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2005.09.29

■自作パスタがうまい

 自作のパスタが滅法うまい。もはや、この辺のレストランのどこで食べるよりも。

 オリーブオイルとニンニクと唐辛子と塩以外には何も使わない。たまに出来合いのトマトソースを入れるぐらいだ。それで、なぜこんなにおいしいんだろう?

 もちろん、野菜を入れすぎるせいもあって見た目がよくなく、とても人様に出せるようなものではない。だが、もはや、いつものトラットリアに行くのをやめて、家に帰って昼飯を作った方が満足感が高いという状態だ。さすがにそんなことは滅多にできないけれど。

 必ずしも独りよがりではなく、家の者も同じ意見だ。おだてて作らせようという魂胆ではない。「飽きると困るから」といって、週に1回も食べてくれないぐらいだ。あれ!? もしかするとまずいのかな(笑)

 オリーブオイルや唐辛子の量、塩加減、パスタの固さが自分の口に合うのかもしれない。でもどれもテキトーだ。もしかして才能があるのかも。

 昨日の夜も今日の昼もスパゲティだったのに、また食べたくなってきた。どうしよう?

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■眼鏡が壊れたぐらいで

緊急事態。眼鏡が使えなければ、パソコンのモニタも見えず本も読めず、もちろん仕事にならない。クルマに乗ることもできなくて、眼鏡屋に行くことすらできない。歩くのだってどうだか。

 その頼みの眼鏡屋も、電話すると「メーカに出すので1週間程度かかります」とか「作業によっては3週間」とか、とんでもないことを言う。それは要するに、「今すぐ新しい眼鏡を買わなければどうにもならない」というのと同義だ。たとえそうするにしても、今日すぐ新しいのを作れるのか?

 その場で修理してくれる眼鏡屋をやっと見つけたが、モノによっては難しいかも、と自信なさそうである。幸い、なんとか使うことはできたので、クルマに乗ってその眼鏡屋へ向かう。初めての店だが、ボランティアのような値段で修理してくれてほっとする。

 予備の眼鏡があったのだが、フライト用の濃いサングラスにしてしまった。昼間の運転ぐらいには使えるものの、とても仕事にかけていけるようなものではない。

 それにしても、たかが眼鏡が壊れたぐらいでこれほど困るとは・・・ 自分が視覚障碍者であることに改めて気づかされた。

 なくて困るものの筆頭は、クルマでもパソコンでも電話でもなく、間違いなく眼鏡だということがわかった。

 驚くのは・・・、壊れてみないとそんなことにも気づかないことである。

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2005.09.27

■アメリカという国

 急いで付け加えておかなければならない。イエローストーンは、アメリカ先住民(インディアン)の土地であった。白人が「発見」する遥か以前から、彼らが利用していた道があり、それらは今も、「トレイル」となって残っている(でも、だれの土地でもなかったというほうがいいかもしれない)。

 いうまでもなく、南北アメリカ全土がもともとは先住民の土地であり、後から来た征服者がそれを「契約」や懐柔や詐欺や侵略や虐殺・・・で略奪したのである。
 アメリカ合衆国の場合、建国時には東部海岸沿いのごく狭い範囲、13州だけしか存在しなかったし、その13州も、もちろん、「契約」や・・・で手に入れたものだ。
 その後、版図を広げる過程で侵略戦争を繰り返し、ウーンデッド・ニーの虐殺で国内におけるそれを終えた。1890年、なんと、南北戦争より後のことだ。
 もちろん、国土を広げる過程でスペインやメキシコとも戦争し、今の合衆国南部を得ている。

 その後、ハワイ、フィリピン、ベトナムなどを侵略したことも周知の通り。最近では、「大量破壊兵器」の幻に怯え(たフリをし)、国連さえ無視して敢行したイラク侵略が記憶に新しい。
 東京や大阪や広島や長崎やその他多くの日本の都市に無差別爆撃や原爆投下を行い、非戦闘員を十万単位で大虐殺したことも、この国に生きるものとして忘れてはならない。

