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2008.02.26

◆HD DVD に用はなくても

 Blu-Ray レコーダに負けることが決定的になってから HD DVD レコーダを購入した。顛末後日譚はここに書いたとおりである。

 東芝のを8万円台前半で購入したのだが、現在、kakaku.com の最安値が 12万円台になっている。計算すると、ちょうど 1.5 倍だ。モノがなくなってきて、欲しい人はまだいるということだろう。

 自分の下した判断を正当化し、「いい買い物をした」と悦に入るためには嬉しいことだ ^^;

 実際、当初から HD DVD は使うつもりなく購入したので、高機能の HDD/DVD レコーダとして重宝している。
 惜しむらくは、ユーザインターフェイスが洗練されていないことぐらいである。わりと重要なことではあるんだけど。

 予想外なのは、案外早く、レンタルDVDの Blu-Ray 化が進むかもしれないということだ。2〜3年は大丈夫かと思っていたのに・・・

 こればっかりはツタヤディスカス任せである。そうなったらそうなったで嬉しいので、その際には Blu-Ray を買うことにしよう。その頃には安くなってくれてるかな?
 価格面でも性能面でも買うタイミングが難しいだろうと思う。少なくとも、プレイヤーを買ってレコーダを買って・・・とやたら台数が増えないように気をつけなければならない。

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2008.02.25

◆切れやすい?

 いえ、愛車の電球の話。

 昨日オイル交換のためにディーラーに出かけたばかりだったのに、今日、ブレーキランプが片方切れた。
 またわざわざ行かねばならない。

 それも、もう5分ほど前に切れていたら、そのままディーラーへ直行できたのに、というような場所で切れたのだ。

 今乗っている車は輸入車なのだが、特に故障が多いという感じはしない。強いていえば、1度だけ、吸気系のゴムホースに亀裂が入って低回転時のエンジンの調子がおかしくなったことがあるぐらいだ(回転が少しでも上がると快調だったので、故障したまま信州から高速道路を驀進して?帰ってきた。私もチャレンジャーである)。

 その時はやはり、こういうどうでもいいようなゴムの部品とかの品質管理が、やはり国産には劣るんだろうなという気はした。国産なら10年放っておいても大丈夫なようなゴム製品の劣化が早く、3年経ったら交換しないといけないというような感じがする(あくまでも感じです)。

 球切れも早い。

 以前乗っていた安物の国産車は12年近く乗ったが、球切れしたという記憶がない。もしかしたら一つや二つはあったかもしれないが、少なかったのは確かだ。

 今の中級輸入車は、各電球が次々と順番に切れていく。ブレーキランプが切れた記憶はないが、同じ時期に寿命が来るので、もう片方もまもなく切れるのだろうということが、これまでの経験から予測できる。
 どこのメーカの電球を使ってるんだろう? KOITO のにでもすればいいのに。

 実際に知っているわけではないが、一昔前と比べれば、輸入車に乗るリスクは格段に減ったと思う。ゴムホースと電球以外、国産車に劣ると思ったことはない。
 ただ、そんな細かい部品でも、電球のように次々と切れると、いくらかずつはお金がかかるし、何よりめんどくさい。

 あ、思い出した。

 前の安物国産車は、マフラーに2回も穴が空いた。今の車のマフラーにはサビの兆候すらない。

 マフラー交換は高かったが、ゴムホースと電球はそれほどでもない。そういう本来無用なコストは今の輸入車の方が安いということになる。まあ、おあいこだろうか。

 本気で買おうとはぜんぜん思っていないものの、ニセ? BMW のミニと、フィアットの500がちょっと気になっている。
 前者はまあ、それほどリスキーではないんだろうなあ・・・

 後者はどうなんだろう。いくら輸入車の品質が上がってきたとはいっても、やっぱりイタリア車は避けるべきなんだろうか。

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2008.02.24

◆銀世界の挑戦者たち

 珍しく雪が多い。ひと冬に何度も積もることなど、滅多にないのに。

 『デイ・アフター・トゥモロー』(2004 U.S.A.)ではないが、「地球温暖化が逆に寒冷化をもたらすとかいうこともあるかもしれないな」などと、何の根拠もなく思ったりする。

 友人と昼食に出かけるという家人を駅まで送っていくので、ちょっと足をのばして車のオイル交換でもしてこようかと思う。
 走行距離的にはまだちょっと早いのだが、前回の交換から1年になるので、イグニッションをオンにするたびにインパネに「SERVICE !!」と表示されるのが気になっていたのだ。あんまりおどかすなよ。

 念のため、すぐにできるかどうか聞こうと思ってディーラーに電話すると、「けっこうですけど、新御堂筋が通行止めで周辺が大渋滞ですよ」という情報。
 新御堂筋とは、大阪の中心部と北部を南北に貫く、もっとも重要な幹線道路だ。自動車専用道路ではないが、高速道路仕様で信号はなく、原付や自転車の通行は禁止されている。

 玄関前のほとんど交通量のない道ですら乾き始めているというのに、なんという慎重さだ。もう10時30分に近いのである。

 結局、いつもより少し遠回りはしたものの、渋滞にぶつかることはなくディーラーに着いた。横目で見た新御堂はやはりもうほとんど乾いているが、それでも通行止めは続いていた。
 ___

 さて、オイル交換をすませてから、箕面の山に雪を見に行くことにした。新御堂の側道を北上しながら正面の山を見ると、それなりに雪化粧していておもしろそうだったのだ。

 道の方は、滝の上の駐車場まで雪らしい雪はない。残っている箇所も、轍の上は溶けているので大丈夫だ。
 だが、そこから先は違う。自宅で降っていなくても、ここまで来ると路面は真っ白ということもある、雪の多い場所だ。

 その真っ白な路面の上で、タクシーが立ち往生している。道路端から何度も脱出を試みるが、いくらか進んではタイヤが空回りしてお尻を振りながら元の位置・・・という繰り返しのようだ。
 1人の女性が自分の車を駐め、困ったふうにその様子を見ている。手伝おうとして手を出せないでいるのだろうか。

 こういうことに少しは慣れている私は、手伝ってあげようかと少し遠くに車を駐め(ぶつけられないための用心だ)、タクシーまでとって返して声をかける。車を降りると、歩いていても滑りそうな路面である。
 近づいて、「押しましょうか」と声をかけるが、ありがとうも助かったもすみませんもお願いしますもない。めんどくさいけどいやいや相手をしてやろうかという風情だ。

