2017.01.18

■カルテット

 今クールのドラマで、2回目(以降?)を見たいのが出てきた。

 「カルテット」
 (出演:松たか子・満島ひかり・松田龍平・高橋一生 脚本:坂元裕二)。

 前クールは「逃げるは恥だが役に立つ」。2クール連続で見たいドラマがあるのは滅多にないことで、ちょっとうれしい。
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 ドラマの中で、年上の女性(松たか子)の配偶者のことを、年下の連中(あとの3人)が「夫さん」と呼んでいた。
 こういうのをきっかけに、この奇妙な日本語も定着するのかもしれない。

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2016.06.29

◆セラミックのボカリナ

 以前にも書いたが、音楽にはほとんど縁がない。

 No Music, No Life. みたいな人も多い中、私は聞く方すら趣味とも言えないレベルだし、演奏の方はまったくダメである。

 小学生の時にはなぜか(ほんとになぜなんだかわからない)「器楽部」というのに所属していて、音階を奏でる楽器がぜんぜんできないものだから、ティンパニーを叩いたりシンバルを鳴らしたりしていた。
 それくらいなら私にも何とかなったのである(ティンパニー奏者・シンバル奏者の皆さま、申し訳ありません)。

 中学校3年の時だったと思うが、友人の影響でフォークギターなんかも買った。
 Fコードはたぶん何とかクリアした程度だったが、友人の一人が、当時の私から見ると天才とか名人とか呼ぶしかないようなクラシックギター奏者であり、また別の一人は、プロみたいにフォークソングを弾き、歌っていて、私自身は早々に挫折した。

 ろくに練習もせずに、彼我の違いを思い知らされた気になっていたのだ。
 まあだいたい、私は何をやっても続かない。
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 その時代からはるかに飛ぶが、今、リビングの隅にはただの一度も!人の手によってまともな音楽を奏でたことのない電子ピアノが鎮座して20年近くなる。
 息子が興味を示すかと思ったのだが、家族のだれも習いすらしないまま、ほとんどそこにあるだけのオブジェと化している。

 そんな私がかろうじて人並みに鳴らすことができるかもしれないのがリコーダーだ。

 小中学校の音楽の時間に否応なく吹かされたせいもあるだろうが、リコーダーなら、楽譜なんか見なくても、知っている曲はだいたい吹ける。
 それがふつうだと思っていたのだが、できない人も多いみたいなので、ひょっとしたらちょっと才能があるのかもしれない(笑)

 だが、いい年をした男が、リコーダーでは格好がつかない。

 いや、人前で演奏することなんかないのだから、もちろん格好なんかつかなくていいのだが、なぜかそういうふうに考えてしまうのである。
 たぶん、ギターのうまかった友人たちが女の子にもてているような気がして羨ましかったのがトラウマになっているのだろう。
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 バーディングの先輩に音楽好きな方々がいて、そのうちのお一人がオカリナの先生なんかをやっていらっしゃる。
 数年前、そのご縁で、オカリナを購入して吹いたりしてみた。オカリナなら、ちょっと格好がつくんじゃないかと思ったのである ^^;

 しかも、リコーダーに近いので、特に練習というほどのことはしなくても、知っている曲ならそれなりに吹けてしまう。
 もちろん、ひと様に聞かせられるようなレベルではないのだが、向上心というものを持ち合わせていないものだから、なんだかすぐに飽きてしまった。
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 今度もそうなると思う。でも、今度はちょっと違うような気もする。

 同じ先輩から、鼻笛(ノーズフルート)というものも教えていただいた。鼻から出した空気を口で共鳴させて演奏する、口笛が大きな音で出るような楽器だ。
 音階も、口笛と同じように、口の大きさや形、舌の位置なんかで作る。

 オカリナと前後して、まず木でできたのを買い、次いでプラスティックのを(当時は日本で手に入らなかったので)アメリカの eBay で購入した。

 木製のは、まろやかな低音が出たりして音色は好みなのだが、たぶん構造上の欠点があって、息の利用効率が悪く、息継ぎが大変すぎた。
 それで次に、プラスティックの(「ボカリナ」という登録商標で呼ばれている)を買ったのだが、こちらは音が気に入らなかった。

