2017.12.10

★「風」のコペルニクス的転回

 はしだのりひこ氏が亡くなり、お名前を正確に存じ上げなかった程度の私にも、追悼の声が耳目に入ってくる。

 音楽シーン?で言うと、私から見て2世代くらい上なので、残り香を少し吸いながら青春時代を過ごしただけだ。

 そんな私でも、「花嫁(は夜汽車に乗って)」と「風」はかなり耳になじんでおり、特に「風」はけっこう好きな曲だ(と思っていた)。

 ♪人は誰も ただ一人旅に出て
  人は誰も ふるさとを振りかえる
  ちょっぴり淋しくて 振りかえっても
  そこにはただ風が 吹いているだけ
  人は誰も 人生につまずいて
  人は誰も 夢やぶれ振りかえる

 そこには、無常観というか諦観というか、でもそれらには還元されつくさない感傷というか、そういうものが色濃く漂い、情けなさや惨めさを噛みしめながらも、そんな自分を愛おしんでいるような、ちょっとナルシシスティックな哀切さがうまく表現されていると思う。

 2番の歌詞になっても、その甘ったるい哀調は続く。

 ところが、3番になると、途端にコペルニクス的転回が起こり、まったく歌の意味が変化してしまう。

 そのことを昨日まで知らなかった。

 思えば、この曲を聴くときはほとんど1番だけであった。
 「♪プラタナスの枯れ葉舞う冬の道で」には聞き覚えがあるので、2番を聴くこともあったのだろう。
 同じ2番の「♪人は誰も 恋をした切なさに 人は誰も 耐え切れず振りかえる」という歌詞には聞き覚えはないが、今となってはもちろんよくわかる。

 なのに3番・・・

 ♪振りかえらず ただ一人 一歩ずつ
  振りかえらず 泣かないで歩くんだ

 なんなのだこれは?

 これがこの歌のメッセージなのか。

 ♪何かをもとめて 振りかえっても
  そこにはただ 風が吹いているだけ

だから、

 ♪振りかえらず ただ一人 一歩ずつ
  振りかえらず 泣かないで歩くんだ

というのか。

 世界観がぶちこわしである。
 1番と2番の素晴らしくも情けなくも愛すべき感傷は、こんなありきたりのお説教に回収されてしまうのだろうか・・・
 ___

 もしかすると、私にこの歌を教え聞かせた世代の人たちも、今の私と同じように考えていたのかもしれない。
 だからほとんどの場合は1番だけ、たまに2番までは紹介したり歌ったりしても、3番は耳に入らないようにしたのだ。
 授業時間の制約だとか、放送の都合だとかではなかったと信じたい。

 それでも、メッセージソングとしての「風」が発する教訓はやはり明確である。
 繰り返すが、「♪何かをもとめて 振りかえっても そこにはただ 風が吹いているだけ」だから、「♪振りかえらず ただ一人 一歩ずつ 振りかえらず 泣かないで歩く(べきな)んだ」ということになる。
 だとすると、1番2番は、そのメッセージを引き出すための単なる前振りということになってしまう。

 いやいやいやいや・・・

 「♪振りかえらず ただ一人 一歩ずつ 振りかえらず 泣かないで歩く(べきな)んだ」とは思いつつも、やっぱり振り返ってしまって、そこにただ吹いている風の音を聴いてしまう自分の感傷に浸っている、そんな歌だと思っておきたいというのは、ただの悪あがきだろうか。

 私がそういう情けない男だというだけのことか・・・

 でも、ボブ・ディランの "♪The answer, my friend, is blowin’ in the wind, the answer is blowin’ in the wind." を意識していないはずはない「風」という曲が、「振り返っても風が吹いているだけだから、振り返らず前を向いて一歩ずつでも歩いていくべきなんだ」なんていう安っぽくてわかりやすいお説教で終わっているとはとても思えないんだけれど。

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2017.09.03

■シーサイド・コーポラス

 中島みゆきで思い出した。

 今回聞いていて1曲だけ、すごくびっくりさせられたことがあった。
 よく知っている曲なのに、まったく知らない歌詞が流れてきたのだ。

 自分の記憶に支障を来しているのではないかと、ちょっと不安になった。
 今思い出して調べたら、これまで知っていたのは「36.5℃」というアルバムに収録されていたバージョンで、1番しか歌われていないもの。今回聞いたのはシングルバージョンで2番も歌われているものであるらしい。

