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2015.02.20

◆「立春」への無理解

 いささか旧聞に属するが、2月15日の朝日新聞「天声人語」は次のような文章で始まっていた。

 立春を過ぎれば冷え込みは余寒だが、「余りものの寒さ」とはいかず、今年も名ばかりの節目である。2月という月は、暦の上では春ながら、実のところは冬がきわまる。しかし寒さの底から、何かが兆し始めるときでもある
 幼いころから聞き飽きた常套句「暦の上では春」というのが、ここでもまた繰り返されている。今回はご丁寧なことに「立春」が「名ばかりの節目」とまでこき下ろされている。「寒さの底から、何かが兆し始めるときでもある」と自分自身で言いながら、「立春」の意味に気づいていないのだろうか。

 立春というのは、「暦の上では春ながら、実のところは冬がきわまる」時節のことを言うのではない。まさに「寒さの底から、何かが兆し始めるとき」を言うのである。
 つまり、「もう寒さは底ですよ、これからはたゆたいながらも少しずつ暖かくなってきますよ、いよいよ春がスタートしますよ」というのが立春なのである。寒さが極まっているのは当たり前で、極まっているから立春と呼ぶのだ。

 もちろん、立春は決して「名ばかりの節目」でもない。
 もはや冬至と春分の中間地点にいて、現実に日はどんどん長くなっている。今年始めて私が満開の梅に気づいたのは立春から5日後であった。その他の木々の芽・花芽も日ごとに膨らんでいる。カワガラスなど、気の早い鳥は繁殖を始める。

 マスコミが毎年のように「暦の上では春ですが、まだまだ寒いですねぇ」と繰り返すのをいつも苦々しく思っていた。そういう常套句を何度も聞かされることで、人々の立春への無理解は定着・強化されてしまう。
 まして、少なからぬ人々から教養の指針のように思われている(毎日ノートに書き写しているという人まで相当数いるらしい)「天声人語」がこのような認識では、背筋がうすら寒くなる。

 立春は決して「名ばかりの節目」ではない。「寒さの底から、何かが兆し始めるとき」が立春と名づけられたのだ。そして、その感性を私たちは共有してきた(はずな)のである。

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2015.02.16

◆牛窓の芸術家

 納車の次の日は土曜日だったのだが、あいにく同僚のピンチヒッターで休日出勤したので、遠い方の職場を往復しただけで終わった。

 その翌日の日曜日、慣らしを兼ねて岡山県の牛窓まで出かけた。
 途中、新装なった姫路城
を車窓観光し、岡山ブルーラインを走った。前者は何年ぶりだろう、十数年か。後者は、元ハンセン病患者の療養所を訪れたとき以来だから、7年になる。

 目的地の牛窓は「日本のエーゲ海・恋人の聖地」だそうだが、私はもちろんひとりだった。
 いわゆる「平成の大合併」のためだろう、いつの間にか瀬戸内市になっている。
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 夜、寿司屋に入ると、ひと組だけ先客がいた。ちょうど私の両親くらいの年のカップルで、おそらくは夫婦だろうと思った(が、長年連れ添った名字の異なる「相棒」らしい)。

 男性の方が話しかけてきて、町をあげて観光に力を入れていると言いながら、受け入れ体制ができていないことなどを嘆いておられた。
 「私もここの人間ではないんだけれど、もう20年も住んでいるので」とおっしゃっていたが、お話の端々から感じられる情熱は、故郷を思う人のそれであった。

 おふたりが出られた後、寿司屋のご主人に、「今の方、芸術家か何かですか?」と聞いてみた。
 リタイアしたサラリーマンには見えない。竹久夢二で有名な町でもあるし、ここで絵でも描いていらっしゃるのかと思った。

 意外なことに、というべきか、やはり、というべきか、何と、あの「かあさんの歌」(♪かあさんが夜なべをして手ぶくろ編んでくれた 木枯らし吹いちゃ冷たかろうてせっせと編んだだよ)を作詞作曲した窪田聡さんだということであった。
 あの名曲の・・・

