« 2015年12月 | トップページ | 2016年2月 »

2016.01.29

■マイナス金利に思う

 日本銀行が史上初めてのマイナス金利政策に踏み切った。外国為替市場も株式市場も大荒れである。

 もちろん私は経済の専門家などでは全然ないけれど(むしろ経済の素人ですらない)、この政策は成功しないと思う。
 日本経済は、お金が市場に出回れば景気がよくなるというような単純な構造にないからだ。
 ___

 もう十年以上前になるが、某発展途上国に出かけたことがある。そこでの物売りたちとのやり取りが今だに忘れられない。

 そこそこ魅力的な!土産物を買ってもらおうとがんばっている人たちが、頼みもしないのに値段をどんどん下げてくる。

 こちらは買う気がないのだが、とりあえず眺めてしまって話しかけられてしまったものだから、無視するのも失礼な気がして、「いや、いらないいらない」と言いながらその場を離れられずにいると、「なぜ買わないんだ」「いったいいくらなら買うんだ」と、心底不思議で仕方がないというように尋ねられた。

 「これくらいの金額、あなたにとっては何ということもないだろう」

 私はその時、彼我の感覚の違いが実感としてわかった気がした。今でもたぶん、間違っていないと思う。

 豊かではない社会では、基本的にモノは何でも欲しい。それを手に入れない理由は、出費するお金がないか、出費に見合う価値がないと判断したかのどちらかだ。
 だから、値段がどんどん下がればいつかは買い手の希望と折り合うし、たとえばもしタダなら、何でも手に入れる。

 ところが、豊かな社会では、たとえタダだと言われても、ほとんどのモノは要らない。「そこそこ魅力的な土産物」は、値段がいくらとかいう以前に、どんなに安く買っても、「ものが増えて家が片付かず、よけいごちゃごちゃするだけ」のものになりかねない。

 日本では戦後、消費は美徳から快楽になり、それも前世紀末には終わってしまった。

 今ごろになって時代を巻き戻そうとしても(いや、巻き戻そうとしている自覚すらない重症のような気がするが)、成功するはずがない。
 子どもがこれだけ減って、その数少ない子どもたち自身が二言目には「いらない、いらない」というような社会なのだからなおさらである。
 ___

 私が土産物を見ていたのは、欲しいと思ったからではない。ましてや、欲しいのに高くて買えないからではない。初めて行った異国の文物がそれなりに珍しかったからにすぎない。

 どうせ買わないのなら、相手が勝手に値段を下げていくのを無視して、その場を立ち去るべきだったのだろう。その方が彼らも無駄な労力を使わずにすむ。「失礼にならないように」などというのは、相手のためではなく、自分のための身勝手な論理だ。

 でも、毎日観光客に土産物を売っている彼らは、私に会った時点ですら、「私たちがなぜ買わないか」を理解していなかったのだろうか・・・
 ___

 いくら史上初のマイナス金利政策をとっても、資金は通常の財やサービスの消費に回らない。企業の内部留保や個人の貯蓄として積み上がり、せいぜいで金やプラチナを買ったり外貨を買ったり株を買ったりと、金で金を買うような経済を増やすだけだろう。

 いま豊かな人たちも将来は不安なのだから。
 
 
 
 経済に素人以下の男のタワゴトだ。外れることを願っている。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2016.01.27

■弁護士は何をしているのか?

 「号泣県議」として世界的に有名になってしまった野々村竜太郎被告の初公判が神戸地裁で開かれた。

 勾引手続きを経て法廷に引きずり出された氏は、「記憶にない」と繰り返し、取り調べへの不満を強調したという。

 なぜ、そんな態度に出たのだろう?

1.氏は、取り調べに対しては事実を認め、反省文まで検察に提出している。
2.だまし取ったとされる金銭はすべて弁済している。
3.そして、県議を辞職しただけでなく、大きな社会的制裁も受けている。

 これはすなわち、初犯なら執行猶予付きの判決が出るような3条件を満たしているということだ。

 弁護士が指導すべきことも本人が心がけることもただ一つ、法廷で素直に罪を認め、ひたすら謝罪して反省の弁を繰り返すことである(これまでの報道を見る限り、冤罪の可能性は限りなくゼロに近い)。

 それだけで裁判は早期に結審され、刑務所にも行かずにすむはずだ。

 にもかかわらず、当初は公判に出廷せず、勾引されてしまった。
 さらには、「覚えていない」と繰り返し、捜査への不満を強調して反省していないものだから、2か月の勾留まで決定された。
 判決が出る前に自由を奪われ、この寒い中、拘置所暮らしである。

