2017.06.15

◆「両肺尖部陳旧性胸膜炎」

 家人の健康診断の結果が返ってきて、「両肺尖部陳旧性胸膜炎」という所見が書いてあった。

 本人はまったく気にもせず、そのまま結果をうっちゃっていたのだが、その辺に置いてあったのを開けてみた私は仰天した。
 なにしろ「胸膜炎」なのである(よくわからないけど)。

 気になったのはそれだけではない。
 両肺も尖部も胸膜炎もまあいい、だけど、陳旧性って何なのか。

 そもそも、尖部陳 旧性 かもしれない。せんぶちん?

 調べるとやはり、陳旧性のようだが、中型の国語辞典(広辞苑や大辞林)にも載っていない。
 陳は陳腐の陳、要するに古いということらしい。何でこんな馬鹿げた医学用語をわざわざでっち上げるのか。

 おどろおどろしい病名?のわりには、判定はBで「軽度異常」。「わずかな異常が見受けられますが、日常生活には差し支えありません」。

 ネットで調べても、「気にせず放置」するしかないようだ。精密検査も経過観察も生活改善も必要ないらしい。それらが必要なものはCやDになる。

 何もすることがなくて、気にもせず放置するのが正解なら、何のために告知しているのやら。
 家人のようなノーテンキな人にはいいかもしれないが、私のような心配性の人なら、要らぬことを言われてストレスになるだけだ。

 Bはもう一つあったが、家人はやはりまったく気にもしていない。羨ましい性格である。

 去年までは何もなかったのは確実なので、何か思いあたることがあるはずだと話すうち、年末年始にかけてしつこい咳が続いていたのを思い出した。
 あれが胸膜炎で、それが治った跡がレントゲンに写ったのかもしれない。

 仮にそうだとすると、「陳旧性胸膜炎」はないよね。その伝でいけば、いわゆる盲腸が治った人は「陳旧性虫垂炎」だということになってしまう(まさかそんなふうには言わないだろうな)。
 あ、切除した場合は違うか。

 いずれにせよ、この件に限らず、医学用語の世界には、医学者の国語力を疑わざるを得ない事例が非常に多い。
 誤解を産むような医学用語は修正していってもらいたい。

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2017.05.09

■まだ今のうちは・・・

 連休の終わりごろ、久しぶりに実家に顔を出した。だが、母親が出てこない。

 父親に聞くと、台所で転倒して腰椎を圧迫骨折したのだという。次々とよくもまあ・・・

 入院しているのかと思ったが、隣の部屋で寝ていた。幸いというか、ほとんど寝たきりである以外は元気そうだ。
 トイレに行くときだけはコルセットを装着して父親の介助を受けながらよたよたと歩くが、それ以外はベッドから出ることはできない。

 母親は80代前半、父親は後半、絵に描いたような老老介護である。

 近くには私の弟夫婦も住んでいるのだが、知らせていないという。まあ、何とかなっているみたいだからいいんだけれど、何とも危うい綱渡りのような気がする。
 ___

 もうやめようかと思っていた運転免許の更新をやっぱりすることにしたと父親が言う。病院通いが頻繁で、毎回タクシーというわけにはいかないらしい。
 そういえば、病院で暴走した老人の車がニュースになることが多いが、実際、車が一番必要なのは病院通いのためなんだろう。

 今のところ、手伝わなくてもいいらしいし、何か手伝ってくれと言われても困るのだが、この危うい綱渡りはどういう形で終わりを迎えるのかと、ちょっと考え込んでしまう。

 夕食時、月曜日(昨日)は免許の更新に出かけると言っていたのを何気なく聞いていたのだが、その月曜日になってから、「え? 大丈夫なのか」と思いあたった。相変わらずの想像力のなさだ。
 認知症テストやら高齢者講習やらがあって、家を出てから帰ってくるまで2〜3時間ですむとは思えないのだが、その間、母親はトイレにも行けないはずである。

 何も言っていなかったけれど、どうやってこの問題をクリアしたのだろう。おむつでも当てたのだろうか。

 更新講習がどうだったかも含め、電話してみようかとも思ったが、ふだんからあまり連絡していないし、会ってきたばかりなので見送っている。

 いつまでもそんなことは言っていられないのだが、まあまだ今のうちは・・・

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2017.03.19

●プロフィール?