 芸術家に見えるはずである。

 有名な人に会うことはほとんどない。まして、向こうから話しかけてきてくださったり、お話を伺ったりするのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 正直、お名前もお顔も存じ上げなかったのだが、急に親近感が湧くから不思議である。

 ネットで調べてみると、牛窓を拠点にさまざまな活動をなさっているようだ。
 なんと、自宅横にホールまで作って演奏会を開いている。

 春のコンサートに出かけてみようかという気もしてきた。バイクで? クルマで?

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2015.02.07

◆ようこそ、21世紀へ

 新しい車を買うと、突然、21世紀になった。

 いや、昨日まで乗っていた車だって、21世紀になってから製造されたものだ。
 しかし、前世紀の残滓を引きずっていたそれは、インパネの表示は単色のドット文字、カセットデッキが標準でついていて、カーナビはないという仕様であった。確か、オプションですら選べなかったので、仕方なく後付けした。

 今度の車は、「走ることもできるコンピュータ」である。ちょうどiPhoneが「電話することもできるコンピュータ」であるのと同じように。

 新しい車に乗っている人には当然のことかもしれないが、今度の車は、持っているキーを使うことすらない。
 ドアを開けようとすれば自動的にロックが解除され、ボタンを押せばエンジンがかかる。降りてからドアに触れると今度は施錠され、ドアミラーが折りたたまれる。

 iPhoneとは一瞬で仲良しになり、ケーブルをつなぐことも面倒な操作をすることもなく、車自体が電話になる。スピードメーターとタコメーターとの間に電話帳が表示され、ステアリングに手を置いたまま電話がかけられるし、かかってきた電話に出ることもできる。

 CD/DVDプレイヤーもついているのだが、そんなものはいらない。iPhoneの中にある音楽も映画も、スピーカーから流し、画面に映し出すことができる(映画はiPhoneに入っていないけれど)。
 その画面は、ダッシュボードからするすると生えてきて、用がないときはスムーズに格納される。

 エンジン特性や変速タイミング、ステアリングの重さなども好みに応じて変えることができる。
 あるいはまた、追突しそうになったら自動で止まるし、前の車の速度に合わせて車間距離を保ったまま追従できる。しかも、まるで人が運転しているかのごとくスムーズに、停止や発進までやってのける。

 それでいて、2001年に買った前の車よりはるかに安いのである。もっとも、排気量は半分以下で四輪駆動でもないが、雪道を走るのでなければ、走行性能にも何の不満もない。燃費も優秀だ。
 そうそう、トルクコンバーターを介したオートマチックではなく、それぞれのギアでクラッチがダイレクトにつながる自動7段変速で、もちろん手動変速もできる。
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 納車時に説明を受けていたとき、横にいた家人は、「こんな車、私にはとても運転できません」と営業マンに言っていた。まあしかし、運転自体はもちろん、従来の車と同じである。

 ただやはり、こういうコンピュータ(というかインターフェース)に慣れていない人にとっては大変なようで、ディーラーは納車後も取扱説明に追い回されているそうである。
 そういう意味では、技術は常に過渡期であり、21世紀もなかなか一筋縄ではいかない。

 もうひとつ。
 こういう車に抵抗がなく、むしろ嬉々として使う私も、別に手放しで喜んでいるわけではない。

 つい1年半ほど前に買ったバイクはかなりアナログで、風防には方位磁石を、メーターの下には温度計を後から貼り付けたりしている。エンジンはコンピュータ制御の燃料噴射で、メーターはデジタル表示ではあるものの(でも白黒)、それ以外に21世紀を感じさせるものはほとんどない。ギアだってマニュアルを選んだ。
 だが、それはそれでいいのである。いやむしろ、もっとアナログ(&アナクロ)であってもかまわない。そんなバイクやクルマは、もはや新車では手に入らないけれど。
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 懐かしさを感じさせるものと未来を感じさせるもの。
 その双方に魅力を感じられる自分に、珍しくちょっとした満足感を覚えている。