 もともと、氏は在宅起訴され、基本的には自由の身であった。裁判が始まってももちろんそれは続いただろう。そして判決は、おそらく執行猶予付きになり、結局、身柄を拘束されることなどなしで済んだはずだ。

 どうして素直に罪を認めて深い反省と謝罪を表明しなかったのだろう・・・

 本人は精神的に参っていると主張している。記憶障害も案外本当かもしれない。
 であるならよけい、反省と謝罪に徹するよう、弁護士が説得すべきだったろう。

 いったい、弁護士は何をしているのか?
 ___

 やったとされていることはもちろん悪いことなのだが、報道にあるようには怒ったりあきれたりする気になれない。むしろ、気の毒で見ていられないという思いのほうが強い。

 もっと悪い政治家はおそらく数多くいる。そのほとんどが図太く厚顔無恥に立ち回り、無傷で、あるいは浅い傷だけでうまく逃げおおせているだろうことを思うと、法の下の平等って何なのだろうと思う。

 結局は、力のない者が袋叩きに遭ってさらし者にされ、より悪質な権力者たちは見過ごされてしまうのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.01.21

■異文化間コミュニケーション

 先日、北アフリカ、モロッコの王子が、居並ぶ要人から手の甲にキスされるのを避けるため、素早く手を引っ込め続ける動画をネットで見て、日本語で書かれたそれへのコメントを読んだ。
 (動画はこちら(音が出るのでご注意ください))

 これを見て皆さんはどうお感じになっただろうか。

 動画につけられたタイトルや、転載先のサイトのコメントを読んで、私も深く(どころか少しも)考えずに、「おじさんにキスされるのを嫌がった子どもが手を引っ込めている」という「物語」をナイーブに信じてしまった。
 次々とキスを拒否されるのを見た人たちが、キスを諦めて握手だけにとどめている(ように見える)点も、その解釈を補強した。

 ところが、先週末のニュース番組を見ていると、同じ映像が流れ、この動作は「「私は忠誠のキスに値するような立派な人物ではありません」という謙虚さを示すための行動だ」という解説がなされた。
 成人した王妃?なども同様の理由で手の甲へのキスを回避している映像が流れ、その解釈の正当性を主張していた。

 おそらく、それが正しいのだろうと思う。

 いくら子どもとはいえ、要人から栄誉礼を受けつつ緋毛氈を進むような王子が、そういった公式の場で「『おっさんの忠誠のキス』を全力で拒否」するような振る舞いをするはずがない。

 少し考えれば当たり前のことである。
 ___

 コミュニケーションは、しばしば誤解を伴う。いや、誤解を伴わないコミュニケーションなど、存在しないといってもいいくらいだ。

 それをよく知ったつもりになっており、(仕事上の必要があって)しばしば人にも説く私自身、ともすればそのことを忘れがちになる。

 たまたまあのニュース番組を見なければ、私のつたない脳細胞の中には「おじさんから手の甲にキスされるのを必死で嫌がるモロッコの王子」像が定着してしまっていたかもしれない。

 そんなはずはないのに・・・
 ___

 異文化間コミュニケーションというのは、何も国境を越えた者同士や異言語間のコミュニケーションを言うのではない。当たり前のことだが、実はすべてのコミュニケーションは、異文化間コミュニケーションなのである。

 自分と同じ文化の者など、存在するわけがないのだから。

 コミュニケーションの際に誤解や摩擦を避ける方法は、「相手の言葉や行為を善意に解釈する」ということに尽きる。
 「その原則を少しでも思い出していれば、モロッコの王子に対する失礼な解釈は避けられたのに」と、忸怩たる思いがする。

 問題は、現実の人間や世の中が必ずしも善意で成り立っているのではないということだ。
 その現実に対処すべく、知らないうちに訓練されてきた私たちの脳は、しばしば相手の言動に疑念を抱き、挙げ句、「疎んじられている」「嫌われている」「責められている」「蔑まれている」「妬まれている」(ネガティブな評価はいくらでも浮かぶなあ ^^;)・・・、果ては「だまされている」「陥れられている」「攻撃されている」とまで感じてしまう。
 そして、実際それが正しいこともあったりして、悪意の解釈回路が脳に定着する。
 実に嘆かわしい。

 願わくは、コミュニケーションが誤解や摩擦を引き起こしませんように。
 そのためにも、人も世も善意にあふれ、私たちが何ごとも善意に解釈できるようになりますように。

 無駄な願いと知りつつ、それでも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.01.20

■怠け者に降る雪

 何度かここにも書いている「怠け者の節句働き」というのは本当によく言ったもので、昔の人はやっぱり偉いなあと思う。

 でも、いくら節句働きと言っても、年末年始や三連休、その後の土日もほぼ返上して働くなんて、ほとんど記憶にない。夜だって、映画も見ずに(ひとつふたつは見たかも ^^;)日付が変わっても仕事をする毎日だった。
 だからといって大したことができたわけではないのが情けないところである。

