2017.07.10

●偉大な秤

 四半世紀以上使い続けているアナログの秤が、場所を取って邪魔なことが以前から気になっていた。

 週に2回くらいしか使わないのに、電子レンジや炊飯ジャーと同じくらい大きな顔をしてキッチンの一画を占めている。もちろん、図体自体は小さいのだが、いかにも邪魔だった。
 私が量るのはパスタの重さくらいだが、使う時には狭いので、カウンターまで移動してから量っていた。だから、いつもの定位置に置いておく必要はないのだが、かといって仕舞っておくにもかさばる。

 というわけで、一枚の板のような電子秤を買うことにした。隅に立てかけておくにしても食器棚に入れておくにしても、邪魔にならない。
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 家にあるのはクボタ(コンバインやら田植え機やらを作っているクボタの関連会社らしい)製で、実家で使っていたのは YAMATO(大和製衡)製なのだが、調べてみると、もはやどちらも消費者向けの製品などまったく作っていないようだ。やたらに大仰な工業用計測機械しか見当たらない。

 利益の出ない市場から撤退したのは賢明な判断かもしれないが、そのせいでこの分野はタニタ(TANITA)の独擅場になっている。

 仕方なく?タニタの「クッキングスケール」を買った。結果として、この7月に発売された新製品を選んだ。
 実売で3000円もしないが、200gまでは0.1g単位、1kgまでは0.5g単位、2kgまでは1g単位で量れる。使い方も簡単で、容器に入れた液体や粉の重さなども手軽に量ることができる。精度もそれなりに高い。
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 さて標題。

 偉大だと思ったのは、タニタの最新式の電子秤ではなく、家で四半世紀以上使っていたアナログ式のほうである。

 どうせ捨てるのだから壊してもいいと思って分解してみると、なんと、重さはたった1本のバネの伸び縮みで量られていた。その変化量をラック&ピニオンで回転する針の動きに変えるだけのシンプルなシステムである。何ということのないバネに見えるが、伸縮と重量とが見事にリニアに対応するように製作されているのだ。
 残念なことに、ピニオンと針と外装はプラスティックだが、内部の秤本体はすべて金属製であった。

 タニタで量った重さと比べてみると、数十gの軽いものから1kg近いものまで、何を量ってみても誤差はせいぜい1g程度しかない。もともと、目盛りが5g刻みなのだから、十分すぎる精度だ。
 その精度をバネ1本で実現し、四半世紀以上維持してきたのである。

 タニタの最新式電子秤は25年以上も使えるだろうか?(ネットの評判を見ると懐疑的にならざるを得ない)。そして、たとえ使えたとしても精度を維持しているだろうか?(もし使えれば精度は大丈夫かも)。
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 この偉大なアナログ秤をオブジェとして職場の部屋にでも置いておこうかと思って綺麗に掃除したところ、おそらくアルコールのせいで目盛り盤が一部ハゲてしまった。

 うーん、やっぱり廃棄かなあ、どうせ外から見ると、安物感丸出しのプラスティックだし・・・

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2017.07.02

●棚からブッポウソウ

 新聞記事か何かで情報を得た家人が、珍しく行きたいところがあると言ってきた。

 岡山県真庭市勝山。
 真庭市? 勝山町だと思っていたのだが、例の平成の大合併でそうなってしまったらしい。

 昔はよく通(とお)ったりすることはあったのだが、そこに「町並み保存地区」みたいなものがあるとは知らなかった。

 興味はあるものの、わざわざそのためだけに出かけるにはちょっと遠すぎる。

 そう考えていると、今まさにブッポウソウが繁殖行動をしている吉備中央町がすぐ近くであることに気づいた。

 これは幸い、棚からブッポウソウである。

 去年は、家族でわざわざ1泊してまで出かけたのに、私の情報収集能力不足と家人の日程の都合とで、遠くを飛んでいく姿をちらっと見られただけに終わっていた。
 こういうことでもなければ、今年は私一人でバイクにでも乗って見に行こうかと考えていた。去年はなかった、分不相応なカメラもある。

 というわけで、多忙で行けなかった息子を残し、ブッポウソウと勝山を目的に、中国自動車道をひたすら往復した。

 案の定というべきか当然というべきか、むしろブッポウソウがメインになったが、お昼もそこそこおいしいイタリアンを食べられたし、勝山も散策できて、ちょっと蒸し暑すぎたことを除けば上出来であった。
 雨も、昼食中と乗車中に限られ、恵まれていた。