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2015.02.05

◆なぜ墜落したのか

 着陸はともかく、離陸が難しいと思ったことはない。

 初めて飛行機を操縦して離陸させるときですら、例外ではなかった。

 フルスロットルにして、滑走路の中心線に沿って加速していく。とにかくまっすぐ進めばいいだけだ。そして、速度が55ノット(約100km/h:もちろん機種などによって異なる)になったところでゆっくりと操縦桿を引けば、機はふわりと浮き上がり、速度を上げながら上昇していく。

 機首を上げすぎないように注意はするものの、難しいことは何もない。

 もちろん、技量に差はある。
 特に、離陸してから滑走路中心線の延長上をまっすぐ飛んでいけるかというと、それは難しい。私などはしょっちゅう、「後ろを見てください。まっすぐに上がってますか?」と聞かれ、そのたびに風に流されているのを自覚させられた。
 そう言われるまで気づかない進路のズレを、教官はとうに知っているのだ。

 だがまあ、少々ずれていようがどうしようが何の問題もない(すみません、先生)。
 とにかく、前後左右、それに上下にも、障害物は何もないのだ。機首を上げすぎて失速(揚力を失って飛べなくなること)しないようにさえ気をつけていればいいし、気をつけるまでもなく、そんなに機首上げをしてしまうことはありえない。

 それでも、免許を取得するまでは、繰り返し繰り返し、離陸失速からのリカバリー訓練をやらされる。
 訓練では、ひたすら機首を上げ続けて、「こんな鯉の滝登りみたいな・・・」というような状態にすることで無理矢理失速させ、そこから機首を落としてリカバリー操作に入るのだが、通常の離陸でそんな極端な機首上げを行うことは考えられない。

 実際の離陸中に万一失速しそうになったとしても、機を水平に戻す程度でそのまま飛行を続ければ何の問題もないはずだ。
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 以上はもちろん、機体が正常な場合である。

 昨日台湾で墜落したトランスアジア航空の飛行機には、もちろん、何らかの異常があったに違いない。
 しかしながら、ともかく離陸して飛んでいる以上、たとえば片方のエンジンが完全に止まっても、そのまましばらく水平飛行を続けることは何も難しくない(ように設計されている)。上昇能力は落ちるが、高度を上げることも可能だ。

 そして、外的要因ではなく、エンジンが2つとも同時に故障で停止するというのは天文学的な確率になり、通常は「ありえない」とされている。
 「ハドソン川の奇跡」の時は、ジェットエンジンに鳥が吸い込まれたことが原因で双方のエンジンがアウトになったが、今回の機体はプロペラ機である。

 また、映像を見ると、高速道路と交差しつつ主翼が車とぶつかった時点では、ほとんど90度バンクしている。たとえエンジンが両方だめになっていたとしても、滑空比の高い機体だから、しばらくはグライダーのように飛べるわけで、あんな姿勢になることもありえない。
 現場の状況がよく分からないのだが、もしかすると、わざと川に落として被害を最小限に食い止めるために無理な操縦をしたのかもしれないけれど。

 あるいは、エンジンも操舵系統も両方ダメになっていたのだろうか。それこそ天文学的確率だが、そうでも考えないと、あんなことが起こるとは到底信じられない。
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 乗員乗客の多くが帰らぬ人となった。深く哀悼の意を表するとともに、怪我をされた方々の一日も早い回復を祈る。

 残念ながら、事故原因について語ることができる機長も副操縦士も亡くなっているが、同様の事故が起こる確率を少しでも減らせるよう、このありえないような事故の原因究明を進めてほしい。

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2015.02.01

◆「明日も喋ろう・・・」

 「明日も喋ろう 弔旗が風に鳴るように」

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