 髪の毛をカットしてきた後、もみ上げのあたりから少し毛が飛び出している気がしたので、自分で調えていた(超安い散髪屋さんなのである)。

 その際、滅多にやらない合わせ鏡で横から自分を見ていて、もみ上げと耳との間にシワがあるのを見つけてびっくりした。
 家人は年上なのだが、改めて探してもそんなものはない。

 ・・・まあ、ショックだがシワは仕方がない。
 気になったのは、自分の横顔を見ることなんて、ほとんどまったくないということだ。
 他人にしても、思い浮かべるのは基本的に正面からの姿だけである。
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 ところが、バードウォッチングなんかをしていると、鳥は基本的に横から見る。

 いや、自然の中ではどんな角度から見ることができるかわからないのだから、そんなはずはないのだが、イメージとしては横からの姿だし、写真を撮るときもふつうはそれを狙う。
 正面から撮影した鳥の写真というのは、奇を衒ったように見えるし、それを見ても鳥の姿がわからないとすら思ってしまう。

 鳥に限らず、馬でも牛でも象でもキリンでも、基本的には横からの姿がその動物のプロトタイプ(典型的な姿)だ。

 それはなぜなんだろう?

 最初は、人間は両目が揃って前についているために正面からが基本なのかと考えたが、ライオンだってトラだって同じだ。それでもやっぱりプロトタイプは横からである。

 一方で、同じ鳥でも、ペンギンやフクロウは、正面からの姿が基本である。そして、面白いことに、ペンギンの場合、身体は正面でも頭は横向きの写真が好まれているのが、ネットを検索すればわかる。
 フクロウの方は、人間と同じように正面がプロトタイプだ。

 もう一つ、犬や猫は、身体は横を向いていても顔は正面が好まれる。正面だけでも大丈夫だ(おすわりやお手もあるし)。他の動物はその傾向が弱い。ただし、やはり肉食動物は正面からの率が高めで、草食動物は低めだ。

 以上から導いた仮の結論はこうである。

1.投影面積が広い角度がその動物のプロトタイプである。
2.ただし、コミュニケーションを取る意識があるときには正面が好まれる。
3.1と2双方の要請から、高等な動物、特にペットなどは身体は横向き・顔は正面が求められる。

 人間は、横より正面の方が投影面積がはるかに広く、もっともコミュニケーションが密な対象なので、圧倒的に正面なのだ。

 いずれにせよ、自分では自分の正面しか見られない。
 ___

 それにしても、やはり気になる耳の前にシワ・・・

 正面だけでも日々自分の姿を見てげんなりしているのに、横から後ろから上から下から見た私は他にどんな flaw(瑕疵)を抱えているのだろうと思うと、人から見られるのがますますイヤになってしまう。

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2017.03.08

●鰯の頭も・・・

 私はあらゆる宗教を信じていない。
 いやまあ、人並み以下くらいには神社仏閣を訪れるし、一応は柏手を打ったり手を合わせたりもする。よくある日本人の一人と言ったところか。

 あらゆる超常現象も信じない。
 もちろん、現在の科学で説明できないものがすべて超常現象だというつもりはない。現在は超常現象だと思われているものごとでも、現実に存在していて将来的には超常現象でなくなることもあるだろう。
 それでも、幽霊だとかお化けだとか天国だとか地獄だとかは信じない。その存在をあんまりバカにして祟られたりするのは困るけれど ^^;

 UFOも信じない。
 というより、地球外生命体の乗る宇宙船を信じない。文字通りのUFO(Unidentified Flying Object)なら実際に目撃したことがある。複数で見たので、飛行機やヘリコプターではなく、UFOであることは間違いない。あれは何だったんだろう?
 地球外生命体については、むしろその存在を100%近く確信している。その存在が地球まで飛んでくる科学技術力と、わざわざ地球を目指してくる必然性が信じられないだけだ。