 けっこう好きな曲なのに、こんなことがある。まあ、私の「好き」はその程度のものだということだけれど。

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■中島みゆき

 信州ドライブの間、ほとんどずっと中島みゆきを聞いていた。

 彼女のだけで40枚近いCDが1枚のSDカードの中に入っている。他にも、さだまさしとか小田和正とか徳永英明とかテレサテンとかが入っているのだが、何しろ数が違うので、ほとんど中島さんが流れていた。

 車のオーディオはSDカードが2枚刺さるので、もう一枚は洋楽にしている。でも、今回そちらは流さなかった。

 今さら、しかもこの年になってこんなことを言うのも恥ずかしいのだが、彼女の20代から60代までの歌をいろいろ聞いて、彼女の世界観は人生そのものだなあと思った。

 素直にそう感じただけなのだが、常人とはまったく異なる人生を歩んできた彼女が、常人の人生をあんなに知っているように見えるのはなぜなんだろうという気がちょっとした。

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2017.08.31

★信州ドライブ

 涼を求めて北海道に行くつもりが、西日本以外はみんな涼しいということらしいので、だったらもう信州でいいやと思って行ってきた。
 例によって孤独な貧乏旅行である。

 1週間くらいかなと考えていたが、結局はたった2泊で帰ってきてしまった。帰宅は真夜中を越えたので、一応2泊4日。

 北海道だとおいそれとは帰れないので続けざるを得ないのだが、それでも2年前に行った時にはフェリーの予約を2日ほど短縮したような記憶がある。走るのにも風景にも飽きてくるのだ。
 それにしても2泊はひどい(今調べると、北海道は出発から帰宅まで13日間もあった)。

 夕方、次の日もその次の日も晴れそうにないし(帰ってくるとこちらは快晴!)、なんだか面倒になって「もう帰ってしまおうか」と思うと、どうかすればその日のうちに帰ってしまえるのだから、やはり「近場」はダメである。

 結局、旅行というよりはドライブになった。まあ、飽きるほど走れて景色も見られたのだからよしとせねばなるまい。

 まだ数日は旅行をしていたはずなので、暇といえば暇だ。ツイートでは書き切れないことを(でもできるだけ短く)ここに書いていきたいと思う。

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2017.01.18

■カルテット

 今クールのドラマで、2回目(以降?)を見たいのが出てきた。

 「カルテット」
 (出演:松たか子・満島ひかり・松田龍平・高橋一生 脚本:坂元裕二)。

 前クールは「逃げるは恥だが役に立つ」。2クール連続で見たいドラマがあるのは滅多にないことで、ちょっとうれしい。
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 ドラマの中で、年上の女性(松たか子)の配偶者のことを、年下の連中(あとの3人)が「夫さん」と呼んでいた。
 こういうのをきっかけに、この奇妙な日本語も定着するのかもしれない。

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2016.06.29

◆セラミックのボカリナ

 以前にも書いたが、音楽にはほとんど縁がない。

 No Music, No Life. みたいな人も多い中、私は聞く方すら趣味とも言えないレベルだし、演奏の方はまったくダメである。

 小学生の時にはなぜか(ほんとになぜなんだかわからない)「器楽部」というのに所属していて、音階を奏でる楽器がぜんぜんできないものだから、ティンパニーを叩いたりシンバルを鳴らしたりしていた。
 それくらいなら私にも何とかなったのである(ティンパニー奏者・シンバル奏者の皆さま、申し訳ありません)。

 中学校3年の時だったと思うが、友人の影響でフォークギターなんかも買った。
 Fコードはたぶん何とかクリアした程度だったが、友人の一人が、当時の私から見ると天才とか名人とか呼ぶしかないようなクラシックギター奏者であり、また別の一人は、プロみたいにフォークソングを弾き、歌っていて、私自身は早々に挫折した。

 ろくに練習もせずに、彼我の違いを思い知らされた気になっていたのだ。
 まあだいたい、私は何をやっても続かない。
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 その時代からはるかに飛ぶが、今、リビングの隅にはただの一度も!人の手によってまともな音楽を奏でたことのない電子ピアノが鎮座して20年近くなる。
 息子が興味を示すかと思ったのだが、家族のだれも習いすらしないまま、ほとんどそこにあるだけのオブジェと化している。

 そんな私がかろうじて人並みに鳴らすことができるかもしれないのがリコーダーだ。

 小中学校の音楽の時間に否応なく吹かされたせいもあるだろうが、リコーダーなら、楽譜なんか見なくても、知っている曲はだいたい吹ける。
 それがふつうだと思っていたのだが、できない人も多いみたいなので、ひょっとしたらちょっと才能があるのかもしれない(笑)

