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2015.01.25

■初詣は諭鶴羽神社

 「たぶん、今年だけでももう数回は行くんじゃないかと思う」と去年書いた淡路島。
 なのに、その後一度も行かないまま年が明けてしまった。 ちょっとしたきっかけもあり、暖かそうなのでバイクに乗ってでかける。

 以下、「中学生日記」ですので、ご容赦のほど。

 宝塚・有馬・鈴蘭台・西神ニュータウンを通り、垂水インターから明石海峡大橋を渡って淡路S.A.で休憩。
 そのまま高速を降り、県道157号を通って あわじ花さじき へ。思いがけず知人に会ってびっくり仰天。
 時節柄、それほど「花さじき」ではなかったが、眺めはいい。いい季節になったらまた来よう。

 そのまま157号を進むが、だんだん道のレベルが下がり、そのうち、「舗装した獣道」のようになる。さらに進むと、もはやちゃんとした道なのかどうかもわからないレベルに・・・ 昨日、「綺麗に乗ってらっしゃいますねぇ」といわれたバイクが泥まみれ。

 淡路、侮りがたし。

 なんとか海岸沿いの道に出て南下。国道28号だと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。しかしそのうち28号に合流する。そんなにたくさん道はないのだ。

 ランチに適当な店が見つからなかったのでひたすら走り続け、14時前、以前2度ほど行ったイタリアン(本来はフレンチらしい)に滑り込む。マスターもマダムも覚えてくれていて歓待されたのは嬉しかった。

 マスターに見送られて淡路島最高峰の諭鶴羽山へ。

 果たして私のバイクで行けるのかどうか、オフロードバイク乗りのマスターも知らないので教えてくれという。ただ、未舗装部分はあっても300mくらいだろうという情報をいただいたのは嬉しかった。知らなければ引き返していたかもしれない。
 結局、短い未舗装が6箇所あったが、特に問題なく諭鶴羽神社に着けた。

 秘境を抜けてきたとは思えないような広くて立派な神社。もっとひっそりと鄙びたのを予想していた。

 初詣、ということになるのだが、今ごろ行っても初詣なのかな?

 かなり以前から一度来たいと思っていたので、結果的に2015年の初詣がここになって嬉しい。
 山頂まで行こうと歩いたが、思いのほか距離があって途中で引き返す。次回の目標を残しておく意味もある。

 南側へ降りる道は、一応、全線舗装されていた。良識のあるみなさんは、南側からアクセスして往復した方がいいだろう。それでも、車だとすれ違いもできないような難路だけれど。

Dsc05992_169 山を下りたあとは、県道76号、31号(淡路サンセットライン)で一気に 道の駅あわじ へ。トイレ休憩をすませ、明石海峡大橋から山陽自動車道・中国自動車道経由で一路帰宅。

 目的地のあるツーリングの方が大きな充実感を得られることを知る。
 今ごろになって・・・

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2015.01.23

■出会いと別れ

 先日、60km/h くらいで快調に車を走らせていると、インパネに突然バッテリのマークが赤く点灯すると同時に、ステアリングに違和感を覚えた。
 「遊び」の部分を過ぎてさらに切ろうとすると、それ以上動かないような感触がある。

 それでも、ステアリングを左右に振ってやると、針路は一応変更できそうではあった。
 3車線の一番内側を走っていたので、「どうしようかなあ」と考えながら、ハザードライトをつけて徐々にスピードを落としつつ、同じ車線をなるべくまっすぐ走る。次の信号が赤になったのでふつうに停止でき、ちょっとほっとした。

 ステアリング以外はまったく正常のようだ。

 信号が青になる。
 こんなところに止まっていても邪魔なので、ハザードをつけたままゆるゆると前進した。
 インパネの情報からするとバッテリーに異常があるのだろうが、半年前に新品にしたばかりだし、ハザードもふつうに点灯している。エンジンもブレーキも正常。変なのはステアリングだけだ。

 ともかく邪魔にならないところまで移動してから停止して、ディーラーに電話しようと考えた。止まれる場所に入るのにステアリングを切らなければならなかったのだが、これが岩のように重い。重いというより固いといった方が適切なくらいだ。
 徐行していたから幸いそういうことにはならなかったが、ふつうに曲がろうとしていたら間違いなく曲がりきれずに壁にぶつかっていただろう。