 結局のところ、何かを信じているとすれば科学である。
 現在の科学を盲信しているわけではない。将来的に(どのくらいの将来?)この世の事象のすべてが科学で解明されるとも思わない。それでも、あらゆることを説明するのに科学以上のものは存在しないことは確信している。

 いわば、科学教の信者なのだ。

 しかし、だからこそ、擬似科学・似非科学は好きではない。
 ___

 例によって前置きが長くなった。

 先日、三重県の関宿に出かけた折り、面白い石屋さんがあった。墓石屋さんや庭石屋さんではなく、実用性のないいろんなガラスやら化石やら岩石なんかを売っている店だ。アンモナイトや水晶やアメジストなんかを中心に、とえいば、わかりやすいかと思う。

 木工品や金属の小物、岩石なんかが人並みよりはちょっと好きなので、街道の行き帰りに計2度立ち寄った。
 2度目に入ったとき、店のオーナーだという若者(にしか見えない)といろいろ話すことができた。

 店の来歴やアメジストと水晶を中心に遠慮なく教えてもらっているうち、気になる石?を見つけた。

 単にモノとしてちょっと気に入っただけなのだが、その時に初めて知って教えてもらい、後で調べたところによると、その筋ではけっこう有名な「テラヘルツ鉱石」というものだった。
 結論を言うと、擬似ないし似非科学を利用した詐欺的商法によく使われている商品である。

 だが、それまでの話でオーナーが正直なのはある程度わかっていたので、話を聞いてみた。

 一番有名なのは、テラヘルツ鉱石の上では氷がどんどん融(と)けるという現象で、そのせいであたかも何か大きな効用があるかのようにうたうのが通例だ。実は残念なことに、その石屋さんも例外ではないのだが、「パワーストーン」なんかを扱う店として、ぎりぎり踏み外していない感じであった。
 正体不明の「テラヘルツ鉱石」として売るのではなく、純度の高いケイ素だと(当たり前だが)正直に話し、「氷が溶けるのって要するに比熱が低いからですよね」という私の問いに、「というか、熱伝導率が非常に高いからです」と明快である。
 ちなみに、「テラヘルツ鉱石」が発するという「テラヘルツ波」とは、何のことはない、要するに赤外線だ(ただ、3テラヘルツ以下のものは電波と定義されている。また、およそ400〜800テラヘルツはただの可視光線だ)。

 それでも、「科学的理由はわかりませんが、うちの母親が肩の痛みがあったときに使うと、実際に痛みが取れました。血行が良くなるんでしょうか」とか、「生け花の水に入れておけば花が長もちしました」などという。
 「そういうのはまあ、ある程度実験的事実として確かめられるので、もし本当なら可能性はありますね」という私が、そういう「効能」は抜きにして、モノとしてのそれを気に入っていることにつけ込まれ、「気に入っていらっしゃるなら、まあ、だまされたと思って」と買わせるあたりはさすが代々の商売人である。

 最後に背中を押されたのは、買うことに決めていた水晶のツボ押しと両方買えばいくらか値引きしてくれるということであった。
 われながら情けない。
 ___

 さて、五十肩の影響で、これまで経験したことのない局所的な凝り、錐で刺したような痛み(ただし痛さ自体はそれほどではない)が出ることあった。鍼なんかに通っても、その時は軽快したような気もするが、またぶりかえす。
 その時もその凝りがあったので、それこそ「だまされたと思って」購入し、家に帰るまで肩に載せておいた。ケイ素(シリコン)の固まりだが金属質で、ちょっと肌に貼り付く感じがあり、固定していなくても落ちたりしない。

 それで、凝りが取れたのだ。

 載せていた右肩の凝りが取れて、逆に左の凝りが気になり出すくらいになった。
 まさかの「効能」である。

 想像するしかないのだが、短時間で体温と同じ温度になったシリコンの固まりが、肩からの放熱を抑えていただけのことではないかと思う。汗だって蒸発できない。
 その結果、「血行が良くなった」ということなのだろうか。