 だが、いい年をした男が、リコーダーでは格好がつかない。

 いや、人前で演奏することなんかないのだから、もちろん格好なんかつかなくていいのだが、なぜかそういうふうに考えてしまうのである。
 たぶん、ギターのうまかった友人たちが女の子にもてているような気がして羨ましかったのがトラウマになっているのだろう。
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 バーディングの先輩に音楽好きな方々がいて、そのうちのお一人がオカリナの先生なんかをやっていらっしゃる。
 数年前、そのご縁で、オカリナを購入して吹いたりしてみた。オカリナなら、ちょっと格好がつくんじゃないかと思ったのである ^^;

 しかも、リコーダーに近いので、特に練習というほどのことはしなくても、知っている曲ならそれなりに吹けてしまう。
 もちろん、ひと様に聞かせられるようなレベルではないのだが、向上心というものを持ち合わせていないものだから、なんだかすぐに飽きてしまった。
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 今度もそうなると思う。でも、今度はちょっと違うような気もする。

 同じ先輩から、鼻笛(ノーズフルート)というものも教えていただいた。鼻から出した空気を口で共鳴させて演奏する、口笛が大きな音で出るような楽器だ。
 音階も、口笛と同じように、口の大きさや形、舌の位置なんかで作る。

 オカリナと前後して、まず木でできたのを買い、次いでプラスティックのを(当時は日本で手に入らなかったので)アメリカの eBay で購入した。

 木製のは、まろやかな低音が出たりして音色は好みなのだが、たぶん構造上の欠点があって、息の利用効率が悪く、息継ぎが大変すぎた。
 それで次に、プラスティックの(「ボカリナ」という登録商標で呼ばれている)を買ったのだが、こちらは音が気に入らなかった。

 というわけで、いつものようにお蔵入りになって数年経つ。

 そんな中、懲りもせずにまた音楽の虫が騒ぎ出し、今度はセラミックのボカリナ(第2世代)を購入した。

 今日来たばかりなのだが、こいつは木製やプラスティック製の欠点を克服したような製品で、息も苦しくならないし、音色も悪くない。

 知っている曲ならすぐに演奏できるのは口笛と同じで、リコーダーやオカリナよりもはるかに楽である。

 もちろん、上手に吹けるわけではないが、これならちょっと練習しようかという気も湧いてくる。

 さて、また同じ轍を踏んですぐにタンスの肥やしとなるか、それとも少しは上達するのか。

 いずれにしても、「鼻笛」では「格好がつかない」んだけれど・・・

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2015.02.16

◆牛窓の芸術家

 納車の次の日は土曜日だったのだが、あいにく同僚のピンチヒッターで休日出勤したので、遠い方の職場を往復しただけで終わった。

 その翌日の日曜日、慣らしを兼ねて岡山県の牛窓まで出かけた。
 途中、新装なった姫路城
を車窓観光し、岡山ブルーラインを走った。前者は何年ぶりだろう、十数年か。後者は、元ハンセン病患者の療養所を訪れたとき以来だから、7年になる。

 目的地の牛窓は「日本のエーゲ海・恋人の聖地」だそうだが、私はもちろんひとりだった。
 いわゆる「平成の大合併」のためだろう、いつの間にか瀬戸内市になっている。
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 夜、寿司屋に入ると、ひと組だけ先客がいた。ちょうど私の両親くらいの年のカップルで、おそらくは夫婦だろうと思った(が、長年連れ添った名字の異なる「相棒」らしい)。

 男性の方が話しかけてきて、町をあげて観光に力を入れていると言いながら、受け入れ体制ができていないことなどを嘆いておられた。
 「私もここの人間ではないんだけれど、もう20年も住んでいるので」とおっしゃっていたが、お話の端々から感じられる情熱は、故郷を思う人のそれであった。

 おふたりが出られた後、寿司屋のご主人に、「今の方、芸術家か何かですか?」と聞いてみた。
 リタイアしたサラリーマンには見えない。竹久夢二で有名な町でもあるし、ここで絵でも描いていらっしゃるのかと思った。

 意外なことに、というべきか、やはり、というべきか、何と、あの「かあさんの歌」(♪かあさんが夜なべをして手ぶくろ編んでくれた 木枯らし吹いちゃ冷たかろうてせっせと編んだだよ)を作詞作曲した窪田聡さんだということであった。
 あの名曲の・・・

 芸術家に見えるはずである。

 有名な人に会うことはほとんどない。まして、向こうから話しかけてきてくださったり、お話を伺ったりするのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 正直、お名前もお顔も存じ上げなかったのだが、急に親近感が湧くから不思議である。

 ネットで調べてみると、牛窓を拠点にさまざまな活動をなさっているようだ。
 なんと、自宅横にホールまで作って演奏会を開いている。

 春のコンサートに出かけてみようかという気もしてきた。バイクで? クルマで?