 ディーラーに電話すると、「ベルトが切れたためにダイナモの発電もパワステへの油圧供給も止まったのではないか」という話だった。なるほど、それで「バッテリーに充電できていません」という意味でマークが出たのだ。
 だが、パワステ異常を知らせるウォーニングはなし。想定外ということなのだろうか。

 ステアリングが重いことと、バッテリーに充電されていないこと以外に問題はないことを確認し、そのままディーラーへ向かった。わりと近所なのである。

 しかし、「止まると余計に重くなりますよ」という言葉通り、再び走り出すためにステアリングを切るのがけっこう大変だった。走り出してしまえばまあ、「なあに、昔の車にはパワーステアリングなんてついていなかったのだ」などと強がることもできる・・・かと思ったが、明らかにそのレベルを超えていた。
 ひたすら安全運転でディーラーにたどり着く。

 その2週間ほど前だったか、ベルト周りから異音がするので見てくれとディーラーに行ったばかりだった。私はちゃんと、異常を事前に察知していたのだ。
 だが、ディーラーでは異音が再現せず、そのままになっていた。
 ちょっとバラして見てもらえばよかったと思ったし、ディーラーも客の申告をもう少し真剣に受け止めてもよかったはずだ。そうしていればこんな故障は起こらなかったのに・・・という考えもよぎったが、何も言わなかった。

 結局、ベルトは正常だったのだが、テンショナーが外れて、なくなってしまっているということだった。ちょっと考えたものの、修理費が案外安かったので直してもらうことにした。
 ___

 長くなったので、一足飛びに結論?を書こうと思う。

 それからわずか9日、車が修理されてからだと6日。思いがけず・・・というわけでもないのだが、新しい車を買ってしまった。

 これまでも2回走行不能になった車(1回目はここ、2回目はここ)だが、止まる分にはまあ危なくはない。
 しかし、今回の故障が交差点やカーブで起こっていたら、高い確率で事故になっていただろうと思う。山や海沿いのワインディングなんかを走っていたら、曲がれずに谷底や崖下へ落ちた可能性も空想次元ではない。
 そんなことで大怪我をしたり死んだりしたらたまったものじゃない。

 それだけでなく、「死人に口なし」になってから、無能な警察に「ハンドル操作の誤り」などと認定されたらさらに浮かばれない。
 いや、たとえ有能な警察でも、ぐちゃぐちゃに壊れた車を詳細に分析して「パワーステアリングの故障による事故」などと解明してくれる可能性はほぼゼロであろう。

 外観は新車同然なのだが、何しろ車齢13年半。走行13万3千km。地球を3周以上しているのだ。
 20年、20万kmを目指そうかという気もしていたが、そろそろ潮時か・・・
 ___

 そんな私の気持ちも知らずに、(たぶん)インド洋上を日本に向かっていた一台の車が、書類にサインした瞬間に私のものになった。これから2週間ほどかけて、少しずつ私に近づいてくる。
 そう思うと、なんだかちょっといじらしいような気がした。大切に乗ってやろうと思う。

 そして・・・

 今でもそのデザインや走りに惚れ込んでいる愛車とは別れねばならない。幼いころからのアニミズムがこの年になっても抜けきれない私としては、相当につらい。

 だがまあ、所詮、モノはモノだ・・・

 新しい車はダウンサイジング、ダウングレード。
 時代の空気か、人生への諦観か。

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2015.01.17

■1995年1月17日に寄せて

 阪神淡路大震災から20年経った。
 当時2歳3か月になっていたのに、まだほとんど一言も喋らず、発達の遅れを心配していた息子は、春が来れば大学4年生になる。それくらいの月日が経った。

 今ゆっくり何かを書いている余裕はないけれど、震災の数年後に書いていた小説(笑)の一部がハードディスクに眠っているのを思い出したので、ここに掲載することにする。
 世に出る可能性はないが、ディスクの肥やしにしておくのはちょっともったいない気がしたので・・・

 念のため、以下はあくまでフィクションである。ぼくに娘はいないし、妻は○○だ。義父母は神戸に住んでいない。
 だが、ほとんどは当時の実体験に基づいている。
 あくまで断片なので、始まりも終わりもない。やや長いが、ご笑覧いただければ幸いである。