 アメリカを考えるとき、その複雑さには目眩がしてしまう。
 これら侵略・虐殺を繰り返して来た国と、自由・人権・平等・民主主義を唱える国が同じ国なのだ(もっとも、タテマエとしての白人・黒人平等が成立するためにすら、1964年の公民権法成立を待たねばならなかったのだが)。

 世界に冠たる国立公園制度を維持している国と、京都議定書を拒否して圧倒的量の二酸化炭素を排出し続ける国とが同じ国なのだ。

 もちろん、「国」を単位としてモノを考えるのは避けねばならない。だとすると、無力なわれわれは、その良心的な部分に訴えかけ続けていくしかないのか。

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2005.09.26

■「国立公園」

 世界で最初の国立公園だというイエローストーン。紆余曲折があったとはいえ、現在でもその名に恥じない場所なのには感心させられた。

 四国の半分ぐらいの広さだというのだが、そこにある道路は、基本的には、園内をぐるりと回る8の字型(というよりは「日」の字型か)の周回路と、そこから園外へと続く数本のみだ。

 想像してみて欲しい。ここに、日本の小さな県が2つある。その県を囲む県境が道路になっている。県内には道路は1本もない。たとえばそんな状態がイエローストーンなのだ。

 園内にはホテルやレストランが集まった地域が数か所あり、Village と呼ばれている。だが、そこを一歩出ると、食事をすることもガソリンを入れることも水を買うこともできない。店というものが一切ないのだ。屋台だの物売りだのも、まったく(い)ない。もちろん、自動販売機などどこにもない。

 世界有数の観光地であり、毎年何百万人という観光客を受け入れながら、「Keep Wildlife Wild」(野生動植物を野生のままに)という標語が単なるお題目に終わっていないのには感嘆させられる(もっとも、ぼくらみたいな観光客なんて、入れないのが一番なのは確かなんだけれど)。

 「まあ、何といってもアメリカは広いからねぇ」だけではすまない何かが、彼の地の「国立公園」には確かにある。

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2005.09.25

■やっと涼しく

 やっと、日中でも「涼しい」という言葉が出る気候になった。また暑さが戻るかもしれないが、とりあえずはほっとする。一番好きな(好きだった?)秋の到来だ。

 今日は初めての場所にバードウォッチングに行き、オオタカを見た。大阪府レッドデータブックの絶滅危惧 II 類だが、まだ一応、府内に50つがい以上はいるらしい。

 あとは、巣立ち直後のヒヨドリのヒナ。3羽が目白押し。どなたもはっきりとは同定できなかった。もどかしい気持ちで観察しているうちに、親鳥が青虫を運んできて、嬉しい幕切れ。「小確幸」(by 村上春樹)である。

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2005.09.24

■クローサー

 ナタリー・ポートマン、ジュリア・ロバーツ。

 もっともっと相手に近づいていきたいために離れざるをえなくなってしまう皮肉。

 事実を知ることが幸福を放棄することと同義になる悲劇。

 理性を超えた感情と行動に翻弄される道化師。

 虚実のあわいを漂うわれわれ・・・

 結果としては名前すら知らなかった女を真剣に愛していたジュード・ロウの情熱は、だからこそ深かったのか?

(Closer, 2004 U.S.A.)

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2005.09.23

■ビデオ屋閉店

 いつもの貸しビデオ屋に、まもなく閉店する旨貼り紙があった。

 数日前の新聞で、この業界を2大チェーンが席捲しており、中小が淘汰された後にマーケットを独占しつつある、という記事を読んだばかりである。こんなにすぐ、自分に降りかかってくるとは。
 いや、厳密には閉店の理由はわからないのだが、またしても、歪んだ競争社会か、という思いを新たにする。

 記憶にある限り、行きつけのレンタルビデオ店は3つめだが、それが3つともつぶれた。今回は、何の予兆もなかった(気がする)だけに少々驚いた。

 あの機械的で無愛想な店員たちはこれからどうするのだろう。もともとアルバイトがほとんどだろうが、ふつうの学生という年齢ではない。

 たとえこの一瞬だけであれ、幸多かれと祈る。経営者ともども。

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2005.09.22

■追悼:後藤田正晴

 「日本の政治でいちばん大切に思っていることは」?