 だとすると、もっと熱伝導率のよい物質を肩に置いておけば、もっと「効く」はずである。
 そうしてたどり着いたのが銀であった。鍋の材料としては銅が有名だが、銀の方がやや勝る。ケイ素(シリコン)と比べると銀は2.5倍も高い。

 幸い、銀の価格は金のおよそ1/100である。金やプラチナ(やシリコン)と違って錆びるのが欠点だが、まさか金やプラチナの塊を肩の上に置いておくことはできない(し、同じ大きさのものを買うのに莫大な金額を必要とする。それに、金はともかくプラチナの熱伝導率はかなり低い)。

 というわけで、今日は銀を手に入れた。
 やはりというか当たり前だが、氷を置くとみるみる融ける。確かに、ふだん見慣れない現象で、不思議な感じはする。例の痛みはシリコンのお蔭で?なくなっているので実験することはできないが、これで片方ずつではなく両肩に載せておくことができる。

 そんなものが本当に効くのかどうかはわからない。でも、鰯の頭も信心からと言うし、科学的にはプラセボ効果だって認められているのだ ^^;

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2017.01.08

■超人世代?

 1月6日(金)の朝日新聞(大阪本社版朝刊)トップは「高齢者「75歳から」提言」という記事であった。

 日本老年学会と日本老年医学会が「高齢者の定義について」「75歳以上とすべきだとする提言を発表した」件である。

 高齢者福祉を削りたい政治の側から働きかけでもあったのかと、かなりうさんくさい気はするものの、それはまあ憶測に過ぎないし、今の70代前半がまだまだ若いというのは実感とも合致する。

 だが、以下はいただけなかった。

 「知的機能の面でも、70代の検査の平均得点は10年前の60代に相当するという報告があり、根拠の一つとされた」(読点を1箇所だけ移動しています)というのだ。

 「この文の通りだとすれば」、その報告は明らかに間違っている。

 なぜなら、「10年前の60代」は現在の70代なのだから。
 この調査は、10年前と現在の同じ集団を調査していることになるはずだ。

 ランダムサンプリングなりなんなりが適切に行われ、きちんとした科学的な調査が行われていれば、こんな結果が出ることはありえない。
 もしこの結果が正しければ、10年前の60代は10年経っても知的能力が同じで、衰えていないということになるからだ。

 実際の報告がどういうものかはわからないが、こんな馬鹿げた内容をそのまま記事にしてしまう記者と校閲の愚かさにはあきれてしまう。

 この部分の直前には、「生物学的に見た年齢は10〜20年前に比べて5〜10歳は若返っていると判断した」とあるのだが、それならまだ理解できる。

 だが、「70代の検査の平均得点は10年前の60代に相当する」なら、その世代は10年間まったく老化しなかった超人世代ということになってしまう。
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 私が最初の職場に就職した30年ほど前、75歳という年齢は、確かに、仕事ができなくなる境界あたりであったことを、具体例とともにまざまざと覚えている。
 しかしながら、80代半ばの父親を見ていると、まだその境界を越えていないように感じる。

 もしそうだとするならば、30年で10年ほどは「若返っている」のかもしれない。あるいは学会の言うように「10〜20年前に比べて5〜10歳」ということもありえないことではない。

 それでも、「10年で10年」はありえない。人間は不老不死ではないのだ。

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2016.09.05

■アイスランドダイエット

 ダイエットを始めて十数年になる。

 肝臓や血液に脂質が多すぎることを医者から指摘されて始めた。
 ごく最初のころこそ少しだけがんばったが、その後は日常の食生活そのものが恒常的ダイエットになっている。
 とは言っても、なるべく間食をせず、食事の炭水化物を減らすくらいで、特別なことは何もしていない。お腹いっぱい食べることは少なくなったが、ふだんはそれなりに満足感のある食事をしている。自然に小食になった感じだ。
 ___

 さて、アイスランドに来て、外食の物価が高いことをたびたび tweet してきた。
 ぜんぜん高級ではないふつうの食堂で食べた場合でも、スープが1500円くらい、メインの一皿が3500円から4500円程度かかる。
 パスタ一皿3000円、ケーキが1000円、ハンバーガーセットですら、2500円くらいしたりする。