  _____

 ぼくは阪神大震災を経験している。あの震災については、あらゆる人があらゆるメディアを通して活発に発言しているので、いまさらぼくがとりたてて述べることはあまりない。ぼくではない、もっと力のある人なら、たとえば村上春樹氏が地下鉄サリン事件に関して行ったような、報道の洪水の中にあっても決定的に欠けている種類の発言ができるかもしれない。でも、ぼくにできるのは個人的な体験を少し述べることぐらいだ。
 あの朝、なぜか早く目が覚めたぼくは、もう一度寝ようとして布団の中でまどろんでいた。すると突然、ガーンという音とともに、床が突き上げられた。かろうじて上半身をもちあげたものの、金縛りにあったようにその場から動けなかった。
 「何だ!?」と声に出して叫ぶことはできたような気がする。今思い出すとばかげているのだが、ぼくはとっさに、マンションにミサイルが命中したと思った。不思議に爆弾だとは思わなかった。くっきりと「ミサイル」だった。でもなぜ、こんなところに・・・
 主観的には長い時間を経た後なのだが、実際には数秒後だろう、ぼくにも地震だとわかるタイプの、何度も経験した揺れがはじまった。しかし、揺れ方は経験済みだったが、その大きさははじめての体験だった。
 地震だとわかって金縛りが解けたぼくは、妻を守るためにその上にかぶさろうとして、その姿を探し求めた。隣の部屋で本箱が倒れる音がする。ガラスの割れる音や、何の音とも判断のつかない音が交錯する。妻がいない。布団すらない。もう起きているのだろうか。だとすれば、何かの下敷きになってはいまいか。
 ぼくらの寝室には家具が何もなかった。東京で何度も地震を経験していたぼくは、寝室に家具を置くことは恐いことだと思っていた。それは、関東大震災を経験した祖母のいいつけでもあった。しかし、今のぼくのマンションで、一部屋にまったく家具を置かないことにすると、他の部屋が家具で埋まってしまう。ぼくと同じ神戸出身で、大きな地震など起こらないと思っていた妻は、ぼくのこの用心を「かわいい」といって笑った。
 揺れがおさまりかけ、飛び起きたぼくは、妻をさがして家中歩き回った。床に散乱したガラスで切ったのだろう、足が血だらけになっているのに気づき、その痛みを自覚したときにはじめて、妻はもうこの世にいないことを思い出した。妻が死んで二年あまり、妻のいない生活にすっかり慣れてしまっていたはずなのに。
 ぼくはその朝、久しぶりに声をあげて泣いた。
 地震から三日後、ぼくは妻の実家へ向かってバイクを西へ走らせた。報道によれば、妻の実家周辺は、火災による被害がもっとも大きかったところの一つだった。どうしても連絡が取れないので、まさかとは思いながらも、気になって仕方がなかったのだ。
 途中、地震による惨状は確かにひどかった。壊れたビルや家屋のために通れなくなった道を迂回しながら、西宮市・芦屋市を抜け、神戸市に入っていった。しかし、落下した高速道路や壊れたビルや家屋を間近に見ても、それほどの感慨は抱かなかった。
 それまでの三日間で、ぼくはすでにその種の写真や映像を浴びるほど見ていた。ぼくの想像力が豊かなのか、現実をとらえる感受性が欠如しているのかどちらかなのだろう、無惨に壊れた巨大建造物の実物を見ても、「ああ、これがあれか」というたぐいの感想しか持たなかった。ちょうど、ルーブル美術館を訪れた観光客がミロのビーナスやモナリザを見て持つ種類の感想と、それは似ていた。
 しかし、火災で焼け野原となり、濃淡のある墨色の光景が支配する場所に至ったときに、その感想は一変した。さすがに火は消えていたが、そこここからまだ白い煙が薄く細く立ちのぼっている。それ自体は映像で見たのと同じ風景だ。しかし、そこには鼻をつく強烈なにおいがあった。屋根や梁や柱の下敷きになり、生きたまま焼かれた人間のにおいだ。
 あんな形で妻子を同時に亡くしたショックのために、ぼくの記憶から欠落していた妻子の骨拾いのときの風景が、突然目の前に浮かんだ。記憶の底に沈澱していた当時の様子を、においが甦らせたのだ。
 このにおいは、あのにおいだ。ぼくは痛切にそれを感じた。
 もしかすると、別に人間でなくても、ものが焼けて炭になれば、とりわけ有機物が焼けて灰になれば、似たようなにおいがするのかもしれない。しかし、それまでにいろんなものが焼けるにおいを嗅いでいたが、このにおいを嗅いだのは、間違いなく、その日でまだ二度目だという確信がぼくにはあった。
 倒れた電柱やがれきで通れない道を何度も迂回し、なんとか妻の実家のある場所に近づいたが、どこが目的の場所かがわからない。それらしき場所を闇雲に走っていると、ときおり見覚えのある道に出るのだが、なにしろ、建物がほとんど焼失してしまっているため、自分がどこにいるかはっきりとわからないのだ。
 道ばたにペットボトルを並べて「千円」という札を下げていた人に妻の実家の住所を告げて場所を聞くと、
 「おれ、この辺のもんとちゃうから」
と言われた。そのときは何かを考える余裕もなく、なぜペットボトルが千円もするのかという疑問すら思い浮かばなかった。