 それでも会話を続けると、これ以上は進めそうにないのでここでUターンしたいらしいことがわかる。経験上、それなら、私が後ろから押してさらに横から押せば可能だろうと思った。Uターン後は緩い下り坂になるので、ごくゆっくりと下っていけば、ほどなく黒い路面に出会える。幸い、交通量はほとんどない。

 だが、運転手は、「押してもらってもねぇ」と言ったきり、何度も何度も空しい試みを続けている。後輪の下は既に、つるつるに磨かれたミラーバーンのようになっている。
 とりあえずタオルを後輪の下に敷くだけで、少なくともこの状況からは脱出できるのだが、脱出方法を話し合える雰囲気でもなく、これ以上そこにいてもどうにかなるものでもないと思い、自分の車に戻った。

 しかしまあ、ノーマルタイヤの後輪駆動車でチェーンも用意せず、よくも真っ白な凍結路に突き進んでいけるものだと思う。チャレンジャーだなあ・・・
 スタッドレスの4輪駆動でも、聞いていた音楽を消して緊張しながら進むような道なのだ。

 気温は氷点下2℃。

 しばらく行くとお寺があり、そこから先は黒い路面になっている。その境目あたりで、対向してきたメルセデスがハザードをつけながらバックしていった。賢明な判断である。

 ちょうど JAF の車が停車してチェーンを装着しているところだったので、「まもなくJAF の車が来るからよかったら声をかけてみれば」と、先ほどの運転手に伝えに戻った。
 親切心からというよりはむしろ、まだ雪道を走り足りない私にとって、戻るためのいい口実ができたというのが正直なところだ。もっと雪の期待できる、交通量のさらに少ない一方通行路をまだ走っていなかったし。

 タクシーまで戻るほんの数百メートルの間にも、またスタックして動けない別の車。新たなチャレンジャーの登場である。
 そこではゴツイ4輪駆動車がすでに救援にとりかかっており、ロープでも出してこようかという勢いだったので、後ろにJAFもいることだし、今度は素通りすることにした。

 相変わらずがんばっているタクシーの運転手に JAF のことを告げると、ほっとしたような初めての笑顔。
 思えば、こんなところで動けなくなっているところを見られ、職業運転手としてのプライドが傷ついて、ぶっきらぼうな応対しかできなかったのかもしれない。
 ___

 積雪の一方通行路でも、日の当たるところには黒い路面が顔を出している。

 雪のためにエサの得にくい野鳥たちがそこに集まり、ゆっくり進む私の車でも、その野鳥たちを蹴散らして進むかたちになってしまう。申し訳ない。
 はっきりと確認できたのはツグミとアオジだけだったが、若いオスのルリビタキも何羽かいたようだ。

 いつも鳥がたくさんいるカラスザンショウの樹の横で車を降り、双眼鏡で眺めてみたが、今日は何も見つけることができなかった。もう実は食べ尽くされているのかもしれない。

 溶け始めた雪が落ちてくる様子や、木々に積もった雪が時折り吹く風に粉雪のように散る風情など、なかなか乙な景色である。天気はまあ晴れ。遠く大阪市内の高層ビルまで見渡せ、箕面市街の住宅の屋根はどれも真っ白だ。

 いつの間にか12時を過ぎている。息子が家で待っているので帰ってスパゲティを作ってやらねばならない。
 家で受験勉強にいそしんでいる(はずの)息子が、この景色を私と一緒に愛でることができなかったのが心残りである。

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◆テレビ取材の申し入れ

 珍しくこのブログ経由でメールをいただいた。

 先方は何と、ほぼ完全全国ネットの巨大放送局だ。確か過去に一度、視聴者からの意見へのあまりにもおざなりな対応をここで批判したことがある。

 それはともかく、内容は「明日テレビカメラでの取材をお願いしたい」というものである。

 メールの題名が「突然すみません」だけだったので、他のスパムメールとともに一括削除してしまうところだった。なぜかピンときて、念のために中身を見てみた。
 題名を「テレビ取材のお願い」とかにしていただいたほうがよかったかなと思う。「突然失礼致します」とかそういうのは、典型的なスパムの題名なので避けた方がよい。皆様もお気をつけください。

 でも、「テレビ取材のお願い」なんて書いていたら、そのありえなさからいって、新手のスパム扱いし、やっぱり削除してしまうだろうか。いや、私なら、卑しい心根から、やはり一度は中身を見るだろう。スパム業者の皆様、参考になさってください(笑)。

 取材依頼の理由はもちろん、大したことではない。要するに、東芝が HD DVD からの撤退を発表するので、そのニュースに合わせて、最近該当機器を購入した人の話を聞きたいという趣旨だ。

 話したいことは山ほどあるが、30分しゃべってもオンエアは10秒ぐらいだったかもしれない。だがそれ以前に、せっかくメールをいただいたのに取材を受けることはできなかった。残念である。

 タイムスタンプによると、メールをいただいたのが夜の11時半過ぎ。そして次の日の昼過ぎまでに連絡をくれと書いてある。夕方か夜のニュースで流すのだろう。
 だが、そのメールを読んだの自体がさらにその2日後なのである。スピードと新鮮さが肝腎の報道の世界にいる依頼者は、正直なところ、私からの返信をご覧になっても「えっ!? そんな依頼したっけ?」という感じではなかろうかと推察する(ちょっと大袈裟)。

 読者からメールを頂戴することなどほとんどなくても、このブログ経由のメールもほぼ毎日チェックしている。なのに、こういう時に限って読んでいないのだ。皮肉なものである。

 私の書いた返信は以下の通り。

 先ほどメール拝見しました。もう手遅れですね。お返事が遅くなって申し訳ありません。

 もうご興味はお持ちではないかもしれませんが、私個人は結果としていいタイミングで安く購入できたことを喜んでおります。
 ただ、HD DVD には最初から期待しておりませんでしたので、期待していた方々や情報をお持ちではなかった方々の落胆は大きかろうと思います。

 今後、また何かありましたら、お声をおかけいただければ幸いです。

 先方からの返信にはもとより期待していなかったが、意外にもきちんとお返事を頂戴した。お忙しいところ時間を割いていただいただけでなく、「無事、放送は出すことができました」という一文があって恐縮する。
 私なんかへの取材の有無に関係なく、巨大放送局は当然、いつものように放送をする。私と連絡が取れなかったことなど、放送に影響する可能性は露ほどもない。
 それでも礼儀としてこういう書き方をなさっているのだろう。