 「それは平和を守ることですよ。海外へ出て武力行使なんてのは絶対やっちゃいかん、それだけだ。なんでそういう愚かなことを考えるのかね」(蛭田有一写真集『後藤田正晴』朝日ソノラマ)

(『朝日新聞』2005.9.22 より再引)

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2005.09.19

■高齢化社会とエレベータ

 65歳以上の高齢者人口が2割に達したという。実に5人に1人ということになる。

 もっと恐ろしいのは、たった10年後には、4人に1人になると予想されていることだ。

 それはそれ。

 新幹線の駅。車椅子を老妻に押してもらっている夫が、エスカレータの前で降りる。杖にすがって何とか立ち、かろうじて歩を進める程度のことはできるらしい。押しのけるように前に入った男に続き、危なっかしくエスカレータに乗る。
 老婦人は夫の乗っていた車椅子を折りたたみ、やや苦労してそれを段の右側に乗せると、自身もエスカレータの一段下、左側に乗った。

 ほんの2〜3秒後、車椅子が落ちそうになり、それを支えようとした老婦人は後ろへ倒れそうになる。右側に置いた車椅子に手が行っていて、ベルトをつかんではいない。車椅子もろとも、後ろへ倒れるしかない状況だった。

 あのまま後ろへ倒れていれば、少なくとも大怪我は免れない。夫人は入院、夫は介護者を失って生活できなくなっただろう。あるいは、子ども夫婦に父母双方を介護する重圧がかかり、親子2つの家庭がともに崩壊したかもしれない。

 ・・・エスカレータで1人がよろめいたぐらいのことで。

 なぜか、こんなこともあろうかという気がして後ろについていたために、右手で車椅子を、左手で夫人を止めることができ、事なきを得た。

 珍しく、人ごととは思えなかった。
 移動を楽にするためだけではなく、危険を少なくするためにも、エレベータの設置を進めてほしいと切に思った。新幹線の駅だけではなく。

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2005.09.16

■競争社会

 今年の春、アメリカのイエローストーンに行くにはどの航空会社にするのがいいか考えていた。候補に挙がるのは、ユナイテッド、ノースウェスト、デルタなど。同じ会社または系列会社が目的地まで運行しているほうが安心できるような気がしたのだ。

 だが、以前利用したときのいい思い出があるユナイテッドは既に経営破綻していて再建中。残る2つはいつ破産するかわからない。いったい、どれを選べば夏になっても間違いなく飛ぶのだろうと思ってしばし悩んだ。
 決めかねているうち(といってもほんの10日ほど)に最安だったユナイテッドの切符はなくなり、結局ノースウェストにした。

 そのノースウェストに乗って1か月ほど、9月14日には予想通り経営破綻した。同日に、デルタも。これで、これまでに1度もつぶれていない大手はアメリカン航空だけになったのではないか?

 思えば、初めてアメリカへ行ったころにコンチネンタルとパンアメリカン(懐かしい! が、結局一度も乗れなかった)が破産したのを皮切りに、TWA(映画『アビエイター』(ディカプリオ)にも出てましたね)もUS航空もだめになった。USは、なんと、その後また破産している。

 今回のノースウェストとデルタの破綻は、元従業員への年金支払いや伝統的経営手法などの高コスト体質を背景に、原油高騰が追い打ちをかけ、ハリケーン「カトリーナ」がとどめを刺したということらしい。

 だが、それとは別に、世界一の航空大国アメリカの空を支配するメガキャリアが、これほど次々と破産するのは、正常なことなのだろうかと思う。過度な競争社会や歪んだ競争社会がもたらす結果は、こういうわかりやすい形で私たちの目の前にあるのだ。