030a7139_copy ブッポウソウ

 軽快なシャッター音を奏でながら、都合1000カット以上撮影した。

 撮った写真を取捨選択するのが大変で、まだ第一次廃棄しかしていないが、とりあえず残ったのが半分ほどもある。
 望外といってもいいほどの撮影機会に恵まれ、珍しくちょっとわくわくした。
 写りが悪くないのもそれなりにある。

 このくらいの楽しいことがしょっちゅうあればいいのだが、それはたぶん、望みすぎなのだろう。

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2017.06.30

◆英語の通じる国、通じない国(その2)

 俳優の堤真一がアイスランドを一周しながら現地の人にインタビューして回るというテレビ番組を見た。

 一周したというわりには、ミーヴァトンの次はヴィークとか、びっくりするくらい飛ぶのだが(たとえて言うなら、山手線を一周していて上野の次に取り上げるのは渋谷という感じです)、それはまあいい。

 いくつか興味深い点があった中に、アイスランド語ができる通訳を連れて行っていないというのがあった。

 以前ここでも書いたように、私がアイスランドを旅行していた2週間あまりの間に、英語が通じなかったのは一人だけだった。たまたまその人からセーターを買おうとしなければ、「すべての人と英語が通じた」ということになっただろう。
 アメリカですらそうはいかない。

 だからといって、大々的にテレビ番組の撮影に出かけていくのに、アイスランド語の通訳を用意しないなんてことが考えられるだろうか。
 実際、それをやってしまっているのだが・・・

 こちらもがんばって英語でしゃべっていたせいか、旅行中はほとんど感じなかったが、堤真一の番組を見ていると、出てくるアイスランド人の英語レベルはそれほど高くないことがわかる。
 もちろん、テレビカメラに向かって英語でしゃべって意思疎通しているのだから立派なものなのだが、発言の内容がどうしても「自分が英語で言える範囲」に限られてしまい、深みのない薄っぺらい感じになるのが避けられない。
 何人かの出演者は、一生懸命英語の語彙や表現を探しあぐねているようだった。おそらく母語であるアイスランド語でなら、もう少し的確に言えたのだろうと思う。

 出演者の中に一人だけ、英語をしゃべらない人がいた。代々にわたってスモークサーモンを作り続けているという家の先代だった。といっても、まだ67歳とかだったと思う。
 その人のアイスランド語は、現当主である息子が英語に通訳していた。

 ・・・とまあ、とりとめのない話になったが、アイスランドに取材に行くなら、当然、アイスランド語で意思疎通すべきだったと思う。得られる情報の質も量もそのほうがはるかに上だったろうと思われるからだ。

 同時に、通訳が得にくいからといって、英語の通訳ですませてしまえるというのも、すごいことだと思った。
 どこかの国のテレビが日本に取材に来るとして、ふつうの人にインタビューするのに英語だけですませてしまおうなんて考えるだろうか。

 やはりなんといってもまあ、アイスランドは「英語の通じる国」なのだと再確認した。

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2017.06.22

◆The Gifted

 周知のことだが、将棋の藤井聡太四段(14)が、「永久に破られない」と言われていた30年前の公式戦連勝記録に並んだ(並んだだけだから、まだ破られていないのかもしれないけれど)。
 (後記:2017年6月26日(月)、29連勝して破られました。)

 棋士デビューから公式戦で一度も負けず28連勝した中学生。そんな存在が考えられるだろうか。

 対戦相手との実力が互角(勝率5割)だと仮定すると、こんな「偶然」が起こるのは、約2億6844万分の1である。

 藤井四段の方が圧倒的に強く、勝率9割だとしても、こんなことが起こる確率は5%ほどしかない。統計処理だと棄却されてしまうほどのレベルだ。
 勝率95%に設定してやっと24%と、まあ起こってもそれほど不思議ではない数字になる。

 全員年上の並み居るプロ棋士(アマ2人を含む)相手に、それくらいの勝率をあげられるだけの実力があるということなのだろう。

 ちなみに、勝率を99%(100回に1回しか負けない)に設定しても、28連勝できる確率は75%に過ぎない。もしかすると、それくらい強い可能性もある。
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 英語に gifted という言葉がある。「神様から贈り物(ギフト ≒ 才能)を授かっている(人)」というような意味だが、アメリカなんかには gifted のための学級やら学校やらがあり、それなりの数の子どもたちが通っているそうだ。