 この放送局の市井の人間への対応をちょっと見直した。

 もちろん、結局は人なのである。いかな組織やそのシステムに飲み込まれているにしても、それを構成しているのは個々の人間だ。
 自分の勤務先やその上部団体への不満やストレスも募る昨今、自戒したいと思う。

 それにしても、期限に間に合うようにお返事差し上げたら、ほんとに取材・放送ができたのだろうか。
 メールは東京から、私は大阪在住なのだ。昼過ぎまでに返事してそれから取材を受け、夕方ないし夜のニュースで流す・・・
 私にはちょっと想像のできないスピード感である。まあ、もしほんとに取材なさるなら、大阪の局のスタッフがいらしたのだろうか。それとも、

 「あ、大阪にお住まいだったんですか。てっきり東京かと・・・ すみません」

で終わっていたのだろうか。

 友人が東京に引っ越して、その凄さが間接的にであれ感じられるようにもなって、「地方」の悲哀が少し身近になってきている。

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2008.02.23

◆何を今さら・・・

 今朝入っていた au by KDDI のチラシに

「家族への国内通話 24時間無料」

の文字。

 何を今さら。もう1週間早ければ、au にしていただろうに。

 適用は3月1日から。「3月2日を過ぎると特典がなくなるぞ」と脅しをかけていたので、ツーカーから乗り換える人の契約変更は2日間に集中する。しかも土日だ。

 料金体系が複雑すぎて、携帯の契約にはけっこうな時間がかかる。販売店が大混乱にならなければいいんだけど。
 もっとも、まだツーカーを使っている人なんてほとんどいないのかな?

 でも、このタイミングでということはやはり、ツーカーからの乗り換えが思うように進まず、ソフトバンクに客を取られるのに業を煮やし、最後の切り札に打って出たという可能性も高い。
 これ以前にも、明らかにホワイトプランに対抗することを意識した、「シンプルプランS」(基本料1050円)というのを始めている。

 ソフトバンクのホワイトプランだって、「携帯の料金体系をシンプルに」といううたい文句で登場したと思うのだが、先に書いたとおり、機種代金も月々の料金体系も割引や制約も実に複雑怪奇で、なんとか騙して(あるいは少なくとも誤解させて)うまく料金をふんだくろうという企みがミエミエであり、決して愉快なものではない。

 それでも、画期的な料金体系と驚きの「無料」を率先して打ち出す戦略は、たとえそれが新規契約を獲得してシェアを増やすためのあざとい策略であるにしても、ある種のパイオニア的な清々しさがある。

 この1年以上、au が矢継ぎ早に打ち出すさまざまな変わり身の早さを継続して目撃してきたが(しつこくダイレクトメールやスカイメール、さらには訪問販売員!が来るのだ)、そのどれもが後追い、人真似、小手先の変更で好感が持てない。
 そのくせ、たとえばシンプルプランSだってホワイトプランより高く、家族間通話は無料でも au 間通話は無料ではない。

 後追いで人真似の癖に、ソフトバンクの後塵を拝しているのだ。

 一時期、松下電器が「マネシタ」と蔑まれていたことがあったのを記憶しているが、松下は少なくとも、後から出す以上はよりよいものを作ろうと努力していたと思う。

 私はネオリベラリズムの信奉者ではないので、携帯業界で繰り広げられている消耗戦にも見える競争を手放しで歓迎するものではない。

 だが、「高くても満足感を感じさせる」(BMW や iPod を見よ)ものでなければ、結局は経済原理が働いて、より安い(安く見える)方へ人は動いてしまう。

 だから、安値競争への対抗策は、満足感を満たすような製品・サービスをいかに提供するかにかかってくるだろう。ここ数年の自分の買い物を振り返っても、どちらかといえば、決して安くない製品ばかりを選んでいる気がする(あんまり買い物しないけど)。

 私が安いものを買う時は、相応のお金を出してもいいと思えるような魅力的な製品やサービスがそのジャンル内に見あたらない時である(あんまり高いものは魅力があっても買えないにしても)。
 それはもちろん、私に見る目がないからでもあろうが、そういう愚かな消費者に魅力を感じさせ、たとえ幻想であっても満足感を与えて、高いお金を出させるのが企業の腕の見せ所であるはずだ。

 単なる低価格競争に未来はない。

 ケチの私が言うのだから確かである。

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2008.02.21

◆1001回目の・・・

 自分がここに書いたエントリが980いくつというころから、「あ、もうすぐ1000になる」と意識してきた。

 1000回目を記念して何を書こう? とか思っていなかったわけでもないのに、気がつくと、つまらぬエントリ↓で知らぬ間に1000回になっていた。

 今書いているのが1001回目ということになる。

 正直言って、何ほどの感慨があるわけでもないが、よくこれだけ続いたものだとは思う。長いものでは原稿用紙5枚程度(数え方が古いな)の文章もザラ。中にはかなり力を入れて真剣に書き、校正を繰り返したものもある。

 見方によっては、ものすごく大量の時間を浪費しているだけとも考えられる。

 まあ、皮も名も残せないただの人であってみれば、こんなものでもそれなりには残るかと(家族には、私の死後も毎月262円ずつ払い続けて残しておいてくれと遺言?している)期待しないでもない。

 それにしても、ほとんど3日と続いたことのない日記?が、こうして4年以上も続いているのはどうしてだろう。
 何人かのありがたい読者がいてくださることは承知しているが(あなたのことです)、それ以外に読まれている実感というのはほぼない。
 であれば、おそらくはわずか10人に満たない方々に読んでいただくために、こうして書いているのだろうか。定期的な読者で私が承知していない方がたくさんいてくださればいいんだけど。

 いやむしろ、やはり「ひとりごとの公開」だと考えるのが一番いいのだろう。だとすれば、それをお読みいただいている方が1人でもいらっしゃるというのは、幾重にもありがたいことである。

 日ごろのご愛顧に感謝申し上げ、次の1000回への励みとさせていただきます。

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2008.02.20

◆「ただ友のワ」を広げたい(その3)

 最後は短く。

 買ってきた携帯が物珍しくていじっていたら、思いがけず電話がかかってきた。

 滅多に出ない(というより着信に気づかない)のだが、ちょうど手に持っていたので反射的に出てしまった。

 聞き覚えのない(たぶん)若い女性の声。でも、耳元から女性の声が聞こえてくるのは悪くない。電話って、こんな感じのものだったっけ?