 メニューには通常、スターターとしてサラダやスープがあがっており、メインコース、デザートとコーヒーみたいに注文するのがふつうなのかもしれないが、そんなことをすると一人で6500円くらいになる。
 実際、今日の夕食で私の前に会計していた男性は一人で食事した旅行者だったが、7000円ほど支払っていた。家族3人だと2万円仕事だ。

 たった一食で。

 食事は日に3度食べない訳にはいかない。
 休日に家でゴロゴロしているのならともかく、朝から動き出すことが多い旅行では、なかなか2食にもできない。

 今回は朝食がついていない宿も多かったので、朝食の心配までさせられた。朝食込みでない宿では、一人EUR10( ≒ ISK1300 ≒ 1200円)が相場で、それはつまり、3人の朝食が3600円になるということを意味する。
 これに昼夜を加えると、恐ろしい金額になってしまう。

 金額はともかく、たとえばスープの量も多くてほとんどは具だくさんなので、とてもそんなには食べられない。今日の夕食のスープはまだ上品なほうだったが、あのスープと、自動的についてくるパンを一人で食べると、それだけでもうお腹いっぱいになってしまう。

 というわけで、お財布にも体にも優しい食事を考えた結果(というほど考えてないけど)、多くの昼食や夕食で、スープとメインを一つずつだけ注文して3人で分けるということをしてきた。
 レストランの人からどんなふうに見られているかはわからない。多くの場合はすぐに理解してくれ、笑顔で OK というのが多かったが、数回は不審なというか怪訝な顔をされた。
 通常の一人分に満たないような料理を3人で食べるのだから当然だ。

 恐るべき窮乏家族である。

 それほどがんばって節約しても、一食5〜6千円。これはわが家の日常の外食予算を超えているし、それが毎日である。
 昼食はさらに節約して、ガソリンスタンド併設の売店でサンドイッチを買ってすませたりしたが、それでも3人で2〜3千円かかった。

 幸い、アイスランドの水道水は日本よりもおいしく、日本と同様、頼まなくても水が出てくるくらいなので、別に飲み物を頼む必要がない。
 4年前に旧東ヨーロッパを旅行していたとき、水より安いからと毎晩のようにグラスワインやビールを飲んでいた家人(お蔭で、酒飲みというのがどういう人種か知らない息子が、自分の母親のことを酒好きだと思ったりした)も、今回の旅行では一度も飲んでいない。

 さて、そうして出てきた一人分にも満たないようなスープとメイン料理を3人で分けて食べる。
 概ね、半分を息子が食べ、残りの半分を家人と2人で分けた。
 パンは自動的についてくるし、多くの場合は3人分出してくれたりしたので、それでもまあ必要十分な量があった。
 さすがに息子は若いので物足りないこともあったようだが、夫婦2人はそれなりにおいしい料理を控えめに食べて、だいたい満足していた。

 とはいえ、やはり絶対的な摂取カロリーがふだんよりは少なかったに違いない。
 それに、ほとんど車で走り続けるような旅だったが、かなり歩いた日も半分くらいあった。今、iPhone の Health アプリで確認すると、歩かなかった日ですら、日本の日常程度かそれ以上に歩いている感じだ。

 というわけで、最近ちょっと気が緩んでウエストがきつくなってきていたズボンが、今朝気づくとけっこう緩くなってきていた。
 帰国して体重を量るのが楽しみである。
 ___

 アイスランドダイエット、お勧めです。体重もお金もぐっと減ること請け合いです。

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2016.08.14

★早寝早起き

 ふと気がつくと、8月に書いたものが一つもない。もう半ばだというのに。

 理由はおそらく、「早寝早起き」を始めたことだと思う。長い話を省略すると、五十肩がきっかけで通い始めた鍼の先生に言われてそうするようになった。

 前の職場を辞めてから25年以上、早寝早起きとは無縁だった。

 むろん、早起きしなければいけないときはままあるのだが、それが直接早寝には結びつかないし、ふだんはとにかく「不規則な生活」をしていた。

 子どものころからずっと、各方面から「早寝早起き」「規則正しい生活」を言われ続けているのだが、実行できたためしがない。

 ただ、唯一、前の職場に勤務していたころの一時期は、そういう生活に近かったと思う。
 「朝の涼しいうちに勉強しましょう」というのを、言われる方から言わされる方になって初めて、夏休みの午前中は午後より涼しいのが本当だと知って驚いたものだ。

