2017.03.01

●ガリレオ式双眼鏡

 屈折望遠鏡には代表的な基本システムが2種類あって、ひとつはケプラー式、もう一つがガリレオ式である(望遠鏡を二つくっつけると双眼鏡になる)。

 簡単に言えば、

 ケプラー式は
対物レンズ(見たいものに向ける大きい方のレンズ)も
接眼レンズ(眼に近づけて覗く小さいレンズ)も   凸レンズ、

 ガリレオ式は
対物レンズが凸レンズ
接眼レンズが凹レンズ
になっている。

 もう一つ、ケプラー式は、そのままだと対象が上下左右逆さま(倒立)に見えるが、ガリレオ式ではふつう(正立)に見える。

 ガリレオ式は倍率を上げるとその2乗に比例して視野が狭くなるため、現在市販されているほとんどの屈折望遠鏡や双眼鏡はケプラー式が基本となっている。
 天体望遠鏡では(私個人は同意できないが)逆になっても問題がないので、星見人たちは星を逆(倒立)像のまま見ている。

 地上望遠鏡や双眼鏡ではそうはいかないので、ふつうはプリズムを鏡代わりに使って正立像に戻すように設計されている。もちろん、実際には凸レンズ2枚などというシンプルなものはなく、たとえば私が愛用する双眼鏡では、片側で10枚の凸凹レンズを組み合わせた複雑な設計になっている。

 現在では、ガリレオ式は安物のオペラグラスくらいにしか使われていない。そんなものを購入するくらいなら、数千円のふつうの双眼鏡を買う方が何十倍何百倍も素晴らしく、たとえ千円以下とかであっても、ガリレオ式の安物オペラグラスを買う意味はない。

 前置きが長くなった。

 そんな中、ガリレオ式双眼鏡で唯一(というか唯二)購入する意味があるのが、笠井トレーディングから発売されているワイドビノ28(Widebino28)と、ビクセンのSG 2.1×42だ。前者が元祖である。

 特徴は、何と言っても視野が広いことと倍率が低いこと。ふつう双眼鏡は8倍前後だが、ワイドビノは2.3倍、SGは2.1倍だ。

 視野の広さを生かして、星空観察用としてごく一部の人たちに人気がある。星座全体が視野にすっぽり収まる双眼鏡は他にない。
 鳥見用としては、渡りの時に遠方のタカを探したりするのに威力を発揮すると思われる。

 ワイドビノ28はずっと以前から気になっていたのだが、いろいろ問題があって購入に至らなかった。何よりも問題なのは、眼鏡をかけたままでは広い視野が得られないこと。それだけでもダメなのに、わざわざ裸眼で覗いても、私の視力では無限遠にピントが合わない可能性が高かった。

 それが、ひょんなことから、昨年の春にモデルチェンジがあり、全面改良されているのを知った。
 眼鏡をかけたまま(実用上)使えないのは相変わらずだが、裸眼でちゃんとピントが合うようになっている。それだけでも素晴らしいのに、レンズの研磨やコートが良くなり、見え方も飛躍的に改善されたと書いてある。

旧製品より格段にコントラスト&シャープネスが向上しています。視野内のカラーバランスも非常にナチュラルで、旧製品に見られた視野着色は全くありません。
「全く」とは、ちょっと信じられないほどの自信だけれど、これはもう買うしかない。

 とはいえ、安い製品なのでそれほど期待していなかった。

 だが、今日届いたのを見ると、想像したより大きく重く、質感も高い。考えてみれば、42mmクラスなのだから、これくらいで当然なのだが、そのあまりの短さに惑わされていたのだ。
 メーカーの宣伝文句もあながち大袈裟ではなく、これだけシンプルな光学系なのに、周辺視野で糸巻き歪曲がある以外はなかなか素晴らしい。

 これは双眼鏡好きなら必ず持っておくべきものだろう。

 これを購入したことで、双眼鏡好きの末席に連なることができたかと思うと、ちょっと嬉しい。

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2017.01.04

■阿蘇の陶芸家:工房 ゆう

 2016年12月27日。せっかく阿蘇に来たのに、あいにくの天気。

 震災の復旧が進んでおらず、阿蘇山上には北からしかアクセスできなくなっているということで、とりあえず、道の駅阿蘇まで来てみたものの、さて、この天気ではどうしようかなあというときに、ちょっと気になる焼き物を見つけた。