 だが、もちろんというか、またしても au への勧誘の電話だった。

 「あの、これ今、ソフトバンクで受けてるんですけど・・・」

 ツーカー解約の情報がまだ届かず、入れ違いになったらしい。先方も慣れているのか、それですぐに通じた。

 今まで何十回となくかかってきていた au への勧誘電話には一度も出たことがない。私の携帯に着信する通話のほとんどと、メールのすべては同じ勧誘だった。

 それが、初めて出て会話したときにはすでにソフトバンクの携帯になっており、しかもそれがソフトバンクで私が受けた最初の通話になるとは・・・

 皮肉なものである。もし才能さえあれば、短編小説がひとつぐらい書けるかもしれない。

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◆「ただ友のワ」を広げたい(その2)

 さて、本題。

 ソフトバンクにかければ1日のうち20時間は無料、家族にかければ24時間いつでも無料になった。

 バンザイ。

 それで、どこにかけよう?

 かける相手がいないのである。

 これまでだって、携帯で誰かに電話したとかいうことはほとんどない。というか、固定電話をかけることすらほぼなくなった。用件はほとんどすべて、メールで伝えるという生活をしている。
 さすがに職場では電話を使わないこともないが、自宅で電話を使うことはめったにない。かけるとすれば、レストランに予約を取るとか、メーカーや電器屋やその他のお店などに問い合わせの電話をするとかぐらいである。そういう場合、もちろん先方はソフトバンクを使ってはいない。

 ツーカーの時から、通話料なんてほとんど無料みたいなものだったのだ。やっぱり、au にしておいたほうが結局トータルで安かったのは間違いなさそうである。

 しかしやはり、1度電話をすると20円なり30円なり(5分しゃべれば210円)取られるというのと、無料だというのとは大きな違いだ。

 TVCMでもやっていたとおり、家の中でインターホン代わりにも使える。実際、今日も早速使ってみた。
 今さら家人と電話で話してもどうということはないのだが、国内にいる限り、いつどこからどれだけかけても無料だというのは、これまでの携帯との付き合い方を変える可能性を秘めている。

 けれどもまたやはり、もともと電話嫌い(←同時性の要求)だからほとんど使わなかったのだ。それが無料だからといって使うようになるのだろうかという気もする。

 いや待てよ、何も直接話さなくても、ちょうどメールのように、お互い相手の簡易留守録(留守番電話サービスを使うと読み出し時に料金が発生する)にメッセージを残す形でコミュニケーションし、同時性に縛られないという使い方もあるではないか。

 まあ、これからどうなっていくか、ちょっと楽しみではある。

 というわけで、ソフトバンクをお使いの皆様、わたしと「ただ友」になりませんか。また、まだソフトバンクをお使いでない皆様、ぜひ、「ただ友のワ」に加わってください。

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2008.02.19

◆「ただ友のワ」を広げたい(その1)

 ツーカーの停波まで1か月余りとなり、いよいよ次の携帯を考えなければならなくなってきた。

 「ホワイトプラン」「ホワイト家族24」に騙されて?ソフトバンクにすることは早くから決めていたのだが、「明日やれることは今日やるな」と、心からは思えない癖にめんどくさいことを後にずるずる延ばす性向ゆえ、ほったらかしにしていた。

 この間、ツーカーと au の双方を経営している KDDI からの「au に変更せよ」攻勢はものすごく、このブログにも何度か書いたことがある。
 最後?はとうとう、これまでさんざん増やしてきた「特典」が最後のひと月足らずにはなくなってしまいますよ、という脅しのようなものになっていた。

 いよいよ3月になってしまうと混み始めるかと思い、先日、意を決してツーカーからソフトバンクに変更した。

 細かいことはいろいろあったが、全体としてはものすごく簡単である。あっという間にツーカーは使えなくなり、同じ電話番号のソフトバンクの携帯に変わった。一時はどうなることかと思ったが、結局電話番号のメモリーも無事移せた。

 ___

 それにしても、料金体系は不明朗だ。

 まず、携帯電話機代がたとえば2580円の24回払い(都合6万1920円!)なのだが、
「毎月2000円のスーパーボーナス割引がありますので実質は580円になり、2年間でのお支払いは実質1万3920円になります」
などという。電卓をパチパチ叩きながら数字を示し、紙にまで「実質580円」とか書いて寄越すのだ。しかし、

 これは端的に言って嘘である。詐欺とかで訴えたら、もしかしたら勝訴するのではないかというレベルだ。

 私の場合、間違いなく、実質580円とかにはならない。電話機はあくまで割賦払いで6万円以上する。また、毎月の支払いは決して2580円より安くなることもない仕組みになっている。

 なぜなら、2000円の割引というのは、「基本料や通話料から」しか割り引かないからだ。もし、素のホワイトプラン+家族24にして、私のようにほとんど電話をかけなければ、2000円を割り引いてもらおうとしても1000円程度しか割り引けない。
 つまり、毎月の支払いは、

 2580円+(基本料や通話料ー2000円) ただし、()内がマイナスの時はゼロと見なす

となる。

 何らかの事情でキャリアを変えたりソフトバンクを解約したりすると、まったく使えない携帯電話機代の毎月2580円の支払いだけが残る。
 どの面から考えても「実質580円」などと言えるものではない。

 「電話機代は何があっても毎月きちんと払っていただきます。基本料や通話料に関しては、2000円以下の場合は割引によりゼロとなりますが、それを越える場合は越えた分だけお支払いいただきます」というのが正しい説明だ。

 おそらく、私の支払いは毎月2580円となることだろう。毎月1000円ほどは確かに割り引いてもらっていることになるので、電話機代の「実質」は、3万8千円ほどにはなる。

 毎月の支払いは、家人と2台で、ツーカー時代の支払いより2000円ほど高くなる。安くなると思っていたのに。
 まあ、2年経てば、今より1000円安くなると期待しておこう。

 販売員の説明が悪く、何かのキャンペーンの7000円分の商品券をもらい損ねたり(景品とかへの興味はなくなってきたが、さすがに純粋に7000円もらえるというのを逃すと惜しい)、

1.なかなか理解できなかった料金システム
2.980円で終わらせないためのオプションプランあの手この手
3.ユーザが解約し忘れてずっと支払い続けることを狙った、1〜2か月で切れる「加入特典」
4.どこの販売店で買っても電話機が同額の価格カルテル

など、納得のできないことも多かったが、さすがの私も経験を積み、議論したりクレームをつけたり闘ったりして不愉快になるよりは、すっぱり気にしないのが一番いいということもわかってきて、もう今はほとんど気にしていない(いや、もともと気が小さくてクレーマーからはほど遠い人間です・・・)。