 というわけで、いつものようにお蔵入りになって数年経つ。

 そんな中、懲りもせずにまた音楽の虫が騒ぎ出し、今度はセラミックのボカリナ(第2世代)を購入した。

 今日来たばかりなのだが、こいつは木製やプラスティック製の欠点を克服したような製品で、息も苦しくならないし、音色も悪くない。

 知っている曲ならすぐに演奏できるのは口笛と同じで、リコーダーやオカリナよりもはるかに楽である。

 もちろん、上手に吹けるわけではないが、これならちょっと練習しようかという気も湧いてくる。

 さて、また同じ轍を踏んですぐにタンスの肥やしとなるか、それとも少しは上達するのか。

 いずれにしても、「鼻笛」では「格好がつかない」んだけれど・・・

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2015.02.16

◆牛窓の芸術家

 納車の次の日は土曜日だったのだが、あいにく同僚のピンチヒッターで休日出勤したので、遠い方の職場を往復しただけで終わった。

 その翌日の日曜日、慣らしを兼ねて岡山県の牛窓まで出かけた。
 途中、新装なった姫路城
を車窓観光し、岡山ブルーラインを走った。前者は何年ぶりだろう、十数年か。後者は、元ハンセン病患者の療養所を訪れたとき以来だから、7年になる。

 目的地の牛窓は「日本のエーゲ海・恋人の聖地」だそうだが、私はもちろんひとりだった。
 いわゆる「平成の大合併」のためだろう、いつの間にか瀬戸内市になっている。
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 夜、寿司屋に入ると、ひと組だけ先客がいた。ちょうど私の両親くらいの年のカップルで、おそらくは夫婦だろうと思った(が、長年連れ添った名字の異なる「相棒」らしい)。

 男性の方が話しかけてきて、町をあげて観光に力を入れていると言いながら、受け入れ体制ができていないことなどを嘆いておられた。
 「私もここの人間ではないんだけれど、もう20年も住んでいるので」とおっしゃっていたが、お話の端々から感じられる情熱は、故郷を思う人のそれであった。

 おふたりが出られた後、寿司屋のご主人に、「今の方、芸術家か何かですか?」と聞いてみた。
 リタイアしたサラリーマンには見えない。竹久夢二で有名な町でもあるし、ここで絵でも描いていらっしゃるのかと思った。

 意外なことに、というべきか、やはり、というべきか、何と、あの「かあさんの歌」(♪かあさんが夜なべをして手ぶくろ編んでくれた 木枯らし吹いちゃ冷たかろうてせっせと編んだだよ)を作詞作曲した窪田聡さんだということであった。
 あの名曲の・・・

 芸術家に見えるはずである。

 有名な人に会うことはほとんどない。まして、向こうから話しかけてきてくださったり、お話を伺ったりするのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 正直、お名前もお顔も存じ上げなかったのだが、急に親近感が湧くから不思議である。

 ネットで調べてみると、牛窓を拠点にさまざまな活動をなさっているようだ。
 なんと、自宅横にホールまで作って演奏会を開いている。

 春のコンサートに出かけてみようかという気もしてきた。バイクで? クルマで?

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2013.01.14

■「告白」 または おれって天才?

 一日中寝てても暇なので、レコーダに溜まっているテレビ番組なんかを少しだけ消化している。

 とはいっても、座っているのもしんどくて、ソファに横になって見ているのだが・・・

 知らない間に録れていた1月4日の番組で、平井堅の歌う「告白」という曲に巡り会った。

 初めて聞いて、「これはいい曲だ」と即座に確信するのはそう多くない(歌詞はあと一歩、という感じがするけれど)。
 いま思い出せる範囲では、中島みゆきの「銀の龍の背に乗って」以来ではないかと思う。だとすると、ほとんど10年ぶりぐらいということになるようだ。

