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2004.02.06

◆囚人としての裁判官

 監獄は、監視者が収容者を一望できるように設計されている。病院と学校もそうだというのは興味深い。
 なかでも監獄は、収容者からは監視者の存在がわかりにくくなっている。そのため、収容者は、実際に監視されていようがいまいが、監視されていることを前提として振る舞うようになる。結果として、自らの行動を監視者の視点から自律的に監視し、収容者自身がもっとも優れた監視者になるのである。
 ミシェル・フーコーが『監獄の誕生 −−監視と処罰』で描いた「囚人」のこの状況が、現在の日本の「裁判官」にぴたりとあてはまっているというのは皮肉なことである。

 最高裁を頂点とするがんじがらめの官僚機構・評価システムの中で、「上」に気に入られる判決を書いた裁判官は順調に出世し、その逆の裁判官は低い地位と給与のまま地方を転々とさせられている。配偶者や子どもがいる場合、その差は単に金銭の多寡にとどまらない。こうなると、相当良心的な裁判官であっても、自分や家族かわいさから、「上」に代わって自ら自分の監視者となり、「上」に気に入られるような判決を進んで書くようになってしまう。
 「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(日本国憲法第76条第3項)という理念とはかけ離れた、以上のような状況が、日本の裁判の常態である。

 そんなことはもちろん、この本を読む前からわかっていた。だが、最後のよりどころである裁判までなくしてしまえば、いったいわれわれは何を信じればいいというのだろう。
 事実は多くの場合、われわれを絶望させる。

『貧困なる精神 O(オー)集 「裁判官」という情ない職業』本多勝一(朝日新聞社2001)

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