 それでも、そこに競争がある限り、それに勝ちたい資本家や労働者たちは、会社や体や心や家族を破綻させても引き続き競い合っていく。競争がグローバルになり、より苛酷になっても、この「定向進化」は止まらない。
 そして残るのは、競争で相手をひねりつぶしたり、合従連衡を繰り返したりした巨大会社が暴利を分け合う、悪い意味での「非」競争社会である(どこかの国のこれからの銀行みたいですね)。

 非力な一個人として、この先、どうすればいいのだろう? 日本や世界を憂うのはやめて、ごく利己的に自分と家族だけでもそこそこの生活ができることだけを考えるのが一番いいのか。

 ・・・たとえそう決めたとしても、競争からすっぱり足を洗うことはなかなかできないんだけれど。

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2005.09.15

■司法礼讃

 以前書いたエントリと同じ言葉で始めよう。

 「こういうニュースを聞くと、心底ほっとする。この国の司法は、まだかろうじて機能しているのだ」

 裁判を経験した方の中に、この国の司法のひどさを嘆く人が後を絶たない。しかし、司法がきちんと使命を果たしている場合もまた多いのだろう。これは、すべての人にとって慶ぶべきことであると思う。

 地裁レベルではあるが無罪判決まで出ているにもかかわらず、相変わらず、ビラ配りや新聞配りで「逮捕」する警察。
 以前同種の事件があったときには、検察はその後裁判所の許可を得て75日間も「勾留」して取り調べ、「起訴」した。結果は無罪であったものの、なんと「控訴」している。どこまで恥の上塗りをすれば気が済むのだろう。

 今度は、愚かな警察が「逮捕」して愚かな検察が「勾留」を請求したものの、見識ある東京地裁はこれを却下し、検察の準抗告も棄却した。結果、被疑者は無事釈放されたという。以前より早い段階で間違いが正されそうな気配に、素直に司法への讃辞を送りたい。

 厚生労働省の課長補佐が9月10日、共産党の機関誌『しんぶん赤旗』の号外を配るために警視庁職員官舎に立ち入ったとして住居侵入容疑で逮捕・送検された事件である。後に身分が明らかになるに及び、国家公務員法違反の疑いでも追送検されている。その後、検察が勾留請求したのを地裁が却下したのだ。

 警察や検察(の一部勢力)はこれを教訓に不当な逮捕・勾留・起訴による言論・思想弾圧をいいかげんにやめるべきだ。
 多数を占める(と信じたい)良心的な警察官や検事たちは、身内の恥ずべき行いへ批判の声を上げて欲しい(私も組織に属する人間なので、それがいかに困難かの片鱗ぐらいはわかるのだが・・・)。

 今回のことで、ともすれば失いがちになる司法への信頼が少し(かなり?)回復したことは、司法にとっても寿ぐべきことである。
 人々の信頼を失ったのでは、警察や司法は成り立たない。われわれが警察に協力を惜しまないのは、「悪」と闘って欲しいからなのだ。

 ・・・くどいようですが、私は共産党となんの関係もありませんし、先日も同党には投票しませんでした(ほんとです。すみません>共産党の方)。だから逮捕しないでください、おねげぇしますだ、お警察様。

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2005.09.12

■Slow Dance

 テレビはほとんど見ない。ましてテレビドラマは。

 だが、各クールに1つぐらいは、「見るに堪える」を超えて「放送が楽しみな」ドラマが欲しいと思う。実際にはなかなか叶えられない望みなのだが。

 今終わりつつある2005年夏のクールでは、前者が「女系家族」、そして後者が「Slow Dance」ということになるだろう。最近では「当たり」の期間だったということかもしれない。

