はポリ袋に小分けして入れたのだが、かえって手間をかけてなければいいんだけど。

 ともかく

 今後は電池を出す場所が決まって良かった。それにしても、ごく細かいことに中途半端に良心的であろうとすることすら、多大な手間とストレスを呼び込んでしまうのがつらい。コンプリケイティッド・ライフたる所以である。

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2006.05.09

■コンプリケイティッド・ライフ

 先日、発電機が故障したためにまったく無線通信ができなくなった小型機が広島西空港に緊急着陸するというできごとがあった。国土交通省は「重大インシデント」として調査を始めている。

 問題の機は、2台ある発電機の双方がダメになった上、非常用バッテリーも切れたため、飛行計器類も無線も使えなくなっていたという。

 無線アウトになったとき、管制塔との交信なしで着陸する訓練は必ずやるものの、実際にそんな状況になったときのことを想像すると、それだけでパニックになりそうである。

 だから、多くの小型機乗りは携帯用航空無線機を持っている。電波法上、聞くことはできても送信はできないのだが、いざ緊急事態になったときは、心強い味方になる。今回の人たちは持っていなかったらしい。

 ・・・

 さて、久しぶりに小型機で飛ぶことになったので、自分は操縦しないのだが、念のために無線機を引っ張り出した。が、いざ管制塔の交信を聞こうとすると、電源が入らなかった。しまった、とは思ったが、緊急事態でもなければ、別に困ることはない。家に帰ったら充電しようぐらいに思っていた。

 ところが、充電してもまったくうんともすんとも言わない。故障である。アメリカで購入してるし、保証も多分切れている。メーカ自体は日本なのだが、果たして修理してくれるんだろうか。してくれるとしても、高くつきそうだなあ・・・ はあ。

 つい先日は、自転車につけるサイクロコンピュータ(速度・距離計)が故障していた。前からおかしかったのだが、完全に反応しなくなっていた。
 幸い、メーカに送るとすぐに代替品を送り返してくれたのだが、状況を総合的に判断すると、どうも新品の時から不良品だったようである。どうりで最初からうまく動かなかったわけだ。

 自転車といえば、息子の自転車のハンドル取り付け部を替えてサイズを大きくしたところ、後でブレーキやら変速機やらのワイヤの長さが足りないことがわかり、それを全部取り替える必要が生じてすごく高くついた。

 その前は、買ったばかりのテレビのファームウェアにバグがあり、スイッチが切れなくなる!故障がそのうち出るとかいうことで、わざわざ家まで出張修理に来てもらった。

 その他、不具合があるとか故障したとかで手間とお金のかかったことは枚挙に暇がない。家なんか買うと、何かちょっとでもあったら何十万円という世界になり、血の気が引く。いままで2〜3回あった。
 幸い、これまでは保証が効いたり意外と安く上がったりして何とかなったが。

 今宵は、巨大な鳥の糞が何カ所にもベチャッとついた車を、疲れた身体に鞭打って洗うしかなかった。

 パソコンのソフトウェアアップデートなんかは、多すぎて語る気にもなれない。

 ・・・

 このエントリで結局何が言いたいかというと・・・

 身の回りにモノが増えると、それだけ心配や手間暇が増え、お金がかかるということである。シンプル・ライフに憧れながら、長く生きれば生きるほど、暮らしはややこしくなっていく。平均的な日本人と比べれば、ほぼ確実に買うモノが少ない私ですらそうだ。

 ヒトが増えても同じだ。自分のことだけでも精一杯なのに、妻のことや息子のことで心労が重なるのはほんとうにこたえる(大したことじゃないんだけど)。

 性格的には素直でいい子である息子一人でも大変なのに、これが2人いたり、問題のある子どもだったりしたらどういうことになるのかと、想像するだけで恐ろしい。
 親兄弟や親戚のことで心労を重ねている人もいるだろう。

 家族親戚に限らず、友人その他、人間が増えるとやっぱり心配や手間暇や必要なお金が増える。しかしまた、もちろん、豊かな人間関係は捨てがたい。それがなかったら何のために生きているのかわからなくなる(自分自身に豊かな人間関係があるとはとても思えないけれど)。

 でも、あっさりした人間関係の中、独身で所持品少なく暮らしている人なんかがいるとすると、そういうのにも憧れてしまう。そんな中で楽しみさえ確保できるならば、心配事は格段に少なくなると思うからだ。