 でも、そのころでさえ、20代半ばの若さで、勤務時間だって長くないのに、ふつうに疲れていた。

 50になって不規則な生活をしていても、当時とそんなに変わっている気がしない。
 つまり、「規則正しい生活」が何かを改善するという実感を持てないのだ。だからやる気が起きない。

 鍼の先生に言われて、コーヒーだって紅茶だって(いただきもののプーアール茶すら)やめている。そして代わりに毎朝、これも指導されたニンジンジュースなんかを飲んでいる。

 これで、体調がよくなったとか、疲れなくなったとかいうのならありがたいのだが、そんな実感はほとんどない。

 ブログが書けなくなっただけである(笑)
 ___

 毎日、なにか一つでも楽しかったことがないと、寝る気がしない。

 だが、楽しみなんか、そう簡単に得られるものではない。仕事で得られればいうことはないのだろうが、そういう日は多くない。
 今のところ、洋もののテレビドラマか映画を見るのがお手軽な楽しみになっている。

 憂き世のつとめを果たして液晶パネルを見たりすると、もう「早寝」の時間になってしまう。いちおう11時なのだが、往々にして12時近くになるし、時には越える。

 まあそれでも、だいたいは早寝早起きをしていると、のんびりブログなんかを書いている時間はない。残念なことだ。

 収穫があるとすれば一つだけ、これまではだれが何と言おうとまず絶対に無理だと思っていた早寝早起きが、案外簡単にできるのを知ったことである。

 まさか、自分にそんなことができるなんて・・・

 要は、やる気になるかどうかだけの問題のようだ。

 でも、だからといって特に体調がよくなったわけでもないし、他のことにやる気がでるかというとそんなこともない。

 なのに、いちおうこの生活が続けられているのが不思議である。きっとそのうちどんどんいいことが起こってくると思いたい。

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2016.06.06

◆ちょっと、これはあかん・・・

 いわゆる五十肩で苦しんでいる。

 5年前に左をやり、今度は右。天災?はやはり、忘れたころにやってくる。

 前回は、初めてということもあり、最初は何が起こっているのかわからず、いっこうに軽快しないでむしろ悪くなる感じだったので、整形外科で診察を受け、その後マッサージに通ったりした。

 その後もよくなる気配が見えず、年配の方とそういう話ができそうな雰囲気になると、片っ端から経験を聞いてみた(とはいっても、私の狭い交友範囲のこと、二桁には達していないかもしれない)。

 その結果、以下の2つのことがわかった。

1.ほとんどの年配者が五十肩(四十肩)を経験している。
2.何をしても治らないが、1年ほど経てば自然に治る。

 なんということだ。それほどありふれた病気で、かなり辛いにもかかわらず、明確な治療法が存在しないのである。

 実際、服の脱ぎ着も困難な月日を1年あまり経ると、いつの間にか治っていた。
 ___

 今回も、日常のありふれた動作ができず、できるつもりで何の気なしに腕を動かすと、叫びたくなるほどの激痛が走ったりするので、当初は難儀した。
 でもまあ、二度目でもあり、どうすればできるだけ痛みやだるさを抑えられるかは早々に体得し、こんな調子でだましだまししんどい1年を過ごすしかないかと諦観していた。

 ぎっくり腰や五十肩など、この手の疾患の治療に西洋医学は無力だ。

 また、私は基本的に、鍼灸・指圧・マッサージ等をそれほど信用していない。それに、少なくとも五十肩(四十肩)には効かないことは多くの先達が証言している。
 いや、効くこともあるのかもしれないが、きちんとした技術を持った人に当たることは稀であろうし、効果があるかないかわからないものに短くない時間と安くないお金を割くことにはかなりの抵抗がある。