 スローダンスのほうだが、「若者」向けの大甘な恋愛ファンタジーが、どうしてこんなにおもしろいのか。もちろんよくはわからない。批評能力もなく、批評する気もない身にとっては、とにかく、楽しく見られて次回も楽しみだということ以外に確実なことは何もない。
 おそらく、プロデューサーとかディレクターとか出演者とか、その他多くのスタッフが実現した作品世界が私にとって成功していると言うしかないだろう。

 ただひとつ思うことは、多くの場面で脚本が素晴らしかったということである。特に、インフォメーションギャップを利用して会話をすれ違わせたり、発言を相手に曲解させたりすることによって落差を生んだりする手法が光っていた。

 視聴者の方は情報を持ち、神の視点から会話を見ている。すれ違っていく男女にもどかしさをかき立てられ、曲解による飛躍に笑いを誘われる。

 われわれの実生活でも、ディスコミュニケーションはしばしばあり、ドラマと同じようなこともよく起こっている。だが、多くの人は当事者としてそれを経験するだけで、何が起こっているかを外から見ることはできない。せいぜい、自分の発言が「誤解」されていることを「理解」して、「いや、そういう意味じゃないんです」と説明するのが精一杯である。

 この物語では、逆に、その説明が省かれる。そして劇中のキャラクターは、多くそのインフォメーション不足と誤解を抱えたまま行動する。いや結局、「友情」によってピースが嵌め込まれたりするのだが、当事者同士で賢(さか)しく自己への理解を相手に強要しないところが共感を呼ぶ。

 多くの視聴者は劇中の誰かに感情移入するのではなく、そういうスローなダンスを踊っている面々をはらはらしながら外部から眺めて楽しんでいるのだ(違うかな?)。

 ・・・と書いてきたが、これは書きたかったことではない。

 会話というのはああいうふうにすれ違っていき、しばしば口論や諍いへと発展することはよく知っている。だが、それをあんなふうに脚本化、作品化する力は私にはない(当たり前だ)。脚本家の仕事に脱帽する所以である。

(ところで、誰なんだろう? 脚本書いたの)

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■自民圧勝

 総選挙は自民党の圧倒的な勝利に終わりそうだ。

 小泉さん自体がそれほどひどい独裁者だとはとりあえず思わないが、もっとひどい独裁者が「民衆の喝采の中、民主的に選出される」危惧を、この国に抱かざるを得ない。

 小泉首相になってから、何か具体的によくなったことがあっただろうか? とりあえず何も思い浮かばないのだが・・・ これまでの実績がないから、これからに期待するということなのだろうか。

 「他に選択肢がないじゃないか」という思いには、1/3ぐらいは納得できる。だが、それにしても・・・

 この国の総体としての有権者は、非常に愚かなのだろうか、それとも、案外賢明なのだろうか?

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2005.09.10

■ピューターのカップ

 珍しく、家具屋とかモデルハウスとかを見てきた。後者は、無垢の木をふんだんに使って狭い敷地に開放的な空間を演出したもので、家を建ててしまっていることを軽く後悔するような、いい家だった。
 でも、今の家を改装するためのいいヒントをもらえた気がするので、10年スパンで考えてみようかと思う。

 ソファや机を買わなければならないのだが、それほど欲しいわけでもないし、少しでもいいものはかなりの値段になるので、現実的ではない。机など、いいものを買えば一生(というより孫子の代まで)使えるのだからケチる必要はないんだけど。
 (ソファはやはり、10年が寿命だそうです。残念ながら)

 結局、前から気になっていて手軽に手に入るピューターを買った。ワインやビールを飲むといいというのだが、あいにく酒は飲まない。
 「何を召し上がるんですか」と聞かれて「いや、牛乳やお茶なんですけど・・・」と返事したのは、いかにも間抜けだった。これが小林秀雄なら、井戸茶碗で牛乳を飲んでいてもカッコがつくのかもしれないが(「真贋」)。

 ピューターを手に入れるのは、以前、シンガポールとマレーシアに行ったときに、ロイヤルセランゴールの茶葉入れを買って以来だ。

 今回はリスキンという会社の製品。ベルギーのブランドらしい。なんとなく、セランゴールに信仰を持っていただけで他のものは知らなかったのだが、気に入ったので買ってしまった。店の人は「これで飲むと味が違うのがわかります」とキッパリとおっしゃるのだが、こちらはそれほど繊細な舌を持ち合わせているわけではない。

 「ぜひ、他の容器と飲み比べてみてくださいね」という声に送られて店を出た。さっそく、レモンティとお茶とヨーグルトを飲んでみた(もちろん、一度に、ではありません)が、味はやっぱり、どってことはないような気がする・・・

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■勝ったのは誰?