 そのうち、腕に腕章をつけて道ばたに置いた椅子に座り、二人で世間話をしている自治会役員とおぼしき初老の男たちを見つけたので、同じように住所を告げて聞いてみた。二人は、一瞬黙り込んで顔を見合わせた後、年かさの人のほうが、
 「その辺なあ、この向こう側なんやけど、丸焼けになってしもたとこや」
と、ぼくと目を合わさずに地面を見ながら教えてくれた。
 ぼくは、妻の両親に対して特に親密な感情を持っているわけではない。妻が死んでからは、ほとんど行き来もない。妻と娘の墓に参ると、すでに見事な花が供えられていたことが何度かあり、それでその存在を意識することが多かった程度だ。しかし、その可能性があるからこそここへ来たとはいえ、現場を目の前にして「丸焼けになってしもた」といわれると、ちょっと平静ではいられなかった。
 「それで、あの、もし避難しているとしたら、どこにいるんですか」
 ぼくは、教えられた中学校に向かった。川を越えると目的の場所なのだが、橋の手前がひび割れて、三十センチ近い段差になっていた。少し考えてから、ギアをローに入れると、ぼくはクラッチを急激につないでバイクを急発進させ、前輪を浮かせて通過した。オフロードバイクに乗りはじめて十年以上になるが、いつもおとなしい走り方しかしないぼくがそんな走り方をしたのははじめてだった。
 中学校には、テレビで見たままの光景が広がっていた。実際にここが映し出されたのかどうかはわからない。しかし、校庭の車やテントや焚き火、そして、まばらに、見た目はのんびりと、そこここで立ったり座ったりしている人たちは、テレビで見たのと同じだった。
 体育館の入り口で、ぼくは立ち尽くした。そこにもテレビで見た映像が展開していた。しかし、カメラに写されていたのとは違う被災者たちがそこにはいた。
 広い体育館は人でいっぱいだ。床には隙間のないほど布団が敷きつめらている。しかし、そこには生気というものがなかった。人の動きはあるものの、全体として、そこは死んでいた。「お通夜の席のように」などという形容をよく使うが、そういうのとは違う。ここにいる人たちは、死んだだれかではなく、今現に生きている自分自身を追悼しているように見えた。
 体育館全体を見渡しながら、その雰囲気に呑まれていたぼくは、やっと、この中から義父母をどうやって探せばいいのかという現実的な問題に気がついた。「放送してもらおうか、校庭にいるかもしれないし」と考えてから、それが馬鹿げた考えかもしれないと思いあたった。
 ここに来るまでにも、この辺の信号はすべて消えていた。もしまだ停電しているとすれば、放送などできないだろうし、それよりも、ひっきりなしにここを訪ねてくる誰彼の要請に応じていちいち放送などしていたら、被災者はたまったものではないだろう。
 バイクウェアを着た若い男がいつまでも入口に立ち尽くしているのに気づいた誰かが声をかけてくれるのを、ぼくは待った。ぼくのような立場の者はおそらく何人も来ているはずだから、そういう人がふつうどうするのかを、教えてもらおうと思ったのだ。自分の方からここの人たちに声をかける勇気はなかなか出なかった。
 しかし、いつまで待ってもだれも声をかけてくれなかった。しかたなく、近くの老婦人に、これこれの人をさがしているんですが、どうすればいいのかということを聞いた。我ながら、要領を得ない聞き方だったと思う。ぼくはあまりちゃんとした答を期待していなかったが、老婦人の返事は明快だった。
 「そんなもんあんた、そこへ立って叫ぶしかあれへん」
 この雰囲気の中へ大声を出すのは非常な勇気が必要だった。それでも、一瞬のためらいの後、ぼくは妻の実家の姓を叫んだ。
 「いらっしゃいますかあー」
 その瞬間、なぜかふと冷静になり、姓が田中や山田でなくてよかったと思った。
 人々はのんびりとぼくの方を見た。視線が集まった。そのとき、奥の右手の方で、女の人がふらふらと幽霊のように立ち上がった。義母だった。
 期待していなかった。焼け死んだかもしれない、別の場所に避難しているかもしれない、校庭や校外にでかけているかもしれない、そう思っていた。しかし義母はそこにいた。
 火は隣まで来たが、家は焼け残ったそうだ。「もう住まれへんけど」。お義父さんは、近くにある勤め先に出ているという。「仕事はでけへんけど、せんならんことはぎょうさんあって」。
 ともかく無事をよろこび、「よかったですねぇ」といったとき、ぼくの目には涙がにじんでいた。ぼくはこんなにこの人たちのことを思っていたっけ?
 義母のほうは、きょとんとした顔をしていた。
 お金には困っていないことを確認し、ぼくは、持ってきたカロリーメイトを渡した。自宅も被災地なので、近くの店の棚はどれもほとんど空っぽで、それしか買えなかったのだ。商品のない棚というのは凄みがあった。特に、ほとんど何もないコンビニの棚に、忘れられたようにいくつかまばらに残っている品物のある風景の凄さは、ぼくを圧倒した。
 カロリーメイトは結局役立たなかったと思う。帰り際に気づいたのだが、義母の布団の横には、手をつけていない幕の内弁当が積んであったからだ。全国的に有名になったこの被災地は、被害の大きかった地域の西の端のほうにあたるのも手伝って、西のほうからの救援物資がごく早い時期に供給されていたことをあとで知った。