 もとより、焼き物の趣味も知識もないのだが、ごくたまには、気に入って購うこともある。値段も安いし、これ買って帰ろうかなと思ってから、ふと、それよりもこの陶芸家を訪ねてみて、そこで買おうと思った。

 動機はだから、「天気も悪くて他に行くところもないので」に近い。失礼な話である。

 幸い、工房までは10kmもない。ただ、場所がわかるかどうかという不安を抱えつつ、スマホのナビを頼りに行ってみた。

 近くに、うどん屋さんと季節料理のお店があるので(といってもそういうのがあることが信じられないような田んぼの真ん中です)、それらを目印にしながら進む。特に「手打ちうどん」の看板が役に立った。目指す場所は「季節料理 ふじ川」の向かいである。

20161227 このあたりのはずなのだが本当にあるんだろうか、仮にあるとしても、看板とかは上がっているのだろうかと不安を抱えていると、邸宅といってもいいような立派な門構えのお宅に「工房 ゆう」と書いた木の札がかかっているのを見つけた。

 門は開いていて、中に車を駐める広さが十分あることは、外からでもわかる。行ったはいいが、駐車できるのだろうかという心配もしていたが、杞憂であった。

 工房とおぼしき建物の戸も空いていて、「すみません、こんにちは」と声をかけながらおそるおそる中へ入る。出迎えてくれたのは、30代前半に見える若い陶芸家であった。

 「あのう、ここはご実家なんですか」というのが、好奇心を抑えきれずに出た最初の質問だったと思う。貧しい陶芸家の工房にはとても見えなかったのだ。重ね重ね失礼な話である。

 結論を言えば、大家さんの離れを安く貸していただいているだけということであった。

 どうして道案内の看板を出さないのかと伺うと、「通りすがりに来られてもちょっと困るんです。わざわざここを目指して来てくださる方に来ていただきたいし、そういう方はちゃんと見つけて来てくださるんですよね」とのこと。

 いやいや、諦めて去ってしまった人には会えないからでは・・・とも思うが、それは口に出さない。
 ネットやSNSで広めてくださるのは大歓迎ということなので、お言葉に甘えてこうして記している。

 さて、そこからは作品を見せていただきながら、いろいろとお話を伺うことになった。
 「お邪魔してすみません、どうぞ、お仕事を続けながら」

 だんだんと、職業的なインタビューをする感じになってくる。そうして伺ったことは、とてもここには書き切れない。

 「大学はまあ、一応行ったんですけど、落ちこぼれてついていけなくなって」とおっしゃるので、それ以上詮索しないでいたところ、壁に貼ってあったポスターに「九州大学工学部機械航空工学科に進学した」とあるのに気づいた。

 のちにまた大学の話になったとき、実は大学院にまで進んでいたことがわかる。そういう感じの人である。

 釉薬は、自分で刈り取ったススキを焼いた灰から作る。あるいは、昨秋、36年ぶりに爆発的噴火を起こした阿蘇の火山灰を利用する(←リンク先はインタビュー動画で、音が出ます)。

 作品としては、せっかくなので、阿蘇の荒々しさや溶岩を思わせる焼き物を作りたい。でもやっぱり、焼き物を買ってくださるのは女性が多く、「カワイイ」を求められるので、個性や思いを殺してそういうものも作っている。

 私が買ったのも、結局は溶岩のモチーフとは関係のない、深みのある青を基調とした湯飲み茶碗であった。

 会計をしながら年齢を伺うと、実は不惑をいくつか越えているという。若く見えますねと驚くと、「この世界で若く見えるのは・・・」と苦笑なさる。

 そこにあった、明らかに「作品」と呼ぶにふさわしい花挿しに話題が及ぶと、「これは、壁を表しているんですよ、人種の壁・民族の壁・宗教の壁・・・ それにこういう、風穴を開けているんです」という。