 が、やはり、ネットを見ると、同じような疑問や文句が溢れている。

 機械が6万円以上もすることを考えれば、au の方に騙されて?いたほうが通話料なんかを入れても結局は安上がりだったということは明らかな気がするが(au はツーカーからの乗り換えなら無料で手に入る電話がいくつかあった)、「いくらかけてもしゃべってもタダ」というのには弱いのである。

 インターネットだって、従量課金なんかだったら、とても使う気になれない。電話だって同じだ。
 電話なんか、いくら使ったって1日に3時間も4時間も使えるわけじゃないのだから(どれほど使う人でもまさか20時間ということはあるまい)、定額制でもいいのである。
 (あ、データを24時間ずっとダウンロードしている、などということはもしかするとあるかもしれない。でもそれだって、通信速度の制限を受けるのだから、上限はしれたものである)

 あまりにも長くなった。本題は次のエントリで。

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2008.02.16

◆「自由」の意味するもの

 2004年にフランスで(間違った呼び方だが)「スカーフ禁止法」が施行された際には、さまざまな論議を呼んだ。

 よく、イスラム教を差別する法律だと誤解?されているようだが、この法律は、「公立の」「初等中等教育の学校で」「宗教色の強いシンボルや服装を禁止する」ための法律である。
 したがって、キリスト教の十字架であっても、目立つものは禁止の対象となる。それは必ずしも、「表向き」や「タテマエ」としてではない。そういう意味がゼロだとは言わないけれど、それよりはむしろ、フランスの政治形態として非常に重要な「ライシテ」(宗教から距離を置く「世俗主義」というニュアンスの政教分離主義)の体現なのだ。

 サッカーのワールドカップなどを見ていてもよくわかるように、フランスはさまざまな人種・民族の混成チームである(この点で、隣の国であるドイツチームと好対照をなす)。
 その多様な人々ひとりひとりが「自由・平等・博愛」を旗印にする国家と契約を結び、「国民」となるのが現代のフランス流だ。それを超越する存在(すなわち宗教)は国家の根本原理と相容れないのである。
 もちろん、信教の自由はある。しかしそれはあくまでも、上記を踏まえた上でのこととなる。

 「自由」世界のリーダーであるフランスが個人の服装に強権を振るうなど、意外なことのようにも感じられるが、フランスの論理では、自由を守るためにこそ禁止するということになってしまうのだ。
 フランスが相当な警察国家だということも、おそらくこのことと関係があると思われる。

 ___

 さて、フランスが宗教的な意味合いを持つシンボルや服装を禁止する以前から、トルコでは公の場でスカーフを着用することが事実上禁じられてきた。
 国民のほとんどがイスラム教徒のトルコであるが、やはり世俗主義・政教分離を建国理念とする国として、宗教的嗜好(ひいては政治的志向)を公の場であからさまに表明することは憚られる空気があったということであろう。

 イスラム系政党が政権についたことから、かえって、大学構内でスカーフの着用が禁止されるという逆の方向に向かったのは90年代後半からだということだ。
 これは、世俗主義者たちの政権への抵抗運動の側面を持っている。

 そのスカーフを容認、つまり、服装を「自由化」しようという憲法改正案が先ごろ可決された。スカーフを着用したいという信条を持つ者が大学から閉め出されている現状を改善するため、「法律で明文化されない限り、何人も高等教育から閉め出されない」との一文を加えるなど(『朝日新聞』)、憲法を改正することになったのである。
 その条文自体は、何ら異議を差し挟む余地はない正論のように見える。

 国会では、ほぼ4対1の圧倒的多数で可決されたが、大学人や軍を含め、反対派の動きも激しく、憲法裁判所の判断次第ではこれからどうなるか、予断を許さない。トルコのEU加盟問題へも、微妙に影響するだろう。

 ___

 おもしろいのは、フランスでもトルコでも、表現の自由や思想信条の自由を標榜するはずの人たちこそが、その自由を奪う勢力として活動しているということだ。

 これが日本なら、そういう人たちは、いや、少なくとも私は、大学構内での服装の自由化に反対などしない。反対するも何も、ふつうは既に自由であろう。

 だが、これらの国には、そういう自由を認めることは、より大きな不自由につながりかねないと危惧している自由主義者たちがいるのだ。

 自由主義者が、気楽に「自由でいいじゃん」と言える環境は、自由にしていたのでは得られない。
 しかしながら、自由を奪うような決定は、軽々になされるべきではない。

 「自由」の意味もそれを具現化する方法も、一筋縄ではいかないのである。

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2008.02.15

◆Reuse, Reduce, Recycle

 先日、いつものように掃除機をかけていたら、カチャカチャカチャッと音がして、何やらゴミではないものを吸い込んだような気がした。

 すぐ横に貝殻が落ちていたので、それを拾って窓辺の皿の上に戻した。何だか貝の数が減っているようだ。息子がひっくり返して、きちんと全部拾わずにすませた結果らしい。

 たぶん、イタリアとか島根とか北海道とかで拾ってきた貝だが、出窓の皿の上で忘れ去られ、埃をかぶっているような存在だ。掃除機で吸い込んでもどうということはない。

 と思っていると、もう一度、カチャカチャカチャ。他にも落ちていたらしい。

 貝はまあ、どうでもいいのだが、複数吸い込んだことと、ゴミではないものが入ったことが気になり始めた。何度か経験があるのでわかるのだが、間違って吸い込んだものを取り出すのはわりと簡単だ。

 いつものように掃除機から紙パックを取り出し、入口付近を探ってみると、案の定、貝殻がひとつ見つかった。
 こうなると、残るひとつもちゃんと取り出したいのが人情である。ちょっと探ってみたが、よくわからない。そうこうしているうちに、ゴミの塊が袋の入口からずるずると出る感じになってきた。

 パックの中のゴミは、かなり綺麗にまとまって固まっている。ふと思い立って、袋をゴミ箱の近くに持っていき、中のゴミをずるずると引き出してみた。
 すると、簡単に、かつ、あっという間に中のゴミが取り出せるのである。周りにホコリが立って閉口するとかいうこともない。

 これまで何の疑問もなく掃除機の紙パックを使い捨ててきたが、こんなに簡単にゴミが取り出せるなら、取り出して再利用すればいいではないか。
 もともと、そういう手間を省くために紙パックが発明されたことを思えばヘンな話だが、ほんとに大した手間ではないし、その辺がとっちらかったりもしないのだ。