 まあ、もともとは怠けていたせいなんだけれど、某重大任務とか大量の紙(綴じたのやら綴じてないのやら)の処理とか、時期的にいろんなものが重なってくるのもつらい。

 そんな中、以前からの予定があって何度か出かけたのはよかったと思う。それができるくらいだから、所詮はそれほど切羽詰まっているわけではないということにも感謝せねばなるまい。

 今日までに大物がとりあえず二つ片付き、ちょっとほっとしている。まだ中小が6つくらいあるが、まあ何とかなるだろう。もう少しの辛抱だ(あ、2月最初の土日も返上だった・・・)。
 ___

 今朝は雪が降った。
 道路に積もったり凍結したりというほどではなかったけれど、近所の屋根はすべて雪に覆われていた。

 昨冬までなら、たまに雪が積もることはわくわくする出来事だった(雪国の方、すみません)。

 だがこの冬は、車が四輪駆動でもスタッドレスでもなくなったので、雪が降ると足を奪われることになってしまう。

 「雪が降るかどうか心配だ、できたら積もらないでほしい」というのは、新鮮だが気鬱な感覚である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.01.08

■25年ぶりの邂逅

 長い会議で疲弊した後、日没ごろになってから某重大任務(笑)をこなすための説明会に出かけた。

 同じ敷地内、しかもすぐ近くながら、存在すら意識していなかった建物へ人に道を聞きながら行く。

 説明の前半が終わって休憩になったとき、後ろから名前を呼ばれてふり向くと、白衣を着た男性に挨拶された。

 「○○です」

 名乗られなくてもすぐに誰だかわかったのが不思議だ。会うのはたぶん25年以上ぶり、しかも最後に会ったのは彼が15歳の時ではないかと思う。

 今はアラフォーになってさすがに貫禄が出ているが、面影はそのままだ。むかし教師をしていたときの教え子で、今は知らないうちに同僚になっていて、彼も私同様、某重大任務に参加するためにそこにいるのだった。

 妙に嬉しくて懐かしいのが不思議だ。

 彼の勤める部署に息子がお世話になっているので、くれぐれもよろしくと頼む。

 こんなことってあるんだなあ。

 どうせあるならもっと・・・(以下自粛)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.01.06

■視点の違い2

 大学生になった甥とも会った。2年生だが、遠方に住んでいるので、会うのは大学に入ってから初めてだ。

 研究室では野菜の遺伝子組み換えをやっているという話になる。

 2年生なのにもうそんなことをしているのかと聞くと、1年生の時から研究室に押しかけて参加しているそうだ。他に1・2年生はいないという。
 おっとりしたやさしいタイプなのに、そんな面があったのかとちょっと驚く。

 ついこないだまで子どもだったのだが、遺伝子組み換え作物に関する知識はすでに豊富だ。

 そもそも、遺伝子を組み換えるって具体的にどうやってやるのかとか、いろいろ話していると、相変わらずのんびりと柔和に、けっこう鋭いことも言う。

 「でも、遺伝子組み換えの野菜って、作っても売られへんのんちゃうん? 嫌われてるし」と聞くと、

 「うん、そうやねんけど、売る相手は日本だけじゃないから」などと答える。

 その意を汲み取って、「そやな、むしろ日本は市場としては無視していいくらい小さいねんな」と言ってやると、すぐに「そうそう」と返事する。
 最初からそう言いたかったのに、遠慮しているのだ。

 うーん、それにしても。

 ハタチになるかならないかで、グローバル市場を意識しながら遺伝子組み換えによる品種改良にいそしんでいるとは・・・

 いる場所によって、視野や視点というのはこんなにもあっさり作られるんだなあと、思いを新たにした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.01.03

■視点の違い

 久しぶりに会った姪が、15歳、中3になっていた。

 話をしているうちにふと思いついて、もちろん冗談で「AKB48に入ったらええのに」と言ってしまった。

 無意識に期待されている答は、

  ・私なんか、可愛くないから無理や。
  ・ダンスとかできひんし。
  ・歌なんか上手にうたわれへん。

などだったと思う。

 ところが、実際には間髪を入れず、

  ファンの人らがキモいから嫌や

であった。


 新年早々、発想の違いというか文化の違いというか、視点の違いに感心させられた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.01.01

■慶春

2016blog_dsc03292

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2015年12月 | トップページ | 2016年2月 »