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2015.01.09

■「赤字」の家計

 2013年の4月から家計簿をつけている。家計簿というか、Excelの表に支出を入力している。

 2013年は4月から始まったので、1年の支出を集計しなかった。翌3月までの年度で計算してもよかったのだが、税金の計算なんかは暦年だし、面倒くさかったのでやらなかった。

 2014年は1月から12月まで揃ったので、初めて合計を計算してみた。

 ・・・まあそんなものかと思ってはいたが、その金額の大きさにはやはりちょっと驚いた。

 要するに、支出が私の手取り収入を超えているのである。

 うちは家人も働いているので財政状況に当面の緊迫感はないが、もし私一人で家計を支えているのであれば赤字だということになる。

 この1年、たぶん、カフェなんかには一度も行っていない(あ、行ったことがある・・・と思ったが、それはタダ券があったからだ)。それどころか、缶コーヒーやペットボトルの飲料とかすら、数度くらいしか買ったことはない。
 先日書いたが、着ているシャツも履いているズボンも1000円未満。散髪代は1080円。
 それほど節約しているというのに、なんという支出だ。

 そんな細かい節約など焼け石に水だとしても、去年は家の大規模修理もなかったしバイクも買っていないし(一昨年は両方あった)、海外旅行にも行っていない。飛行機を飛ばすのはやめたし、同じ車に13年以上乗っている。酒も煙草もギャンブルもまったくやらない。
 幸いというか家のローンも終わっており、家賃はもちろんゼロだ。子どもは一人しかいない。

 それでどうして支出がこんなことになるのか。

 これでもし、ローンなり家賃なりを支払っているとすると、赤字も赤字、大赤字になる計算である。

 私は一応、安定した職場で正規に雇用されて働いている。給与は高くはないが、体系は年功序列のはずだ(この10年間でむしろ下がってるけど)。年齢はアラフィフである。
 それでこんな状態なら、世間の人はどれだけ支出を切り詰めなければいけないのかと心配になってくる。

 何か特に贅沢をしていたり、不要なものに費やしているのかと思ってざっと見たが、何もない。もしかするとブラックホールとかに吸い込まれているのではないかという気さえする。確かに?、消費税だけで数十万円も払っている計算になるのにはちょっとしたブラックホール感がある。

 所得税だって住民税だって社会保険料だって、(収入の割には)ものすごい金額を最初から掠め取られているのに、そこからさらに消費税を取られているのだ。固定資産税や自動車税やガソリン税などもある。そして、ガソリン税にまで消費税を上乗せして支払っている。

 とはいえ、家人が働いているお蔭で、現実の家計にはむしろ余裕がある。
 だが、3人家族でローンもないのに、私一人の収入で「食べていけない」のは明らかに使いすぎだ。でもいったいどこに??

 やっぱり家計を見直してもっと節約すべきなのだろうか。
 いま以上に安いシャツもズボンも散髪もないと思うのだが、そこじゃないのかな ^^;

 それにしても、シングルインカムで子ども3人・・・なんていう人は、いったいどうしているんだろう?