 ・・・

 それにしても、ヒトはともかく、モノに関しては故障することが格段に増えたという実感がある。思えば、身の回りのさまざまな製品は、私が若かったころの品質が一番高かったのではないか。20年前に買ったモノでも故障せずにいつまでも現役のものは多いのに、ここ数年に買ったモノはことごとく故障するのだ。
 まあもちろん、昔よりも格段に精密・複雑化している影響もあるのだろう。

 ああ、ここでもやっぱり、コンプリケイティッド・シングズ。

 シンプル・ライフは遠い。

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2006.05.06

■哀悼:萱野茂

 萱野茂氏が亡くなったという。

 アイヌ初の国会議員であるが、同時に、アイヌ語・文化・民族の継承者・振興者として、あるいは研究者としてご活躍であった。

 近年、体調がすぐれないご様子であることは仄聞していたが、こう早く逝ってしまわれるとは・・・

 79歳。その存在の巨大さと長寿時代を思うとき、あまりにも早すぎたというしかない。

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■トビの人生・・・

 トンビに油揚げをさらわれた、という言い方があるが、トビは何を食べて生きているんだろうか。

 一般的には、スカベンジャー(動物の死骸などを食べる掃除屋)だと言われている。漁港の近くなどで漁師が捨てた魚などに群がるのも見慣れた光景だ。

 タカの中ではもっともふつうに見られるのだが、その生態はどれほど知られているのだろう?

 そんなことを考えたのは、久しぶりに京都をポタリングしていて、鴨川名物?トビを観察する機会があったからだ。

 大阪北部に住んでいると、日常生活でトビを目にすることはまずない。だが、鴨川沿いを通るたびに、必ずと言っていいほど数羽は目撃する。

 これまでは、「トビがいるんだなあ」ぐらいにしか思っていなかった。そして、鴨川にいるんだから魚でも食べているのかと思っていた。

 ところが、観察の結果によると、なんと昆虫を食べているのだ。20羽以上いるトビのすべてが、それのみを、一心不乱に足で捕まえては飛びながら器用に口に持っていく。そして、食べカス(羽?)を落とすのだ。
 どうやら、食べているのは、カゲロウのように見える虫らしい。虫の方を先に見つけてそれを追いかけていくと、トビが見事にキャッチして食べている。

 家には10冊ほどの鳥の本があるが、トビの昆虫食に触れている本は1冊のみ。それも、ごく簡単に書いてあるだけだ。
 私自身、昆虫を食べるとは言っても、漠然とコガネムシのようなものを想像していた。あるいはセミとか。

 かなり大型のタカであるトビが、ホコリのようなか弱い虫を必死でつかまえてえんえんと食べ続けている姿は、なんだかもの悲しくも哀れであった。
 発見の喜びに浸っていた現場ではそうは思わなかったのだが、今思えば、生きることのばからしさと哀しさを何よりも雄弁に物語っているような気がするのだ。

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2006.05.02

■やっぱり不思議・・・

 昨日、

「だから、明日はまた急に気温が下がっても不思議ではない。」

と書いた。が、それにしても下がりすぎだろう。夜歩いていて震え上がった。

 明朝は今朝よりもまだ10℃低いという。最高気温も上がらないらしい。

 やはり自然は不思議だ。

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2006.05.01

■いきなりの夏

 コートまで着ていながら、寒さに耐えて淀川べりでシギ・チドリを観察していたのが一昨日。

 そのたった2日後、所によっては7月下旬なみという暑さになった。甲府では何と33.4度だったという。

 今年の春は寒い日が多く、目には春、肌には冬、といった日々が続いていた。春らしい日和を経験しないまま、いきなりの夏である。

 気温というのは徐々に変わっていくものではない。冷たい空気の固まりの中にいると気温は低く、それと入れ替わりに暖かい空気の固まりがやってくると、急に暖かくなる。単純にいえば、その中間というのはないのだ。
 だから、明日はまた急に気温が下がっても不思議ではない。

 そんなことも、飛行機の免許を取るために気象の勉強をするまではほとんど知らなかった。今でも知っているとはとてもいえないけれど。

 いずれにせよ、それにしても極端だ。また春に戻り、ほとんど味わえなかった今年の春を、もう一度やり直すチャンスを与えて欲しい(冬に戻るのはかんべんしてね)。

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