 はじめてあの曲を聞いた場所も状況も鮮明に覚えている。とはいっても、まったくドラマチックな場所でも状況でも、いい音でもなかった。
 今はなきレンタルビデオ屋の前の道で、車のAMラジオからである。
 それでも、瞬時に「うわっ」と思うぐらいの衝撃を受けた。

 日々、初めての曲を車中のラジオで聞いても、99%は他の放送に切り替えるかスイッチを切ってしまうぐらい、音楽的ではない人間なのに。
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 だが、ここでかつて、私の音楽的才能を自慢したことがあるはずだ。「もし」適切な訓練を受けていれば、それなりに音楽が楽しめる人生を送れたのではないかという、無意味な仮定に基づく程度の低い「才能」である。
 ホンモノの才能がある人は、放っておいてもどんどん音楽に向かっていくのは十分承知している。私はいまだに楽譜すら読むことができず、楽器を弾くこともできない。それどころか、音楽を聞くこと自体がほとんどない。
 要するにまあ、冗談だと思ってほしい。

 それでも・・・

 平井堅の「告白」を2回だけ聞いて、そっくりそのままメロディを口笛でコピーできてしまうのだ。

 もちろん、曲がよくて、それでいて単純なメロディだからだとは思うのだが、それぐらいできるのがふつうなのだろうか。

 この曲に限らず、いい曲だと思ったら、まったく初めて聞く曲でも、ほとんど同時について歌うこともだいたいはできる。メロディというか、音の流れがある程度予想できるからだ。

 こういうのはおそらく、ある程度音楽をやった人なら、ごく当たり前のことなのだろうと思う。

 だが、楽器一つまったく弾くことができず、ふだん音楽なんてほとんど聞かず、もちろん音譜も読めない男ができるとしたら・・・ もしかしたら、天才なのではないだろうか(笑)


 【追記】「音楽」カテゴリのエントリ自体、ほとんど3年ぶりだ。いかに音楽に縁のない生活かがわかる。

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2010.02.27

◆夜会?

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 仕事以外で夜に家を空けることは滅多にない。それが珍しく2夜連続。

 1日目は、妙齢の美女ばかり(なんて書いても問題にならないだろうな?)5人と会食。
 2日目は、そのうちの一人が出演するチェロの演奏会。隣の席には別の一人。

 演奏会に行ったのなんて、たぶん20年ぶりぐらいのことである。そんな人生・・・

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2009.12.08

★生演奏の日

 生演奏を聴くのなんて数年に1回・・・というようなことをつい先日書いた

 だが、今日は、期せずして聴くことになった。それも2回も。

 しかも、ふたつとも職場で、そんなことを考えもしていなかったのに、である。
 まあ、当たり前だ。音楽と何の縁もない職場で、特に興味もない者に、どんな機会があるだろう。

 一つ目は昼休みにチェロのソロ演奏。楽器から直接出てくる音の心地よさについてはもう繰り返さない。
 だが、家に帰ってからカザルスやヨーヨー・マ、ミシャ・マイスキーなどの演奏を BOSE のスピーカ(安物だけど)で鳴らしても、そのアマチュアの奏でた生の音の方が圧倒的に美しかったと断言できる。

 誰かが「うるさい!」と怒鳴り込んで来はしないかという心配が皆無だったら、もっと楽しめたのにと残念だった。心配性なのである。

 もう一つは、夜、琴の競演や尺八との合奏、尺八のカルテット?など。

 私の好みの問題と会場の音響の影響もあったのだろう、こちらのほうはそれほど感心しなかった。(たぶん)素晴らしい演奏をしてくださった方々には申し訳ない。

 チェロの音色は素晴らしい。西洋楽に洗脳されている体のせいでもあるのだろうが、なんとも深い音の厚みが私の拙い耳にも感じ取れるのである。

 惜しむらくは、そうは言っても求めて聴こうとはしないだろう自身の音楽性のなさである。

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2009.10.02

◆生演奏

 先日、生演奏のピアノが聞けるレストランで食事をした。

 何年ぶりだろう。「そばで立ち聞きした」ことなら、数年前のベトナム出張の時に経験があるが、次に思い出せるのは15年ほど前の沖縄である。

 それぐらい、生の音とは縁がない。

 今年の2月だかに、中島みゆきの「夜会」に行ったが、音楽も声もスピーカを通したものだった。
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 自分は音楽的人間ではないと思っていた。ウォークマンも iPod も BOSE のスピーカもあるにはあるが、おそらく人並み以下の興味しかないのは間違いない。