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2015.01.06

■アマゾンに完敗

 間違っても「アマゾンに乾杯」ではなく、完敗。

 かつてここに、「(無理のない範囲で)個人的アマゾン不買運動」について書いた
 一番の理由は、アマゾンが日本に税金を納めていないことだ。

 東京国税局が2009年に消費税だけでも支払えと求めたのがきっかけで上記のエントリを書いたが、2010年には引き下がっているという。法人税はもとより支払っていない。
 その後有効な立法措置がとられたという話は寡聞にして知らないので、おそらく今もアマゾンは基本的に日本に税金を納めていないはずだ。

 イタリアでは2013年12月、イギリスでも2014年12月に、amazonやGoogleやfacebookなどへの課税を可能にする法案を成立させている(いわゆるGoogle税)。
 この種のグローバル企業が、実際に利益を上げているのとは別の、税金が安い国や州に本社・支店・営業所機能を置き、合法的に脱税しているのを防止するためだ。
 日本もぐずぐずしていないで、早期に類似の立法を行うべきであろう。

 いずれにせよ・・・

 もはや、私が個人としてアマゾン相手に事を構えるのは無理になってしまった。

 「♪早い・うまい・安いの三拍子」ではないが、「うまい」を「楽」に変えればその通りだし、品揃えも、現実の商店とは比べものにならないくらい豊富である。
 先日注文したドライブレコーダー取付のための部品でも、カー用品店で買うより3割ほども安い。送料はもちろん無料、店に出かける時間も売り場で探す手間も不要。買う商品が決まっていれば、多くの場合、アマゾンが安くて早くて楽だ。
 年末にはとうとう、蛍光灯まで2本、アマゾンで買ってしまった。現実の商店で価格を確認することすらしなかったが、安いに決まっているのである。

 完敗だ。
 もう、なるべくアマゾンで買わないように やせ我慢するレベルは超えてしまった。

 買い物を楽しめるようなものや、日々の食料品なんかは、まだまだ本屋や商店やスーパーで買うことも多いが、もともと買い物は好きではないし、そういうものもどんどん減ってくるのではないだろうか。
 アマゾンではないが、食料品だって金額ベースで半分以上は宅配で取っている。

 税金のことだけではなく、アマゾンが種々の商売、特に個人レベルの商店をどんどん廃業に追い込むだろうことも「(無理のない範囲で)個人的アマゾン不買運動」の理由だった。
 だがそれも、3割(以上)も安い価格を提示されたのでは、あえて高い方を選ぶのはさすがにつらい。

 1月4日(日)に隣家に来た宅配のワンボックス車が後ろを大きく開けているのを目にしたのだが、目に入る限りの荷物はすべて!一つ残らずアマゾンの箱であった。
 アマゾンの特約便かもしれない。しかし、そういう配送車が成立するくらい使われているのは間違いないのだ。

 こうなってしまったら、素直に「アマゾンに乾杯」しながら、その安さと利便性に感謝して使えばいいと思うのだが、やはりそれはできず、後ろめたさと敗北感を抱えながら「カートに入れ」「注文を確定」している。

 つくづく損な性分だと思う。

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2015.01.01

■ホワイト元日

 2015年1月1日。
 午前、家人の実家でお節料理をいただき、いったん帰宅して年賀状を書いた後、録画されていた「超踊る!さんま御殿!!」を見ながらソファーに横になっていた。

 そろそろ向こうに戻ろうかなと思って起き上がり、何気なく外を見ると一面真っ白・・・

 雨と違ってほとんど無音で降るからすごい。朝はきれいに晴れていたので、天気予報の「夕方から雪」などというのはほとんど忘れていた。ちょっとした感動。

 家人の実家へは、途中で四駆に切り替えたりしながら走ったが、道の上にはほとんど雪はなかった。
 夜、さっき帰ってくるときも、念のため息子には運転させずに私が運転したが、気温は0℃前後でも、路面はまったく問題なかった。

 問題は明朝である。
 すぐ近くの家人の実家とは違って、70kmくらい離れた私の実家に行くことになっている。この調子だと路面の凍結とかが心配だ。特に、中国自動車道は下手をすると通行止めになるかもしれない。

 クルマも、家人のパートタイム四駆は、新しいとはいえノーマルタイヤ、私のフルタイム四駆は、スタッドレスとはいえすごく古い。

 どちらに乗って行くのが吉と出るか、ちょっとした思案のしどころである。

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■壽保千春

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