 「準決勝でシャラポワ敗退。全米テニス女子単」(asahi.com)

 だそうです。もちろん、かわいい写真付き。

 またまた同じ話題で恐縮ですが、勝ったのは誰で、どんな顔をしているんでしょうか?

オリジナルエントリ(笑)はこちら

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2005.09.09

■ぶつかってくるな!

 近所に立派な自「転」車専用道路がある。センターラインまであるので、快適に走れる「はず」だ。法的にもちゃんとした自転車専用道路で、滅多に見ることのない正式な交通標識もかかっている。

 ところが、ここをジョギングの(主に)中高年が走る。ウォーキングやら散歩やら通勤通学やらの人も歩いている。すぐ横はちゃんとした歩道なのにと思うのだが、歩行者はまあ、どこでも法を無視して動いているので、ここでも目をつぶることにしよう。一応、一番の交通弱者だし。

 許せないのは、右側通行をしてくる自転車だ。センターラインまであるにもかかわらず、である。しかも、あろうことか、正面から対向してきてこちらと走行ラインが一致する(すなわち、そのまま進めば衝突しそうになる)と、向こうはさらに右によけたりするのだ。
 こちらはもちろん、交通法規的にも脊髄反射的にも左によけるわけだから、余計にぶつかりそうになる。すると互いにまたそれを避けようとしてますます衝突コースに入ってしまう。

 右側通行だけでも許せないのに、ぶつかりそうになって右によけるというのはどういう頭の構造をしているのか。小学生とかいうのならともかく、とにもかくにも日本の交通事情の中で何十年も生きてきたとしか思えない連中の中にすら、そういう輩がいるのである。

 「こんなに広いのにぶつかってくるな!」といいたいのだが、一度彼(女)らに何を考えているのか聞いてみたい気もする。
 もしかして、自転車は左側通行だということを知らないのだろうか。それとも、何か私には理解できない深遠な理由があって右側に固執しており、あまつさえ、右によけたりするのだろうか。

 たぶん、クルマの免許とかを持っていないだろうことは想像がつく。だとすれば、やはりそこには交通教育の欠如があるのだろう。学校って、不必要なことはいっぱい教えてくれるのに、日常生活に不可欠なことはちっとも教えてくれないもんなあ・・・
 いやもちろん、そんなことを教える役割をきちんと与えられていないためであって、現場の教師たちを責める気はないんだけれど。

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2005.09.08

■ER

 またERの話(かな?)。

 DVDで最初から少しずつ見ている。シーズン II の終盤近くまで来た。"John Carter, M.D." まであと少しだ。
 一方で、シーズン X を見終えた。グリーンとベントンとダグはいなくなってスーザンが復帰。当初から「カーターの物語」だと一部でいわれていたのが現実になっているようだ。

 初めから見直すと決めたとき、「たぶん、シーズン I は「古色蒼然」という感じがするだろうな」と思っていた。
 だが、全然そんなことがないのに驚いた。X を見た後 II を見ても、そこには同じERワールドが厳として存在しているのだ。これには改めて舌を巻いた。

 お蔭で、III から IX の長いシーズンに何があったかも思い出せない。見ればそれぞれに感動を伴って思い出されるエピソードも、非力で儚い記憶力のために、ほとんどは脳細胞のどこかに沈澱しているだけである。記憶とは、覚えることではなく、思い出すことだと再認識する。