 藤井四段は、紛れもなく才能を授かっている。それも、通常の gifted というよりは、The Gifted とでも言うべき、唯一無二の存在ではないだろうか。
 音楽のことなんてまるでわからないけれど、頭に浮かんだのはモーツァルトだった。分野はまったく異なるが、おそらくそのレベルの天才だろう。

 言っても詮のないことだが(ほんとに何の意味もない)、「自分にこの1/10でも1/100でも才能があればなあ」と夢想してしまう。
 どんな分野でもいいから・・・と思うのだが、「そんなことを考えているからダメなんだろうな」とも思う。

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2017.06.20

◆最高の花婿

 引き続き、映画の紹介。

 パリから南西に百数十キロ、お城で有名なロワール川流域に住む保守的なフランス人夫妻。自身も、ちょっとしたお城を思わせる邸宅に住んでいる。

 4人の娘がいるのだが、パリに行かせたばかりに、上の3人が次々と、アラブ人・ユダヤ人・中国人と結婚してしまう(そこまでは冒頭の5分ほどで描かれているので、別にネタバレではありません)。

 当然のように、宗教や文化や習慣の違いに戸惑い、疲れ、怒っている。
 特に父親の嘆きは深い。

 頼みの綱の末娘は、果たしてどんな男と結婚するのか・・・

 まあ予想通りの展開なのだが、わざとらしいまでのドタバタ系コメディが非常に面白かった。

 アメリカなんかでは、危なすぎて現代劇としては作れないのではないかと思うような話を、建前と本音を織り交ぜながら笑いに変えてしまう。

 計算された名作だ。フランスで年間興行収入が1位になったというのも頷ける。
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 全体として面白かったのとは別に、興味深い点が2つあった。

 一つは、なんだかんだ言っても、娘の結婚相手4人の全員が流暢なフランス語を話すことだ。というより、おそらく全員がフランス語のネイティブである。

 この点が、日本におけるいわゆる「国際結婚」とは大きく異なる。

 もちろん日本でも、在日コリアンとの結婚などでは同じことだが、それ以外の国際結婚だと、そもそも子どもの配偶者と言葉が通じるのかがまず問題になることが多い。
 甚だしき場合は、夫婦間ですらあまり言葉が通じないというケースも珍しくはない。

 言葉の壁がないという時点で、しかも、そのことがほとんど意識されていないという点で(一度だけ発音の問題が取り上げられていたようだけれど)、日本で考える国際結婚とはかなり趣を異にするのだが、「移民社会」という切り取り方なので、それで当たり前なのかとも思う。
 それでも、言語に対する問題意識が描かれていないのは、やはり(ある種の)フランスらしいという気がした。

 もう一つは、主人公(のひとり?)である父親が、保守的なド・ゴール主義者だと自ら言明しながら、「人種差別主義者(raciste ラシスト)」だと思われるのを非常に嫌がっていることである。
 人からどう思われるか以前に、自分が raciste であることをどうしても認めたくない( ≒ 自分は raciste であるべきではない ≒ raciste ではない)という心性が厳然と存在するのだ。

 同様に、自分はファシストでもないと(これはフランス人として当然)考えているのだが、この種の建前を大事にすることは悪くないと思う。
 差別感情や偏見が現にあるとすれば、それは間違っているという理想や建前からその解消が始まることも多いと思われるからである。

 建前すら捨てた人間はもはや、テロリストまであと一歩だ。ヘイトスピーチやヘイトクライムを公然と行うような者は、テロリスト同様、断じて許してはならない。
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 ただ、共産主義者(communiste コミュニスト)と呼ばれることも同様に嫌っているように見えたのはちょっと気になった(まあ現実としてそうであることはわかるのだが)。

 これは、末娘の結婚相手の父親が、「アラブ人・ユダヤ人・中国人との結婚を許すような奴は、コミュニストに違いない」と憎悪丸出しで考えているのと表裏一体をなしている(「博愛主義者だから素晴らしい」とは決して思わない)。

 現実の共産主義政府に碌なのはないし(ベトナムやキューバはどう評価すべきなんだろう?)、個人的には、これからも共産主義政権が素晴らしい国家を作るとは思えないのだが、それでも、レイシズムやファシズムと並べられたのでは、コミュニズムが可哀相だ。