 そしてとうとう、「作品を通して世界平和を訴えたいんですよね」とまで言ってくれた。

 「いや、もちろん、だからなんだ?って話なんですけど」と付け加えるのは忘れない。

 私だって、ふだんそんなことは人に言わないが、やはり仕事を通して訴えているつもりなのはそういうことである。
 それを伝え、薄暗い阿蘇の工房の片隅で、束の間、2人で世界平和に思いを馳せた。
 もとより、だからどうした、という話であることは承知しつつ・・・

 帰り際、途中でも勧めてくれたカフェを、今度は熱心に勧める。私が大阪から来たというと、「大阪から来た夫婦がやってらっしゃるお店があるんです」といって始まった話題だ。
 コーヒーは飲まないようにしているし、その時はまず確実に行かないだろうと思っていたのだが、社交辞令として名前や場所を確かめた。

 だが、ちょうどお昼も近く、そばのうどん屋さんの駐車場で開店を待っていても休みのようだったので(翌日、実は開いていたことがわかったのだが)、結局そのカフェに向かうことにした。調べると、ランチも食べられることがわかったのだ。

 確かに素敵なカフェだったのだが、工房の主とはちょっと方向性が違う感じで、どうして熱心に勧めたのかはわからない。
 カフェについてはまた別の機会に。
 ___

 工房 ゆう:田中耕治さん

 〒869-2613
 熊本県阿蘇市一の宮町中通1707

 駐車場の心配はまず必要ない。

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2016.02.24

◆イサム・ノグチ庭園美術館

02151

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2014.08.01

★遠き花火

 会議が始まる前、隣に座った同僚が何気なく「今日はPLの花火ですね」と言った。

 今まで一度も見たことはないが、全国でも有数の(ということは世界でも有数の)花火大会であることはもちろん承知している。
 でも、人混みが嫌いだし何となく遠いしで、今まで一度も足を運んだことがなかった。どうも毎年8月1日であるらしいのだが、そんなことすら知らなかった。

 ただ、今年になって手軽に行けるようになった箕面の丘から大阪平野が一望できることを知っていたので、そこから遠方の花火を見てみようという気になった。

 夕食後に出かける。

 思いのほか、夜風が涼しく快適だ。
 もちろん花火は大きくはないが、肉眼でも思ったより綺麗にはっきりと見える。これはこれで、近くで見るのとはまた違った趣がある。
 しかも、双眼鏡を使うとけっこう大きく見え、それでいて視野内にすべての花火がおさまるのでなかなかいい。

 望遠鏡を持ち出そうと思っていて忘れたのをちょっと後悔した。場所が固定されているから、望遠鏡にはもってこいだ。おそらく、視野いっぱいに花火が広がることだろう。
 来年はぜひ、と思った。気の長い話である。

 驚いたことに、花火の音までが聞こえてくる。調べると、直線距離で40kmほどあるので、ほぼ2分後!に音が聞こえてくることになる。ちょっとしたタイムマシンだ。

 花火の上空が大阪空港のファイナルと重なって見え、次々と飛行機が降りていくのもおもしろい。こんな日のこんな時間の飛行機に乗り合わせ、上から見下ろすことができた乗客たちは幸運だ。

 それほど知られた場所ではないが、花火がなくても夜景が綺麗で、車が十台くらいは停まっていただろうか。エンジンをかけたままの車が多いのは興ざめだった。

 車の外にいる見物人は、カップルが数組と家族連れが1組。若い女の子らしいのは、みんなミニスカートを履いている。
 タンデムのバイクで来たカップルの女の子もミニで、ちょっとどうなんだと思わされた。

 まあ、いずれにせよ、みんな幸せそうだ。

 さすがの私も一人で花火は見に行かないので、今日は隣に家人がいた。

 かつて、サントリーのコマーシャルで「恋は、遠い日の花火ではない」というコピーがあったのを思い出す。
 だが、近くのカップルたちを見ていると、明らかに、恋は遠き花火なのだと思い知らされた。

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2013.09.10

■ことばは生き物

 大学受験生から「「ことばは生き物だ」ってどういう意味ですか」と聞かれた。

 なぜそれが一番聞きたかったのかがよくわからなかったし、どういう文脈で出てきた表現なのかもわからなかったのだが、即興で適当に答えておいた(すみません)。

 もうちょっとわかりやすく、一般的な答を書いておきますので、よかったら参考にしてください。
 (念のため、今後新しい質問をいただいても答えられませんので、あしからずご了承ください)