 この紙パック、1枚150円ぐらいするし、再利用した方がゴミも減るではないか。環境標語にもあるとおり、まさに Reuse して Reduce できるのである(Recycle はできないけど)。

 というわけで、今度から紙パックがいっぱいになったら、中のゴミを取り出して使ってみようかなと思っている。
 ただ、実際にそうするかどうかはやはり微妙だ。何といっても、ポイして新品、のほうが格段に楽には違いないから。

 それに、使い捨ての紙パックからずりずりとゴミを取り出している図というのは、あまり麗しい姿ではない。「エコ」とか叫びながらでなければ、ただのしみったれたセコい男である。

 でもやっぱり、スマートに使い捨ててダンディズムを気取るような時代ではない(というか、これまでごく無自覚に使い捨ててきただけなんだけど)。
 できることから少しずつ、が大切なのだろう。

 あっ、もう一つの貝殻は結局出てきたんだったっけ?

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2008.02.11

◆美しき飛翔


 着水態勢に入るコハクチョウの群れ(標題とは関係ありません)
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 鳥見初級者の私でも、もはや新しい鳥を見る機会はほとんどないことは以前にも書いた

 だが、遥か遠くまで行かなくても、ふだん行かないところに出向き、あらまほしき先達の導きがあれば、驚くような経験をすることができる。

 たった1日の探鳥行で新たに9種。これは間違いなく、初めて探鳥会に行った時に次ぐ記録である。

 出現鳥種全体では65種。これは新記録だ。

 「図鑑に載っているからには、この世に存在しないわけではないのだろう」という感じのする(私にとって)幻の鳥が、次から次に姿を見せる。

 オオワシ・ホオジロガモ・ハジロカイツブリ・オオヒシクイ・ヘラサギ・ケアシノスリ・ミヤマガラス・・・

 山の端に夕日も沈もうかというころ、最後を飾ったのはハイイロチュウヒのオス。いつものように、「見られるはず」と聞いてやってきて空振りで終わるのかと思っていると、みごとな姿態と飛翔を披露してくれた。
 メスは飛んでいたのだが、メスだけ見たのでは「ハイイロチュウヒを見た」とは言えないほど美しい。いっぺんに好きな鳥になってしまった。

 今日初めて見た鳥を次に見る機会はなかなか来ないだろう。しかしだからこそありがたみも増すと思えば、次回の出会いへの期待も高まろうというものだ。

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2008.02.10

◆バスは動かず

 昨夕は結局、駅からの路線バスが運休していたからといって、息子は歩いて帰ってきた。

 玄関で出迎え、「はよ上がり」というと、「上がられへん」という。足がぐしょぐしょに濡れているのだ。雑巾(元はおむつ)を2つ取りに戻る。
 しきりに寒い寒いと言っている。

 すぐに熱い湯を浴びたいというので、風呂場へ向かわせるが、今度は服が脱げないという。「手がかじかんで動かへん」。
 ボタンを外してやるのなんて何年ぶりだろう。そういえば、なかなかボタンが留められるようにならなかったなあ。

 そもそも、外を歩くことなど想定していない服装で出かけたのだ。出がけに「膝かけにもなるから、コートぐらい着て行きなさい」と着せておいてよかった。

 うちは辺鄙なところにあるので、駅から歩くと小一時間かかる。しかも昨日はべちゃべちゃの雪道だ。

 こんなこともあろうかと、いつでも連絡しなさいと、電話番号を3つも書いて渡した上に、私はずっと自宅待機していたのだ(映画見ながら・・・)。

 なのに寒い雪道を1時間も歩いてくるなんて、どう考えてもアホである。

 息子の性格からして、「親に迷惑をかける」ことを遠慮したのはわかるが、そもそも朝も送っていってやったし、こういう時に迎えに行くのはむしろ喜びであり醍醐味なのである。そこのところをわかれよ。

 「運動になると思って」などというのだが、何もこんな日に運動しなくてもよい。「滑って」転んだりしたらどうするんだ。受験の帰りだというのに。

 確かに、ちょっとした試練の日、そして思い出の日にはなっただろう。まあ大したことじゃないけれど。

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2008.02.09

◆ちょっと降りすぎ

 家人の職場ではバスも止まっているしタクシーも滑って近づけないという電話。

 それはまあ、どうせ迎えに行くつもりだからいいとして、息子はちゃんと帰ってこれるんだろうか? スクールバスなんだけど・・・

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◆雪景色

 朝早く起きて、高校を受験する息子をスクールバスの乗り場まで送っていく。

 外から心臓の音が聞こえるほど緊張している。

 「気楽にやれ。適当でいいから」と、いくら繰り返しても無駄なようだ。
 「受験票忘れたって、書くもん持っていかんかったって、センセにいうたらなんとかしてくれるから」(してくれるんだろうな・・・)

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 昨夜は、「ぼくの人生で最初の試練や」とか言っていた。どこでそんな表現を覚えたんだろう? 似たようなことを言ったことがあったっけ?

 「お前の試練は生まれる前から始まってたし、生まれてからも大変やった」と言っても、
 「そんなん、ぼく、覚えてへんもん」という。まあ、それはそうだ。

 でもそもそも、君が母親のお腹の中に存在しはじめたこと自体が奇跡的だったのだ。なのに、まもなく流れ出ようとした。その後落ち着いたかと思ったら、結局、お腹の中の後半を大学病院のベッドの上で過ごすことになった。
 体は小さいし逆子だ。予定日を過ぎても出てこない。帝王切開で取り出された時には脚が歪んでパズルのように組み合わさり、顔面神経が麻痺していた。

 母親の実家では一晩中ぐっすり眠って朝遅くなっても目を覚まさず、このまま死ぬんじゃないかと考えもした(「息してる?」「うん、大丈夫みたい」)。
 ヘソの緒が取れた後がいつまでもジュクジュクし、小児科医に連れていった時には「何でもっと早く連れてこなかった !?」と叱られた。

 大学病院通いもしばらく続いた。生後半年を過ぎたころだろうか、重大な疾患を疑われて、頭部のCTスキャンを取った。こんなに小さい子を睡眠薬で眠らせた上、大量の放射線を照射して大丈夫なのか?
 大人サイズのスキャナの上に横たえられた乳児は、いかにも儚げだった。