 だが、久しぶりに聞くピアノの生の音は、ほんとうに耳に心地よかった。ベトナムで聞いたときは、確かピアノとチェロ(調べるとバイオリンでした・・・)だったが、その音も心に沁みた。

 と、考えて、もしかしたら私は素晴らしい耳を持ちすぎていて、スピーカやイヤフォンから出てくる音に耐えられないから音楽にもうひとつ入り込めないのではないかという気がしてきた ^^;

 今も BOSE からクラシックが流れているが、あのピアノの音には比べるべくもなく、どうかすると騒音に聞こえてくる。

 これはやっぱり、私の鑑賞力が高すぎて・・・なんてことがあるはずはないんだけれど。

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2009.02.15

◆初めての夜会(その3)

 (さらに承前)

 それでも、やはり、生の中島みゆきを見、聞けたことは確かな1つの幸福であった。できればオペラのように、マイクなしでその声を聞きたかった。1曲だけでもいいから。


 生の中島みゆき・・・


 今回の「夜会」のテーマである(と思う)「人生について、時を重ねるということについて、考える」と、彼女もまもなく、57歳になる。

 以前ここに、若い友人が彼女のことを自分の祖母のように感じていると知ってびっくりしたことを書いたが、実際、小学生ぐらいのだったら、孫がいてもおかしくないような年齢だ。


 バードウォッチング用の防振双眼鏡は、その性能をいかんなく発揮した。


 双眼鏡使いの「ルールその2」は、「人間を見るな」である。理由は言うまでもあるまい。
 (ちなみに、どうでもいいことですが、その1は「太陽を見るな」です)

 だが、「夜会」においては、徹底的に無遠慮に、何ら良心の呵責にさいなまれることもなく、人間の細部を凝視するのだ。
 考えてみれば、スポットライトを浴びた56歳の女性にとって、これはかなり抵抗のあることではないかと思う。

 舞台は何しろ、明るいときは無茶苦茶に明るい。

 藪の薄暗がりの中に入った保護色の鳥すら見いだすような双眼鏡で、体重で言えば1000倍以上も大きい対象を見るのだから、それはもう、大迫力である。

 顔も衣装も、眩しいまでに目に飛び込んでくる。視野がちょうど全身を映すぐらいで好都合だし、細部を見れば、手相だって見えた。

 手には年相応に皺が寄り、節々に年齢を感じたが、顔にはハリとツヤがあり、皺はほとんどなかった。だが、たるみは十分にあって、変な言い方だが「たるんだ肌が張って輝いている」という感じであった。

 中島みゆきの魅力は、もちろんその容姿にあるのではない。

 それでも、昔は写真ですらほとんど見られなかった彼女の容姿は、けっこう私の美意識に叶ったものであった。

 慌てて言う。56歳の現在でも、十分に綺麗で魅力的だ。

 しかしながら、やはり(たとえば)20年前にコンサートに行って、同じ空間を共有し、若くてもっと美しかった彼女も見ておくべきだったという気がしないでもない。
 そのころ私が持っていた双眼鏡の(低)性能なら、彼女はさらに美しく見えたことだろうとも思う。
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 長生きした小説家は損だ、という言い方をときどき聞く。取り上げられる肖像が、ほぼ常に「おじいさん(おばあさん)」だからである。
 芥川や啄木や一葉には年を取った写真がない。