  うまくできるかなあ?
 ___

 「ことばは生き物だ」と言われるのは、ことばというものが生き物と同じように、生まれ、成長し、変化し、老い、死んでいくからです。

 成長の早いものや遅いもの、立派に成長するものやそうでないもの、急速に老いるものや寿命の長いものなど、いろいろなことばがあるのも、生き物と同じです。そしておそらく、生き物と同じように、すべてのことばはいつか死んでいきます。

 いわゆる流行語というのは、次々に生まれて爆発的に成長しますが、あっという間に老いて死んでいくことばです。ただ、まれに長生きすることもあるのが面白いところです。

 ことばはまた、生き物と同じように、姿を変えていきます。あおむしがサナギになり、やがて蝶になるように(という例はちょっと適切ではないかもしれませんが)、意味や音や使われ方が変わります。たとえば古語の「おどろく」「ののしる」「うつくし」「おまへ」と現代語の「驚く」「罵る」「美しい」「お前」とを比べてみてください。
 それだけではなく、同じことばが使われ方によってさまざまな意味を持ちます。たとえば、関西弁の「あほ」というのは、文脈によって、罵倒から「好き」まで、あらゆるニュアンスで使われます。おそらく共通語の「ばか」も似ているのではないでしょうか。

 生き物とは思えないほど寿命の長いことばもあります。よく使われる基本的なことばの中には、よく使われるからこそ変化が大きいものもありますが、安定してあまり変わらないものもあります。前者は例えば、やさしい動詞ほど語形変化が激しい英語を思い浮かべてください。後者は例えば、「顔」「手」「足」「行く」「来る」などを考えるといいでしょう。それでも「来る」は形がかなり変わってきていますね。

 さて、ことばは生き物と同じように、次々と生まれ、また死んでいきます。生き物と違うのは、生まれたことばは常に「正しく」なく、間違いだと思われたり奇妙だと思われたり下品だと思われたりすることです。
 しかし、そのうちのいくつかのことばが成長し、多くの人に気に入られてふつうに使われるようになります。そうなると、いつの間にか「標準的な」「正しい」ことばとして認められます。
 世界中のあらゆることばはすべて、このサイクルを常に繰り返しています。私たちが今「標準的な」「正しい」ことばだと思っているもののほとんどは、かつては間違いだと思われたり奇妙だと思われたり下品だと思われたりしていたものです。
 言い換えれば、「正しさは常に間違いによって駆逐されていき」「その間違いが新たに正しさを獲得する」ということです。私たちが使っている「正しい」ことばは、歴史的な「間違い」の集積です。

 最後に、もちろん「ことば」は語句に限りません。上にも少し書きましたが、発音や表記や文法から実際の使用法に至るまで、何もかもが生き物のように生々流転します。
 私の嫌いな「間違った」ことば、「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」「千円からお預かりします」「ご使用できません」「半端ない」「真逆」などは、もはや市民権を得つつありますが、これらが「正しい」ことばとして認められるのはいつごろのことになるでしょうか。

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2013.03.12

●茶道が抹茶を遠ざける

Dsc07768_169 珍しく京都へ出たついでに、野点用の黒楽(というらしい)の抹茶茶碗と茶筌と抹茶を買ってきた。

 先月、高級?温泉旅館に一泊したとき、部屋に入ると仲居さんが抹茶を点ててくれ、そのことに妙に感心したのが尾を引いているのだ。

 家へ帰ってネットで点て方を調べ、一服点ててみると十分なおいしさである。

 これまで、人の点てた抹茶をいただいたことは数回ある(たぶん10回もない!)が、自分で点てたのは初めてだ。

 二服目は調子に乗って?点ててからマグカップに移して抹茶ラテにした。スターバックスのも、こんなふうに作ってるのかな?(まさか、ね)
 ___

 それにしても、どうしてこの年になるまで抹茶をほとんど飲まなかったんだろう?