 「気持ちいい」という人がいるが、これまで何度かカイロプラクティックやマッサージや指圧などをしてもらった中で、そんな経験は一度もない。

 ところが・・・

 いろんな偶然やきっかけが重なり、今回は、以前から気になっていた整体治療院に通ってみることにした。最後は、Webで見た院長(といっても一人でやっている)の変わった経歴と信頼できそうな顔が背中を押した。

 初回の施術を終え(初診料含め1万円!)、やはり気持ちいいとかいうことはなかったが、いろいろ話をしながら1時間半近く全身を丁寧に診てもらった結果、少し続けてみようと思った。
 その後、右肩に劇的な変化はないものの、自律神経系を含めた体の状態も少しよくなった気もした。自己暗示のようなものも手伝っているのかもしれない。

 だが、問題は2回目の施術後にやってきた。

 右肩は確かに少しよくなったような気がするものの、首が痛くてどうしようもない。じっと座って動かさなければいいのだが、そこから立ち上がるだけで痛みが走り、ほとんど体を動かせない。

 ちょっとこれは、いくら何でも、もうあかん・・・という感じの状態である。

 次の予約は一週間後なのだが、施術のせいでこうなった首の痛みを今すぐにでもなんとかしてくれと再訪すると、どうなるのだろう。

 いや、これは困った・・・と思いながら、まあ週末でもあることだし、一日二日様子を見ようと思って、この週末はまったく無為に(それだけだといつもとあまり変わらないんだけれど、苦しみながら無為に)過ごしてしまった。
 幸い、日曜の夜には座ったり立ったりするのにそれほど支障がないくらいには痛みも治まってきたので、次回の通院まで待つことにした。

 でも、今度行ったときになんて言おう? 珍しくこういうものを信用して通おうと決めた途端にこんな目に遭うなんて・・・

 これは、「もうやめなさい」という啓示なのだろうか、それとも、何か他に意味があるのだろうか。

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2016.04.29

★自由な日々が始まる・・・のだが

 肝臓ガンの手術を終えて、ICUから一般病棟に移った母親を見舞ってきた。

 妙な感想だが、「死にそうだけどまあ元気」という感じだった。

 中心静脈栄養を入れ、導尿している。鼻からは酸素を吸い、痛み止めもいつでも静注できるようになっている。
 何だかわからない小さな袋を腰に下げているので、やってきた看護師に聞くと、まだ腹腔からのドレインを外していないということだった。
 ということは、お腹に穴が空いて、内臓と外とがつながっているのである。

 まだ手術の2日後なのだ。
 そんな状態で、歩行訓練を始めている。

 点滴のポールと酸素ボンベを従え、導尿やドレインの袋をぶらさげて、歩行器に寄りかかって歩く。
 指にはパルスオキシメーター。ナースステーションまで歩いただけで酸素飽和度が91に下がり、脈拍が100になる。

 大丈夫なのか?

 それに、以前から不思議だったのだが、お腹を開けて内臓を切り取ったりして、傷を縫っただけですぐにくっつくものなのだろうか。手術の翌日には「歩かなければならない」といって、すぐに訓練が始まるそうなのだが、傷口が開いたりしないのか、ほんとうに不思議である。

 指先をちょっと切ったくらいでも、2〜3日は傷口がふさがった感じがしないのに。

 まあ、大丈夫だからやっているんだろう。もうヤマは越えたし、病院に任せておけばいいようにやってくれるはずだ。
 幸い、父親はすこぶる元気である。
 ___

 私自身はゴールデンウィークで自由の身になった。

 今から海外・・・というのはちょっとアレだが、日本全国ほぼどこにでも行ける。

 去年に引き続いて東北へ行こうかと思っていたのだが、桜も終わりつつあるという情報も入ってきて、それならいっそのこと、九州へと考えていた。

 だがどうも、まだ震災も地震も生々しい。本気でボランティアでもするんでなければ、やっぱりやめておいたほうがいいかなあという気もする。それで、もう東北気分になっていたところへ、「九州は旅行客が激減して大打撃」みたいな記事を読んだ。

 もともと、微力ながらそういう事態を補うために九州を考えていたものだから、また針が九州に振れる。東北は去年も行ったしなあ・・・ でも、太平洋側に限れば、たぶん5年ぶりになるんだけれど。

