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2012.07.11

●「ふつう」の私たち

 『ことばを尋ねて』(島森路子インタビュー集 1)を少しずつ読んでいる。

 冒頭、「さよなら、さよなら、さよなら」で終わる「日曜洋画劇場」の解説で有名な淀川長治氏との対談で「あれっ!?」と思ったことがあった。

 友達もいっぱいおったし、みんなで連続活劇の遊戯しとって、運動場で僕が鉄棒に縛られて「あれーっ」なんて言ってると、好きな男の子が助けにきたりしてさ。(笑)

 自身に置き換えてみるとちょっと考えられないこの発想と表現に、違和感を覚えたのだ。

 この発言は、もしや、氏が同性愛者であることを表しているのではないだろうか。

 ちょっとした発見をした気分になってネットで調べると、それはもはや公然の秘密であるらしく、逆に、どうして自分は今までそのことに思い至らなかったのだろうという気がした。
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 周囲や本人が、「少なくともことさらにはそのことに触れないでおく」というスタンスを取った場合、特に興味を引かれなければ、私たちは対象をなんら特別な属性を持たない存在だと措定してしまう。

 たとえばここに、ごくふつうのスーツを着た、特徴を感じさせない中年の男がいるとしよう。

 見ていて特に違和感がなければ、障害や病気を抱えているとは思わない。国会議員や裁判官や医師や弁護士や大学教授だとも思わない。泥棒だとも思わないし、特に善人だとも思わない。自殺しようとしているとは思わないし、人を殺そうとしているとも思わない。もちろん、同性愛者だとも思わない。

 だが、そうして「ありそうもない」可能性を排除していって残る人物像は、たとえば「妻と子ども2人を持つ、健康で悩みのないサラリーマン」になってしまわないだろうか。
 もちろん、「妻と子ども2人を持つサラリーマン」だってそれほど多数を占めるわけではないし、健康で悩みのない人など(たぶん)いないだろう。

 しかしながら、積極的にそうは思わないにしても、「ありそうにもないこと」を無意識のうちに排除していくと、人物像はどんどん架空の「特徴のない姿」になっていく。
 なんらかの障害や病気を抱えていることこそがふつうだとしても、こうして作られる人物像からは、そういった「特徴」が捨象されてしまうのである。
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 淀川長治氏は、初めて見たときから、私にとっては「おじいさん」だった。何も考えなくても、そこには氏の妻と子どもと孫が想定され、洋画劇場の映画解説は、孫がおじいちゃんのお話を聞くようなものとなった。

 大人はみんな結婚していると思っていた少年にとって、氏が独身だと知ったことはそれなりの驚きだった。しかし、少年の理性では、それが、母親を苦しめた「家制度」への反発や、氏の性的志向から生じた結果かもしれないと想像することはできなかった。
 「へぇ、独身のおじいさんもいるんだ」とは思っても、理由を知りたいという欲求もほとんどなかったし、仮にあったとしても当時はそう簡単には知り得なかっただろうと思う。

 氏が明治生まれでなかったら、たとえば今も元気でテレビに出ていたら、彼が同性愛者だということは周知のこととなったろう。私たちの社会は、それぐらいには成熟してきている。

 アイスランドの首相もヒューストンの市長も駐大阪・神戸アメリカ総領事も同性愛者である。
 カミングアウトしていない人も少なくないだろう。
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 それが何であれ、私たちはみな、さまざまな「特徴」とともに生きている。その特徴を縦横に紡ぎあわせた姿が私たちひとりひとりだ。そして、その特徴だらけの特異な存在こそが、「ふつう」の私たちなのである。

 もちろん、淀川長治氏も例外ではない。

 さよなら、さよなら、さよなら。

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