 それにはおそらく、茶道が影響している。

 抹茶には、お点前がわからない者が飲んではいけないような妙な威圧感があるし、点てる方が着物を着ていたり作法を教えたりするので、そういう飲み物だと思ってしまうのだ。

 かつて小林秀雄が「真贋」というエッセイの中で次のようなことを書いていた。
 ひょんなことから高価な彫三島の茶碗を手に入れたのだが「私は茶の方は不案内であるから、それで紅茶や牛乳を飲んでいる」というのだ。

 小林ほどの「文化人」にしてそうである。
 いや、抹茶茶碗で紅茶や牛乳を飲むのはべつにかまわない。だが、それほどの自由人でありながら、「茶の方は不案内であるから」飲まないというのには驚かされる。

 世の中に、「コーヒーの方は不案内だから飲まない」とか「日本茶の方は・・・」とかいう人がいるだろうか。
 そもそも、「紅茶や牛乳を飲んでいる」という小林は、それらには明るかったのだろうか。

 もちろん、紅茶や牛乳に「不案内」であっても、人はふつうに飲む。珈琲道や紅茶道や牛乳道などというものは存在しない。

 そう、ひとり抹茶のみが、飲む者を妙に構えさせるのである。

 だが、実はなんということもない。抹茶の粉末を茶碗に入れ、80℃のお湯を注いで茶筌でしゃかしゃかとかき回せば、立派な抹茶のできあがり。
 案内も不案内もなく、ふつうに楽しめる。

 そのままではおいしくない人がいたら、少し砂糖を入れたっていいし、何ならラテにしてもいい。

 三千家の家元なんかが聞いたら何とおっしゃるかは知らないけれど。
 ___

 ・・・というようなことを書いている私にしたって、これまで抹茶を点てたことはなかった。

 やはり、茶道が抹茶を遠ざけているからである。

 そのせいで消費の伸び悩む抹茶は、一足飛びに、できあいの「抹茶ケーキ」や「抹茶ソフト」や「抹茶ラテ」なんかに販路を広げている。

 だが、ふつうに抹茶茶碗と茶筌を使ってしゃかしゃかとやる「お薄」なんかは、茶道の軛(くびき)から解き放つだけで、われわれの日常的な飲み物になるはずだ。

 これからたぶん、私も毎日のように(というのはちょっと大袈裟かな)抹茶を喫することになると思う。

 「一服」とか「点てる」とか「喫する」とか言ってるからだめなんだろうけれど・・・

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2011.10.03

◆夢と難関

 先日、招待を受けてミュージカルを見てきた。

 ホールに出かけて舞台を見るのは2年半ぶり。前回は中島みゆきの「夜会」だった。
 これでもまだ、短いインターバルである。実に非文化的な家庭だ。

 ミュージックスクールやダンススクールで学ぶ学生たちが中心のダンスミュージカルだったのだが、場所は一流施設の大ホール、舞台装置なんかも手間暇のかかった大がかりなもので、(おそらくは)プロの興行と比べてもそれほどの遜色はない。

 だが、100人を超えようかという出演者のほとんどは残念な容姿の人たちだった。
 顔はまあ仕方ないとしても、太い体にだぶついたお腹をさらして踊っている人がいるのを見ていると、一応はプロを目指している身としてどうなのかなあと思わざるを得ない。
 小中学生のお稽古事としての歌やダンスではなく、高校や短大、大学などを卒業した人たちが入学してくる、フルタイムのスクールなのだ。

 歌やダンスに関してはこちらにまったく鑑賞眼がないので何とも言えないが、おそらくはそんなに高いレベルのものではあるまいと察せられた。

 そんな中、集団ダンスの時に、容姿の点からも動きの面からもちょっとだけ目を引く女性が2人いるなあと思っていたら、やはりというか、その2人が後のミュージカルの主役なのであった。

 あれ? もしかして、オレって鑑賞眼があるのかも ^^;
 ___

 読み返してみて、何だか意地の悪い文章だなあと思ったが、もちろん、意地悪を言うのが目的ではない。

 そうではなくて、この世界の厳しさというか難しさについて舞台を見ながら考えさせられていたのだ。

 おそらくは、100人全員が、私とは比べものにならないぐらい上手に歌い、踊る。
 別に私なんかと比べなくても、普通の人たちよりははるかにうまいに違いない。歌や踊りが好きだという情熱だって、人に負けてはいない。
 だからこそ、先の見えない中、学校に通って歌やダンスに打ち込んでいるのだ。