 以前からどうしようか考えていたテントを、出発に間に合うように急遽アマゾンで買うと、なんと12時間後に届いた。
 宿泊施設、車中泊に、テント泊という選択肢が増えて、去年今年の東北や北海道旅行よりはちょっと楽になりそうかなという気がしている。

 気になるのは、ここ1か月くらい、右肩が痛むことだ。自宅で優雅に寝ていてもつらいときがあるので、テント泊や、まして狭い車中泊でよけいにおかしくならないか、ちょっと心配している。
 でもまあ、好きでそういうことをするのだ。そういう生活を余儀なくされている方々のことを思えば、気楽なものである。

 それともいっそ、旅先にお金を落とすために、豪華温泉旅館をハシゴとかしてみようか(無理だけど)。

 うーん、まだ決まらない。この分だと、車で走り始めてから、やっと気持ちが固まりそうな気がする。

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2016.04.09

★すべてを含んだもろもろの全体的な状況

 つい先日、肝臓ガンの母親に付き添って、専門病院を訪れた。

 何より感慨深いのは、患者であふれていること。
 まあ、病院だから当たり前なのだが、とにかくガンしか扱っていない病院で、他の病院から紹介された患者しか来ないため、病人はすべてガン患者なのだ。中には「疑い」的な人もいるかもしれないが、こんなところに来ている時点で、もはやほぼ確定である。
 ただ、病気が病気だけに、私のように付き添いがついている人も多く、「あふれている」人の半分くらいはべつに患者でもガンでもないのだろうとは思う。

 次にちょっと感動したのは、そこでは、ガンがもはやふつうの病気であること。
 誰も特に悲嘆に暮れているようには見えないし、その辺に悲愴感が漂っているわけでもない。
 医者の方も、「重大な疾患を扱っている感」に乏しく、「ガンを告知するという重々しさ」など微塵もない。

 母親のガンは、幸いにも原発性で、小さいのが一つだけなのだが、「肝臓に予備能(≒余力)がないと、手術で1%切除しただけでも死んでしまうことがあります」とか、「肝臓ガンは特殊で、手術しても再発の可能性が60%くらいあります」とか、「再発しなくても肝硬変で亡くなったりすることもあります」などと平気で言う。

 たまたま、私より年上の偉い医者に診ていただいたのだが、意外なほど丁寧で親切な感じだった。診察が終わって待合に戻り、開口一番出た言葉が、「いい先生でよかったなあ」である。そんな医者でも、ガン患者と家族を前にして、淡々と再発や死を口にする。

 まあ、事実だから仕方ないんだろうけれど。
 ___

 ガンを日常のものとして扱っている医療関係者はともかく、患者や家族の心中は実際のところどうなんだろう?

 もちろん、80になる母親が単純なガンだといういい年をした息子と、40の父親が手に負えないガンだという思春期の娘とでは雲泥の差があるだろう。
 しかも、それぞれに、年齢やら病状やら生活やらに還元できない、さまざまな関係性があるはずだ。

 アメリカの医療ドラマを見るのが好きなのだが、そこにはよく、The patient died on the table. というような台詞が出てくる。「患者は手術台の上で(=手術中に)死んだ」という意味だ。
 さすがに母親には言わないが、たとえば家人には、「died on the table みたいなのが一番ええかもしれへんで(いいかもしれないよ)」みたいなことを言ってみたりする。それなりに本気だ。

 でも、不要品処分のような品々を持たされた帰りの車の中で、「なんだか早めの形見分けみたいだなあ」と思いながら、たとえば、中島みゆき や さだまさし が「いのち」や「愛」について歌っているのを聞いていたりすると、あるいはまた、何かの拍子に桜の花びらが車に降りかかってきたりすると、不意に目の前がぼやけてくる。

 それは、母親の病気や、死の可能性のことを思ってというよりは、何ともいわくいいがたい、すべてを含んだもろもろの全体的な状況のせいのように感じられた。

 その「状況」には、たとえばシリア難民さえ含まれている。

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