 ところが、若いころの写真だってそれなりにあるはずの作家たちは、なぜか晩年の容貌で代表させられてしまう。

 昨年、祖母の葬式のときも、写真はほぼ最晩年のものであった。
 年末に実家に行ったとき、20歳そこそこの祖母の写真を見たら、相当な美女である。
 戯れに「おばあちゃんの葬式、この写真とか使(つこ)たらよかったのに」というと、母は「あほかいな。こんな昔の写真使(つこ)て葬式出す人なんかおれへん」と言っていたが、半分は真面目に、ほんとに使ってもいいのに、と思う。最晩年の写真を、しかも「そのままではあんまりだから」といって修正したりして使うよりはよほどいい。

 20歳のときだって40歳のときだって、その人に変わりはないし、最後が99歳の即身仏だったからといって、その姿で人生を代表する必要はないのだ。
 もちろん、その姿もその人のひとつではあるんだけれど。
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 中島みゆきには、80歳になっても90歳になっても、歌を作って歌い続けてほしいと思う(さすがに100歳はどうかな?)

 その時、残酷な双眼鏡が年老いた彼女を映し出したとしても、少なくとも私のまぶたには、肌にツヤのある、56歳にしては若くて美しすぎる彼女の姿の残像が映し出されていることだろう。

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◆はじめての夜会(その2)

 (承前)

 中島みゆきの「夜会」に行ってきた。私は「コンサート」の一種だと思っていたのだが、みゆきさんの最後の挨拶によると、コンサートではないようである。

 「夜会」がどういうものなのか、漠然とは知っていた。台詞の大部分を歌で表すオペラのようなものである。
 ところが、私にとっては大きな誤算があった。これはひとえに私に責任があるのだろうし、敬愛する中島みゆきに文句を言うつもりはないのだが・・・

1.劇があまりに前衛的(芸術的? 文学的?)すぎて、ほぼ理解不能である。
2.すべての!歌が聞いたことのない歌で、理解にさらに支障を来す。

 たとえていうなら、歌舞伎を見るよりはるかに、何のことかわからなかった。おそらくは、筋も何もしらない「能」を見ているのと同じぐらい意味不明であった。
 大昔、何の予備知識もなくウィーンでオペラを見たことがあるが(セビリアの理髪師)、何語で上演されていたのかすら思い出せないあのオペラのほうが、まだ見ていて違和感がなかった気がする。

 「夜会」から、私の足りない頭で得られる「理解」は、せいぜい、「人生について、時を重ねるということについて、何かを表現しているんだな」という程度であった。

 実際、休憩の時、ロビーで家人がトイレから帰ってくるのを待っていると、周囲から「何のことかぜんぜんわかれへんかった」というような感想が漏れ聞こえてきた。

 しかしまあ、それでもやはり、「だからだめだ」とか「おもしろくない」とか「来て損した」というようなニュアンスは感じられない。
 それは私も同様である。

 そこに生身の中島みゆきがいて、スピーカを通してであれ、その声が聞こえてくる空間を共有している者としては、それだけで、途中で帰ろうと思ったり、つまらないと思ったりはしない(家人はけっこう(検閲により削除)けれど、それでも私より満足度は高そうであった)。

 だがまあ、というか、だからまあというか、こうも思う。

 この「夜会」、もし中島みゆきが出ていなくてだれか他のキャストだったら、お金をもらっても来ないだろうな、と。
 実際には、ひとり2万円!もして、なおかつ買えたのがラッキーというようなチケットらしいのだが、私には猫に小判、豚に真珠であった。

 それでも・・・(続く)

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2009.02.11

◆はじめての夜会

 中島みゆきの「夜会」 vol.15 〜夜物語〜「元祖・今晩屋」(大阪:シアターBRAVA!)に行ってきた。

 何しろ、昨年9月に申し込んで、今夜だ。2月11日なんていつ来るんだろうという感じだった。関係者もわれわれ夫婦も公演まで全員が生きていたのが不思議なくらいである。

 今夜は遅いのでこれだけ。
 何しろ「大人のために」ということで、終わるのが10時30分ごろになるのだ。意味ありげな最後の挨拶をされても、慣れ親しんだ夫婦はそそくさと帰宅するだけである。バスがなくなっているので、駅からは久しぶりにタクシーに乗った。

(続く)

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