 ミュージカルの中には楽屋落ちみたいな挿話もあって、

 「俺、もうダンスは諦めるよ」
 「どうして? それに、ダンスを辞めてどうするの?」
 「何かアルバイトでも始めるしかないよ」
 「何を言ってるのよ。あなたには才能があるのに」

のような場面が繰り広げられていた。

 そう、私が見たところ、あの100人のうち、歌や踊りで何とか食べていけるのはせいぜい2〜3人。残りはすべて、夢を諦めることになるだろう。まあ、趣味として続けていくぶんにはいいだろうけれど。

 そして「何とか食べていけ」ても、それは文字通りそうなのであって、華々しく活躍できるようになる人はおそらくゼロである。
 あそこでトップでも、バックダンサーになれるかどうかもわからない。

 そもそも、大阪に住んでいる時点でどうなのかなとすら思ってしまう。
 ___

 みんな、宝塚音楽学校には落ちたのだろうか。それとも、受験を考えることすらできないレベルだったのか。まあもちろん、「あそこは合わない」と思ったかもしれない。

 ともかく、その宝塚を出てさえ、スターになれるのはほんの一握りだ。この道の難しさを思うとき、目指している人が多いのにはちょっとした目眩を覚える。

 東京藝術大学が神童の墓場だというのはよく言われる。周囲から天才だ神童だと本気で賞賛され続けてきた者でも、そこではほとんどが平凡な学生に過ぎない。そして、本当に残念なことながら、私の目の前にいた100人は、その「平凡な学生」ですらないのである。

 スポーツや芸術やダンスで身を立てることは、東京大学を出て身を立てることよりもはるかに難しい。
 「あなたも努力すればなれますよ」みたいな顔をしてテレビに出てくる人たちは、神童の中の神童なのだ。途方もない努力も重ねている。

 楽屋落ちの挿話を演じる仲間を横目に見ていても、この人たちはそのことを「ほんとうに」わかっているのだろうかと思ってしまう。

 それに、もし、素朴な少年少女たちに叶わぬ夢を抱かせることで授業料を集めることがスクールの目的になっているとしたら・・・

 いや、それでも、「青春の一時期、私はダンスに打ち込んだ」という確かな体験と思い出が残れば、それはそれで素晴らしいことかもしれない。

 そんな体験を持ち得なかった男の戯れ言に耳を貸す必要はない。

 (それでもまあ、息子がダンサーを目指すとか言い出さなくてよかったとは思うけれど)

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2011.09.16

■氏名か名氏か

 ふだん、平日の午後2時ごろに車に乗っていることがある。何だか営業マンみたいだ。

 車の中ではラジオを聞くことが多いのだが、2時からはめぼしい番組がないので仕方なくNHK第2放送で Radio Japan を聞いている。英語で放送しているニュース番組だ。

 その中で、日本人に言及するときは、ヨシヒコ・ノダ(佳彦野田)のように、名氏の順で呼んでいる。ところが、韓国人だと、イ・ミョンバク(李明博)とかパン・ギムン(潘基文)のように、本来の氏名の順になっている。
 中国の要人も同じで、フー・チンタオ(胡錦濤)とかウェン・チアパオ(温家宝)だ。ベトナム人だって、おそらくはホー・チミン(胡志明)式だと思う。

 近年は、日本の中学校の英語教育でも、たとえば I am NODA Yoshihiko. と、氏名の順に話すよう指導しているらしいが、ここで問題にしたいのはどちらが適切かということではなく、同じ英語ニュースの中で日本は逆順に、韓国や中国は正順に呼んでいるという点だ。

 やっぱりそれは妙なので、どちらかに統一した方がいいんじゃないかと思う。

 まあ、そういうことをNHKに言っても(説明や反論以前に)そもそも真面目に聞いてくれなかった経験があるので、ここに書くだけにしておく。

 でも、日本だけ氏名がひっくり返されてしまうのはどうしてなんだろう? 日本人がとりわけ「自主的に」ひっくり返して英語話者におもねった歴史があるからだろうか(あるのかどうか知らない)。

 今回の訪韓でいただいた韓国人の名刺8枚を見ると、ローマ字表記のほうは6人がイ ミョンバク方式、2人がミョンバク イ方式であった(日本人にも1人だけいただいたが、それは、NODA, Yoshihiko 方式だった)。ハングル表記のほうはもちろん全員がイ ミョンバク方式である。
 偏った少ないサンプルなので、それで何が言えるわけでもないけれど。

 みなさんの名刺はどうなってますか?