 前二者と違い、コミュニズムは少なくとも、根本的な思想としては全人類の幸福を願っているはずである。たとえ現実がまったく違っていたとしても、それとこれとはまた別の話だ。

 (Qu'est-ce qu'on a fait au Bon Dieu ?, 2014 France)

 (原題はたぶん「(こんなに次々と災難が降りかかってくるなんて)いったい私たちが何をしたと言うんですか、神様?」という感じだと思います。違っていたらすみません。)

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2017.06.19

◆ヘイトフル・エイト

 久しぶりに映画の紹介。

 エンニオ・モリコーネが音楽を担当する、クエンティン・タランティーノらしい凄惨な映画。サミュエル・L・ジャクソン、カート・ラッセルほか。

 ミステリー仕立ての西部劇になっている。あ、西部劇仕立てのミステリーと言うべきか。
 いやむしろ、バイオレンスが中心で、あとはそのための道具立てにすぎないのかもしれない。

 (以下は完全なネタバレなので、これからご覧になる方はお読みにならないことをお勧め致します。)

続きを読む "◆ヘイトフル・エイト"

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2017.06.15

◆「両肺尖部陳旧性胸膜炎」

 家人の健康診断の結果が返ってきて、「両肺尖部陳旧性胸膜炎」という所見が書いてあった。

 本人はまったく気にもせず、そのまま結果をうっちゃっていたのだが、その辺に置いてあったのを開けてみた私は仰天した。
 なにしろ「胸膜炎」なのである(よくわからないけど)。

 気になったのはそれだけではない。
 両肺も尖部も胸膜炎もまあいい、だけど、陳旧性って何なのか。

 そもそも、尖部陳 旧性 かもしれない。せんぶちん?

 調べるとやはり、陳旧性のようだが、中型の国語辞典(広辞苑や大辞林)にも載っていない。
 陳は陳腐の陳、要するに古いということらしい。何でこんな馬鹿げた医学用語をわざわざでっち上げるのか。

 おどろおどろしい病名?のわりには、判定はBで「軽度異常」。「わずかな異常が見受けられますが、日常生活には差し支えありません」。

 ネットで調べても、「気にせず放置」するしかないようだ。精密検査も経過観察も生活改善も必要ないらしい。それらが必要なものはCやDになる。

 何もすることがなくて、気にもせず放置するのが正解なら、何のために告知しているのやら。
 家人のようなノーテンキな人にはいいかもしれないが、私のような心配性の人なら、要らぬことを言われてストレスになるだけだ。

 Bはもう一つあったが、家人はやはりまったく気にもしていない。羨ましい性格である。

 去年までは何もなかったのは確実なので、何か思いあたることがあるはずだと話すうち、年末年始にかけてしつこい咳が続いていたのを思い出した。
 あれが胸膜炎で、それが治った跡がレントゲンに写ったのかもしれない。

 仮にそうだとすると、「陳旧性胸膜炎」はないよね。その伝でいけば、いわゆる盲腸が治った人は「陳旧性虫垂炎」だということになってしまう(まさかそんなふうには言わないだろうな)。
 あ、切除した場合は違うか。

 いずれにせよ、この件に限らず、医学用語の世界には、医学者の国語力を疑わざるを得ない事例が非常に多い。
 誤解を産むような医学用語は修正していってもらいたい。

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2017.06.13

◆高文脈文化 あるいは ヤマセミ

 日本は高文脈文化(high-context culture)であると言われている。

 要するに、場面や文脈から「言わなくてもわかる」ことを前提に社会が成り立っている文化だというわけだ。

 程度の差はあれ、日本から見ると他のほとんどの文化は相対的に低文脈文化(low-context culture)で、「言わなければわからない」ことを前提に社会が成り立っているとされる。
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030a5832_copy_2 過日、人に教えられてヤマセミを撮影に出かけた。

 ふだん、わざわざ特定の鳥を見るために出かけたりはしないのだが、まだ2〜3回しか見たことのない珍しい鳥が至近距離で撮影できる確率が高いというので、行ってみる気になった。