 同じ舞台で繰り返される日常をこれほど長く描いて飽きさせないためには、やはりさまざまな仕掛けが必要だ。意識して見れば、あるいはさらに分析すれば、シーズン II までにはまったく見られないような変則的なエピソードの数が、物語が進むにしたがって増えてくることが容易にわかるだろう。
 それに、相変わらず、メンバーの上にあまりにもいろんなことが起こりすぎる。平凡で退屈な日常に生きる者はその波瀾万丈に憧れてしまったりもするわけだが、実際にあんな人生はそうないし、もしああだったらとても心と体が持たない。

 そう、荒唐無稽だ。にもかかわらず、リアルで飽きさせず、しばしば感動的でさえある。意図してもう一度見ようと思う映画は、私の場合ほとんどない。それがこの長丁場に再度つきあおうというのだから、その魅力のほどは明らかだ。

 マイケル・クライトンを初めとする何人かの天才と、スタッフや出演者たちの才能と努力が織りなす魔法なのだろう。
 こういうドラマをベンチマークとするとき、もし私が別なドラマの制作者だったら、無力感にうちひしがれるだけである。

 「君はまだ絵を描き始めたばかりなんだ。ピカソとくらべれば、そりゃあ勝負にならないさ」
 「でも先生、いつかは勝負になると思いますか?」

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2005.09.05

■潤い?

 すごい湿気だ。ふとんの上に横になると、水を吸ったスポンジの上にいるような感じがする。いや、実際、私のふとんはスポンジみたいなものでできているので、まさにその通りなのだが。

 玄関を例外として、家中がじっとりと湿っている。障子は波打ち、床にはうっすらと水の膜ができている気さえする。掃除機をかけても埃を吸い取っている気がしない。水分と絡んで床にへばりついているようだ。
 玄関は、ほんとはもっとも湿度の高い場所なのだが、そのせいでいろいろととんでもないことが起こるので、ついに観念して除湿器を回している。すると、あっという間にバケツ半分ぐらいの水が取れるのには閉口する。ホームセンターで売っていた水取剤など気休めに過ぎなかったことを思い知らされた。

 それほど暑くはないのが幸いだ。これで暑かったりしたら目も当てられない。以前、夏に日本に来たタイ人の夫妻が暑さにやられて体調を崩したという話を聞いた。日本(というより大阪)の夏はそれほどひどい。湿気や暑さが嫌いな私は、だからなるべく涼しいところへ旅行に行く。

 だが、この湿潤な気候になじんでいる体を乾燥した土地へ持っていくと、それはそれでいろいろと不具合が起こる。今年の場合、手足と顔がガサガサに荒れ、鼻の粘膜はのべつ出血していた。冬にしか症状が出なくなった膝から下の湿疹?も出る。
 涼しく(ときに寒いぐらいだった)てカラッとした気候は精神的にはほんとにいいような気がするのだが、体にも優しいとは限らない。

 始終何かしら体が不調で、かつ、洞察力に乏しい私は、上記のような症状が気候によるものだとは思っていなかった。なんとなれば、鼻から血が出るなんてしょっちゅうだし(いわゆる鼻血ではないので、さすがに垂れたりはしません、念のため)、肌の調子がおかしいことも多い。「乾燥してるからよ」と言われても、半信半疑であった。

 だが、クリームを塗りたくってもおかしかった皮膚が、帰国して2日もすると何もしなくても落ち着いてきた。血のほうもぴたりと止まった。その後すぐ韓国に行ったのだが、向こうは涼しくて湿度は高いという気候だったので快適だった。いや、カラッとしているほうが好きなのだが、体に不調が出た記憶がないのは、やはり湿度が高かったからだろう。

 こう考えてくると、この嫌な湿気も、「潤い」と言い換えることができる。8月という宴の月が終わって、五月病にも似た気だるさがふだん以上に体にまとわりついていても、肌に問題はないし、血も出ない。