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2013.01.14

■「告白」 または おれって天才?

 一日中寝てても暇なので、レコーダに溜まっているテレビ番組なんかを少しだけ消化している。

 とはいっても、座っているのもしんどくて、ソファに横になって見ているのだが・・・

 知らない間に録れていた1月4日の番組で、平井堅の歌う「告白」という曲に巡り会った。

 初めて聞いて、「これはいい曲だ」と即座に確信するのはそう多くない(歌詞はあと一歩、という感じがするけれど)。
 いま思い出せる範囲では、中島みゆきの「銀の龍の背に乗って」以来ではないかと思う。だとすると、ほとんど10年ぶりぐらいということになるようだ。

 はじめてあの曲を聞いた場所も状況も鮮明に覚えている。とはいっても、まったくドラマチックな場所でも状況でも、いい音でもなかった。
 今はなきレンタルビデオ屋の前の道で、車のAMラジオからである。
 それでも、瞬時に「うわっ」と思うぐらいの衝撃を受けた。

 日々、初めての曲を車中のラジオで聞いても、99%は他の放送に切り替えるかスイッチを切ってしまうぐらい、音楽的ではない人間なのに。
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 だが、ここでかつて、私の音楽的才能を自慢したことがあるはずだ。「もし」適切な訓練を受けていれば、それなりに音楽が楽しめる人生を送れたのではないかという、無意味な仮定に基づく程度の低い「才能」である。
 ホンモノの才能がある人は、放っておいてもどんどん音楽に向かっていくのは十分承知している。私はいまだに楽譜すら読むことができず、楽器を弾くこともできない。それどころか、音楽を聞くこと自体がほとんどない。
 要するにまあ、冗談だと思ってほしい。

 それでも・・・

 平井堅の「告白」を2回だけ聞いて、そっくりそのままメロディを口笛でコピーできてしまうのだ。

 もちろん、曲がよくて、それでいて単純なメロディだからだとは思うのだが、それぐらいできるのがふつうなのだろうか。

 この曲に限らず、いい曲だと思ったら、まったく初めて聞く曲でも、ほとんど同時について歌うこともだいたいはできる。メロディというか、音の流れがある程度予想できるからだ。

 こういうのはおそらく、ある程度音楽をやった人なら、ごく当たり前のことなのだろうと思う。

 だが、楽器一つまったく弾くことができず、ふだん音楽なんてほとんど聞かず、もちろん音譜も読めない男ができるとしたら・・・ もしかしたら、天才なのではないだろうか(笑)


 【追記】「音楽」カテゴリのエントリ自体、ほとんど3年ぶりだ。いかに音楽に縁のない生活かがわかる。

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2010.02.27

◆夜会?

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 仕事以外で夜に家を空けることは滅多にない。それが珍しく2夜連続。

 1日目は、妙齢の美女ばかり(なんて書いても問題にならないだろうな?)5人と会食。
 2日目は、そのうちの一人が出演するチェロの演奏会。隣の席には別の一人。

 演奏会に行ったのなんて、たぶん20年ぶりぐらいのことである。そんな人生・・・

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2009.12.08

★生演奏の日

 生演奏を聴くのなんて数年に1回・・・というようなことをつい先日書いた

 だが、今日は、期せずして聴くことになった。それも2回も。

 しかも、ふたつとも職場で、そんなことを考えもしていなかったのに、である。
 まあ、当たり前だ。音楽と何の縁もない職場で、特に興味もない者に、どんな機会があるだろう。

 一つ目は昼休みにチェロのソロ演奏。楽器から直接出てくる音の心地よさについてはもう繰り返さない。
 だが、家に帰ってからカザルスやヨーヨー・マ、ミシャ・マイスキーなどの演奏を BOSE のスピーカ(安物だけど)で鳴らしても、そのアマチュアの奏でた生の音の方が圧倒的に美しかったと断言できる。

 誰かが「うるさい!」と怒鳴り込んで来はしないかという心配が皆無だったら、もっと楽しめたのにと残念だった。心配性なのである。

 もう一つは、夜、琴の競演や尺八との合奏、尺八のカルテット?など。

 私の好みの問題と会場の音響の影響もあったのだろう、こちらのほうはそれほど感心しなかった。(たぶん)素晴らしい演奏をしてくださった方々には申し訳ない。

 チェロの音色は素晴らしい。西洋楽に洗脳されている体のせいでもあるのだろうが、なんとも深い音の厚みが私の拙い耳にも感じ取れるのである。

 惜しむらくは、そうは言っても求めて聴こうとはしないだろう自身の音楽性のなさである。

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