 教えていただいたポイントに着くと、先客が3人いらっしゃった。挨拶をして、「出てますか」と聞く。「いや、今日はまだですなあ」という返事。

 その後出るまで30分ほど、出てからも30分くらい(結局3回現れた)、都合1時間ほどそこにいた。

 その間にもう3人ほど来て、私を含めぜんぶで7人になったと思う。同好の士ということもあり、それなりにいろいろ会話もした。

 が、途中で気がついて、結局最後までそうだったのだが、その1時間、7人の誰ひとり、「ヤマセミ」という語を口にしなかったのである。

 「なかなか出ませんなあ」「だいたい5時ごろによう出るんやけどね」「あ、鳴いた」「来たで」「大きいんですね」「私まだ見たことないんですよ」「ほら、その枝の上」「昨日もそこに止まりましてん」「あ、飛んだ」「魚くわえてる」「ほぉ、昨日はつがいでいたんですか」「今日のあれはオスですなあ」「昼間はダムのほうにいるらしいですわ」「こないだ名古屋のやつを見に行きましてん」「武田尾には最近出ませんなあ」・・・

 ホトトギスも鳴き、ミサゴも狩りをしていたのだが、そこに集った全員の興味の中心がヤマセミにあることは自明だという文脈の下、ヤマセミには一切言及せずに話をするのである。

 でも、そんなことは当然ではないか。言わなくてもわかることをわざわざ言う必要はない。
 ・・・というのが高文脈文化で、低文脈文化であれば、きちんと「ヤマセミ」とか「それ」とか言うのだろう。

 そういう文化は言語自体の中にも埋め込まれていて、だからたとえば英語では、主語が省略しにくいとか目的語はもっと省略しにくいとか、そういうこととも繫がっているのだ。

 「見た?」

ですむことが

 "Did you see what I saw ?"(私が見たものをあなたは見たか)

になってしまう(よく聞く表現だ)としたら、なかなか大変である。

 うーん、しかし・・・

 上のヤマセミと同じ状況が英語圏であったとして、ほんとに「ヤマセミ(Crested Kingfisher)」という単語を使うのだろうか。

 使わなくていいよなあ・・・とは思うものの、

 Hello. Appeared ?
 Not yet.

みたいな会話はやっぱりちょっとヘンかもしれない。

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2017.06.03

◆座右の銘は「面従腹背」

 今話題の前文部科学事務次官、前川喜平氏が報道ステーションのロングインタビューを受けた映像を見た。

 種々の点で興味深く示唆に富んだ内容だったが、ひときわ印象に残ったのは、氏の座右の銘が「面従腹背」だということだ。

 中央官庁のトップにまで上り詰めた人物の座右の銘が「面従腹背」・・・

 「役人の心得として、ある程度の面従腹背っていうのはどうしても必要だし、この面従腹背の技術っていうか資質っていうかそういうものはね、やっぱり持つ必要があるんで」

 なるほど。

 こういうふうに信念を持って肯定的に捉えられるなら、面従腹背のストレスもいくらかは少なくなるかもしれない。

 だが、事務次官の上には大臣や政府が存在するにせよ、その下には広大なピラミッドが広がっているのである。文科省の官僚から、全国に広がる学校や幼稚園の教職員に至るまで。
 そのそれぞれが「面従腹背」の「資質」や「技術」を「心得」として「持つ必要がある」のだとすれば、それはなぜなのか。
 それはとりもなおさず、中央官庁としての文部科学省が、「面従腹背」せざるを得ない馬鹿げたことを押しつけてくるからではないのか。

 その文科省トップの座右の銘が「面従腹背」だというのなら、文科省自体も被害者で、やはり諸悪の根源は政府(そしてそれを選んだ国民)なのか・・・
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 結局のところ世の中は、「腹背」では動かず、「面従」で動いてしまっている。

 失敗することが目に見えているような「新機軸」を矢継ぎ早に打ち出す文科省の方針に次々と面従させられて疲弊し、それでも誰も責任を取らない世界にストレスを溜め込んでいる現場から見ると、「トップまでが「面従腹背」などと言っていたのでは、そりゃこの悪弊は改まらないよなあ」と絶望的になってしまう。

 前川氏は「今、私、面従する必要がなくなったんでね」「38年宮仕えして初めて自由を獲得したんですよ」とおっしゃる。

 そうなのか。事務次官になっても、面従したまま終わってしまうのか。肝腎なのは、腹背のほうにこそあると思うんだけれど、その腹背でいったい何ができたんだろう?