 寝返りも這うのも立つのも歩くのも遅い。賢そうな顔をしているのに、2歳を過ぎてもしゃべらない。いくら何でも異常ではないのか。

 まあしかし、もっと悪いことになる覚悟は妊娠初期からできていた。何があってもそれほど深刻には受け止めず、日々を楽しく過ごしていた気がする。

 それに、結局のところ、引っ込み思案だったり運動ができなかったりいじめられたり成績が悪かったりはしたものの、どちらかと言えばむしろ健康な優しい子に育ち、心配することも減ってきた。

 目が悪くなってきたこと、体が固いこと、花粉症であること(どれも遺伝だ)などを除くと、気になるのは友達関係と成績のことぐらいになった。
 まあ、誰にでもある取るに足りないことだ。

 15年前を思えば、人並みに高校受験に出かけたこと自体、信じられない気がする。
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 息子を送って家に帰るまで、一滴の雨もひとひらの雪も降らなかったのに、まもなく雪が降り始め、お昼にはアスファルトの上にまで積もって雪国のような景色になった。

 受験会場に入る時にはほとんど雪の影すらなく、終えて出てくるころには一面の雪景色になっているはずである。息子にとっての「初めての試練」は、忘れられないものとなるだろう。

 母親は仕事に出て、父親は気楽に映画を見ている。偶然だが、全編アラスカの雪景色の中で繰り広げられる、ペーソスの効いたコメディサスペンスだった。

 早めのお昼にはスパゲティを作って食べた。午後は何の映画を見よう?

 この雪だと家人はたぶん帰って来られない。息子が帰ってきたら一緒に迎えに行こうか。

 今年初めて、スタッドレスが役に立ちそうだ。

(The Big White, 2005 U.S.A.)

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2008.02.08

◆測られない能力

 測られない能力というものがある。

 嗅覚はその代表的なものだ。その能力に大きな違いがあることはみんな知っている。少なくとも、たとえば人間と犬とで何万倍とも言われる差があることは周知の事実だ。
 しかし、こと人間同士となると、その能力が問題にされることはほとんどない。たまにカジュアルな会話として触れられることはあっても、その性能を真剣に測ろうとする人はふつういないし、だから一般的には、嗅覚というものがどのような能力の集合体であって、したがってどうすればその全貌を測ることができるのかなど、考えもしない。

 聴覚もそうだ。多くの人は、子どものころに一度聴力検査を受けてそれきりであろう。耳の病気になったり高齢になって耳が遠くなったりでもしなければ、日常生活において聴力を測るということはまずない。
 しかも、聴力検査の結果としてわれわれに教えられるのは、「ちゃんと聞こえてますね」というおおざっぱな事実のみである。どのような周波数の音がどの程度の音圧?なら聞き取れるのか程度すら、知らせてはもらえない。視力のような、分かりやすい数値すら示されない。

 航空身体検査を受けるようになって、飛行機の操縦を許可してもらうためには、たとえば視力にしても、遠見視力・中距離視力・近距離視力・両眼視機能・視野・眼球運動・色覚の7項目にわたって測定してもらわなければならないことを知った。
 それでも、最近はやりの動体視力ですら測られないし、おそらく一番肝心な、周囲の状況に応じて見るべきものを決める能力や、実際に見たものをどう統合・評価するかといった能力は、おそらく「視力」として考慮すらされていない。仮に考慮したところで「正しく」測ることができるかどうかは疑問である。

 結局のところ、ほとんど測られない嗅覚にせよ聴覚にせよ、あるいは、しばしば?測られて自分の能力をわかりやすい数値で把握しているつもりになっている視力にせよ、実際のところは、それが全体としてどのような能力なのかが明らかではないし、したがってそれをどう測ればいいのかも簡単ではないということなのだろうと思う。

 そういえば、聴力・視力という言葉はあっても、「嗅力」という言葉はない。職人の技などを知ると、「触力」という言葉もあってしかるべきだと思うのだが、やはりない。「味力」ももちろんない。

 五感だけに限らない。世の中にはむしろ、測られる能力の方が圧倒的に少ないかもしれない。昨今はやりの「老人力」だの「鈍感力」だのと奇を衒わずとも、能力に大きな差異がありながら、それがあまり意識されないものは、いくつもあるのではないだろうか。

 一方で、厳密に測っているつもりで(あるいは少なくともそれを目指していて)、結局のところ何をどう測っているのか非常に曖昧な能力もある。学力がその最たるものであろう。
 そもそも、何を学力と考えるのかにすら明確な合意はない。合意があれば国の教育政策ももっと一貫したものになるはずである。

 にもかかわらず、1点刻みで分類され、人生を左右しかねない選抜に使われるのが学力だ。これは何も、わかりやすい試練に明日さらされる息子のことを思って言うのではない。正確に測っている(少なくとも測りたい)つもりでも、その測る対象すら明確でないまま、因襲的な手法で場当たり的に測られているのが学力なのである。

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 話が逸れてしまった。このエントリを書き始めたそもそもの動機は、昨夕職場を出るときに聞いた、ジョウビタキと思われる小鳥の鳴き声に端を発している。

 早めに仕事を切り上げて職場の建物を出たとき、名前の語源でもあろう「火焚き」のヒッヒッヒッという声が聞こえてきたのだ。たぶん、職場では初めてのことである。
 隣の建物の近くにある木に止まっているらしい。もう薄暗いし、それこそ私の視力では見つけることはできなかったが、音を頼りに近づいていくと鳴き声がやみ、夕闇に紛れて近くを飛び去っていった。
 黒いシルエットしか見えないし、特徴のある飛び方でもないので、その鳥がさっきまで鳴いていたヒタキであろうと推測するしかない。

 私は言語化できない鳥の鳴き声を認識する能力が低い。「ヒッヒッヒッ」だからジョウビタキの鳴き声だとわかるのだが、そういうふうに言葉にできない鳴き声の鳥は、区別することが非常に難しいのだ。
 それに、同じ「ヒッヒッヒッ」に聞こえても、それがルリビタキである場合もある。そして、両者を聞き分ける自信をお持ちの方から、だいたいは可能とおっしゃる方、そして、私のように少なくとも今のところはぜんぜんダメという者まで、その能力には大きな差があるのである。

 そもそも、年をとると(といっても、高周波音の聴力が悪くなるのは20代からだ)高い音が聞こえにくくなったり小さい音が聞き取りにくくなったりするのだが、そういうわかりやすい聴力とは別に、音を聞き分ける能力というのが確かにある。
 音階・音調・音色・・・それが何によるのかはわからないが、びっくりするぐらい、彼我の能力は違うのである。幸い、測られることはないけれど。