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2011.08.03

★森山大道のモナリザ

 森山大道の写真展を見てきた。

 入場料を払ってだれかの写真展に行くなんて、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。

 そして、案の定というか、残念なことに、ただの一枚も心に響く写真が見いだせなかった。
 その逆に、「何じゃこれ?」という作品には事欠かない。そもそも何を撮しているのか皆目見当もつかないもの、被写体がボケてブレた、粒子の粗い白黒写真・・・

 その中で、ほとんど唯一「これは」と思ったのは、例の野良犬の写真だ。

 私のように、写真にも芸術一般にも縁のない男でも、知っている可能性があるただ一つの写真。

 なるほど。これは「モナリザ」なのだなと思った。

 レオナルド・ダ・ビンチが描いた他の絵をご存じだろうか。もしかすると賢明な読者は即座に複数の絵画の名前を挙げることができるかもしれない。
 だが、多くの日本人にとって、ダビンチが描いたのはモナリザだけであり、私自身、今ほかに思い浮かぶのは、「最後の晩餐」ぐらいだ。

 ルーブル美術館では、すべての絵画の中でモナリザだけが完全に別格の扱いをされ、たとえば私が最初に訪れたときは、一枚だけ特別な小部屋?の奥に飾られ、ガラスとロープを隔てた場所から他人の背中越しにのぞき見るしかなかった。
 そして、押し寄せる人並みを捌くために定期的に照明がつけたり消したりされていた。真っ暗で何も見えなくなると人々はそこを離れ、また別の集団が前に陣取る。すると、また照明がつけられるのだ。

 暗くなったときに、ある男性の発した言葉が今も忘れられない。
 「とにかくこれで本物は見たな。次行こ」

 ともかく・・・

 森山大道を紹介するビデオ映像を見ていると、この「野良犬」が登場したが、それが裏焼きに見えるのが気になった。左を向いているはずの犬が右を向いているのだ。
 別の写真なのかなとも思ったが、その後、裏焼きの?写真がボディにプリントされたカメラなんかが展示されているのを見て疑念を持った。光の当たり方を見ていると、同じ写真の裏焼きとしか思えないのである。

 もしかしたら、よく知られたことなのかもしれない。あるいは、ただ私が何か勘違いしているだけなのかも。

 だが、モナリザのモデルが実はダビンチ自身だとか、弟子の男性だとか言われているのと似ているような気もする。素人ですら気になる作品には、伝説がつきまとうのだ。

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2011.02.13

◆『竹富方言辞典』

 こういうエントリを書くことはほとんどないのだが、ちょっと宣伝したくなったので・・・

 『竹富方言辞典』というのが発売されるそうだ。日本最南端の出版社、石垣島にある南山舎が出す。

 観光で有名だからご存じの方も多いかと思うが、竹富島というのは石垣島のすぐ南西にある、周囲9キロ、人口320人ほどの小さな島である。

 竹富町というのは西隣の西表島などを含む人口4200人ほどの行政区らしいのだが、ちらしを読む限り、この方言辞典は竹富島だけを対象にしているらしい。

 人口、320人・・・

 それでいて、収録語数は1万7710語。本文編だけで1323(全1560)ページもあるという。
 島を囲む海に劣らぬ、豊饒な言語の海が想像される。
 
 人口320人が使用する方言の「大辞典」。ただ、使用するとはいっても、もはや家庭ですらほとんど使われておらず、それを惜しんだ市井の元小学校長の努力、周囲の協力でここまでこぎ着けたらしい。

 この偉業を言祝ぐ方法の一つは、定価26,250円(先行予約特別価格19,800円:送料無料)のこの大著を購入する(←クリックしても即購入とはなりません。ご安心ください)ことだろう。

 だが、金額もさることながら、私の手元に眠ることになるのも関係した方々に申し訳なく感じてしまう。

 ここは一つ、全国の方言研究者と図書館関係者にぜひ購入をお願いしたい。

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