 旧日本軍も、結局はほとんどが「面従」から脱却できず、全体として破滅へと突き進んでしまった。「いや、私は面従腹背でした」などというのは、後付けのエクスキューズくらいにしかならない。
 戦線拡大や日米開戦に反対して退職させられ、戦後自決した将軍のような人物が、ほんとにごくごく少数しかいなかったから、あんなことになってしまったのだ(そういう人こそ生き続けるべきであったのに)。
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 書き始めたときはこういう流れになる予定ではなかった。むしろ、前川さんへの応援讃歌を綴るつもりであった(今「前川がんばれ」というフレーズが頭に浮かんだ(正しくは「前畑」ですね))。

 前川氏が「多くの公務員はものすごく息苦しい中で暮らしているわけですよね」「物言えば唇寒しなんていうどころじゃない」というのも理解できる。
 でも結果として、やはり各自が「今いる場所で」できることすらしていないということがわかってしまったのは、なんとも切ない。
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 ただし・・・

 「次官であればですね、「どうなんですか」と大臣と一緒に私のところに来ればいいじゃないですか。一体じゃあ、なんでそこで反対しなかったのか不思議でしょうがないんですね」などと言い放つ総理大臣には、誰も何も言えない。

 そんなこともわからない(ふりをしている?)人物が「一強」では、面従腹背も役には立たないだろう。

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2017.05.26

■揚げ足取りによる馬鹿馬鹿しい閣議決定の連発

 共謀罪にからむ答弁の際に安倍首相が「そもそも」と言った件で、今だに政治資源が浪費されている。

 政府は今日、「首相が自ら辞書を引いて意味を調べたものではない」とする答弁書を閣議決定したという(mainichi.jp)。
 問題となった首相答弁は、1月26日の衆議院予算委員会でのものだ。そこで使われた「そもそも」の意味がああだこうだと揚げ足を取られ、首相や政府も頭の悪い不誠実な答弁を4か月も繰り返していることになる。

 首相が最初「辞書で調べたら『基本的に』という意味もある」と答弁したのは嘘だったのだろう(そういう記載のある辞書は見当たらないし)。次には、誰かが調べてきた「どだい」というのを見つけ、だから「基本的に」だと閣議決定した。
 そして今度は、「首相自身は辞書を引いていない」と逃げているのである。
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 頭のいい官僚が山のようにバックについているのに、どうしてこういうことになるのか理解に苦しむ。
 もしかすると、助け船を出さずに、政治家の馬鹿さ加減を陰であざ笑っているのだろうか。

 国会中継を聞いていれば誰でもすぐにわかると思うが、「そもそも」というのは、首相の口癖の一つである。一度数えてみればいいと思うのだが、耳障りなほど「そもそも」を連発している。ちょっと苛立ったときなどにはてきめんに顔を出す。
 それだけのことなのだ。

 もう一つ、ほんの少しの労を厭わず辞書を引けば、「そもそも」の語義として「改めて説き起こすとき、文頭に用いる語」などがあがっている。こういう言葉の「意味」を説明することは非常に難しいし、別の言葉に言い換えることはまず不可能である。
(「どうせ」とか「せっかく」などという言葉の言い換えを考えてみてほしい。あるいは英語などに訳してみようと試みてみてもいい。)

 「改めて説き起こす」「そもそも」の場合、「文頭に用いる」と書かれていることが首相の用法と異なるから答弁に採用されなかったのだろうか。

 首相は、「今回は『そもそも』犯罪を犯すことを目的としている集団でなければならない。これが(過去の法案と)全然違う」(asahi.com)と述べたのだが、言いたかったのは、「そもそも、今回は犯罪を犯すことを目的としている集団でなければならない」ということではないだろうか。
 日本語は比較的語順が自由なので、この程度のことは話し言葉ではいくらでもあることである。

 安倍首相を庇うつもりはないが、こういうつまらない言葉尻をとらえて政治資源を浪費している野党も野党だと思う。そして、首相や政府の方も、「口癖が出ただけだ」では格好がつかないのなら、「「改めて説き起こす」ために使ったのだ」と答弁すればそれですんだはずだ。
 マスコミがそういう指摘をしないのも腑に落ちない。

 こんなつまらないことで4か月にもわたって揚げ足を取り続けたり(野党)、見苦しい答弁書を何度も閣議決定したり(首相・政府)するなど、政治資源を浪費するのは是非やめてほしい。

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