 そういえば、外国語を聞いていても、違う音が同じに聞こえる人とちゃんと違う音に聞こえる人がいる。聞こえている物理的な音は違うはずなのに、「同じ音に聞きたい」脳が勝手に変えてしまうのだ。
 あまり意識はされていないかもしれないが、語学学習には、実際には違う音を「ちゃんと」同じに聞くという逆の能力も実は重要だ。日本語の場合、たとえばひらがなの「ん」で表される「同じ」音がいちいち別の何種類もの音に聞こえたりしたら、日本語を学習する場合には面倒である。たとえ、物理的には聞き分けられないはずのない、明らかに異なる音で「ん」が発音されているとしても。

 さて・・・

 私の場合、言語化できない音は記憶もされにくい。そのせいで、鳥の鳴き声がいっこうに覚えられない。まあ、何によらず努力もしていないのだが、そのためばかりではない。
 たとえば、たった1度しか聞いたことのないサンショウクイの鳴き声は、今度聞いたらおそらくそれとわかる。その理由は、その鳥が「ピリリと辛い」「山椒を食った」時のように「ピリリピリリ」と鳴くという点で、名前から鳴き声までが見事に言語化されているからである。

 ところが、音ではなくて香りなら、言語化などされなくても記憶には残り、しかもダイレクトに、ある種の脳内作用と身体作用を引き起こす
 音や香りをその場でどの程度感じられるかという能力とは別に、それを記憶したり必要に応じて思い出したりする能力、さらにはそこから豊かな感情を引き出したりする能力もまた、測られることのない未知の能力である。

 おそらくは、私の音に関する能力は、人並みかそれ以下であろう。だが、匂いに関する能力はどうなのだろう。人一倍、というほどではないにしても、それなりなのだろうか。

 いずれにせよ、その能力の全体像をどう定義し、それをどのように総合的に評価するのかなどを考えると、能力があるのかないのかを考えること自体がばかばかしくなってくる。

 それでも、何らかのモノサシを設け、あるいは単純な優劣として自分の位置を把握したいと思うことがあるのは、数値評価にはなじまないあらゆることを、何としてでも単純な数値に置き換えて理解したがるという世間の風潮に私も毒されてしまっているからかもしれない。

 言語化しないと鳥の声が聞き分けられないとか、単純化しないと理解できた気にならないとか、数値化しないとものごとが見えてこないとかいう人たちは、自分たちのその理解力や評価力の低さを、一度「単純」に「数値化」してみるといい。

 その能力が測られて目の前に提示されたときにはじめて、自分が評価している対象は自分には評価されるべきではないということがやっと見えてくるだろう。

 自戒をこめて。

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2008.02.04

◆薔薇のない花屋

 このクールで唯一、見る気のするドラマ(他に見逃しているのがあったらすみません)。

 確か、前のクールにはひとつもなかった気がする。

 初回を見終わって、久々に次を楽しみに感じたら、エンドロールに流れる脚本家の名前が「野島伸司」。
 才能、ということを考え、ため息をつく。

 初回だけを見てもストーリーが読める気がして、2回目を見るとそれが確信に変わるのだが、その予想は外れて違う展開を見せるのだろうという期待も同時に生じる。

 予測できるストーリーや背景とは異なる面が毎回少しずつ提示され、徐々に違うところへ連れて行かれることになっていくのだろう。
 連続テレビドラマの手法を心得た手練れのあざとさを感じないわけではないが、それでもうまいなと思わせる。
 (これで予定調和だったらちょっとアレだけど、かといって後味の悪い終わり方もちょっと・・・ どう処理するのか楽しみだ)

 最後の音楽もいいと思ったら、山下達郎。

 ため息をもう一つ。

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2008.02.02

◆おいしい魚屋

 海育ちだ。

 歩いて5分以内の魚屋にも、捕れたばかりの魚が生きたまま並ぶ。死んだ魚は買わない、というぐらいの勢いだ。
 浜値で仕入れた家族経営の小売店が売るので値段も安い。
 それがふつうだと思って育った。

 ところが、大阪郊外に移って二十余年、おいしい魚を買って食べることはほぼ不可能になってしまっていた

 いや、もちろん、おいしい魚屋を探してわざわざ遠くまで買いに行けばあるのだろうが、食に対するそこまでの情熱はない。豊中駅前にいい店があることは、ときどき行く寿司屋のご主人に聞いていたのだが、結局行ったことはない。

 もう一つ、よくお昼を食べに行く寿司屋のご主人から最近別の店を聞いた。その店はときどき買い物に行く商店街の中にあるので、試しに寄ってみた。

 ごくごく小さい、(たぶん)家族経営の目立たない魚屋だ。

 と思っていると、まず、立派なノドグロが目を惹いた。丸ごと1尾を見るのは初めてだし、へぎには「幻の魚」とまで書いてある。聞いてみると、この店でもそうしょっちゅうは入らないらしい。
 大きなズワイガニも気になる。先日カニすきにして食べたのよりも立派で、しかも値段はかなり安い。これはいいかも。

 ノドグロにしようかカニすきにしようかと考えていると、横にある太刀魚が気になってきた。こんな立派なのは見たことがないという感じのが、2つに切られて売られている。

 ノドグロは刺身にできないが、太刀魚はできるという。

 その言葉に背中を押され、太刀魚の下半身の方を買い、焼き魚にする切り身を3つ取ってもらって、尻尾の方を刺身にしてもらう。

 店の人は、「切り身を3つも取って残りを刺身? そんなに取れるかな」という感じだったが、われわれにとっては十分な量が取れた。
 ちょっと高いが、3人分だと思えば驚くほどではない。

 あと、少し気になっていた、カンパチの刺身を買う。そっちは400円と安いのだ。

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 夕食に、まずカンパチを食べて驚いた。この二十余年、この近辺で買って食べた魚の中で一番おいしかったと断言できる。それが400円なのだ。

 こんな店の横を長年素通りしていたとは・・・

 太刀魚の方も、刺身は身が締まり、焼き魚は脂がのっておいしかった。何より、身がたっぷりついている。骨にへばりついた、あるかなきかの身を食べさせられる太刀魚とは別の魚のようである。

 そうしばしばは行けないが、これからはここで魚を買おうと思う。

 もっと早く見つけておけばと思わないでもないが、こういうことにもやはり頃合いというものがあるのだろう。過去を嘆くよりも、おいしい魚を食べられるようになったことの方に目を向けたい。

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