 うわっ、イヤだ。机がじとっとしている。髪の毛も何だかペチャッとする。昨日洗ったばかりなのに。

 だがしかし、この世に桃源郷はないのだと思うと、ほんの少し、この湿気も気にならなくなる(かな)。

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2005.09.03

■人馬一体

 日本の(というより自分の近所の)交通事情と気候を鑑みれば、オープンツーシーターの車に乗るなんて馬鹿げていると思うのが普通の感覚だろう。クルマ好きの私でさえ、乗っている人を見ると「よくやるよなあ」と感じてしまう。世間から見れば、たぶん、ヘンな人に分類されるのだろう。

 それでもなお、気になる存在であるのは確かで、めぼしいクルマがあると見に行っている。トヨタのMR-S、ホンダのS2000、ダイハツのコペン、アウディのTT、それにポルシェのボクスター・・・
 できれば試乗してみて、やっぱり不便だよな、とか、ドライビングポジションが、とか、風の巻き込みが、とか考えて自分を納得させる。もともとそれほど欲しいわけでもないし。

 マツダが3世代目となるロードスターを発売した。バブル期に一世を風靡した初代、(おそらくは)時代と合わずに不遇を託った2代目、そして、マツダ復活の象徴として満を持して登場した3代目ということになろうか。

 内外装を一瞥しても、細部に目を凝らしても、これが最新のクルマであることがわかる。外装パネルのチリ合わせ一つ取ってみても、国産車の最高水準だろう。ボンネットもトランクリッドもアルミだ。
 また、これは個人的なことだが、気に入らなかった2代目のデザインは一新され、初代の方向へ揺り戻したことで、私の好みになった。もちろん、はるかに端正な、洗練されたものとなってもいる。
 正面から見ると宇宙船顔というか宇宙人顔というか、ちょっとヘンな感じに見えはするのだが、すぐ慣れるだろう。ヨコのラインはシンプルで綺麗だ。

 わざわざ予約してディーラーを再訪し、試乗した。かなり待たされて乗せてもらった割には、とりあえず何ということはなかったのだが、裏返せば大きな不満もないということである。ただ、オープンの解放感はやはりいい。空を見上げたりしてしまって危ないかもしれないが。

 うーん、こんなもんかな、と、さしたる感動もない試乗の帰り際、ロータリーをくるくると回ってみてちょっと驚いた。

 クルマが、自分を中心にして旋回しているのがわかるのだ。理由はわからない。おそらくは、着座位置付近が旋回ポイントや重心に近かったりするのだろう。とにかく、初めて経験するちょっと異様な感覚で、しかしそれが心地よいのだった。

 カタログを見ると、キャッチコピーは「人馬一体」。だがそれは、初代から一貫して掲げられているコンセプトであるらしい。あれ!? もしかして、オレってこれまでマツダのロードスターに乗ったことなかったっけ?
 ・・・考えてみれば、初代の時は縁遠い存在であったし、2代目の時は気に入らなかったせいもあってか記憶が薄い。おそらく、これがはじめてのロードスター体験なのだ。

 しかし、「世界最高のライトウェイトスポーツであると自負している」(カタログ)という性能は、過去にはなかったのではないか。「より進化した「人馬一体」の走り」(同)の片鱗を体験すると、宣伝文句が満更大袈裟だとも思えなくなるのである。

 わが愛車でディーラーを後にすると、自分の体より前で旋回しているのがよくわかる。フロントヘビーと言われながら、実際に走るとそれが気にならない愛車が気に入っていたのだが、乗り慣れたはずのその挙動が不自然に思えてくるのだから不思議だ。

 いや、もちろん、愛車を手放す気はない。だが、珍しく「実際に欲しくなるモノ」となりそうな気はする(買わないけど)。

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2005.09.02

■LPG車の普及

 今回韓国へ行ってもっとも驚いたことの一つは、LPG(Liquefied Petroleum Gas=液化石油ガス)を燃料とした自動車の普及である。日本ではタクシー専用の感すらあるLPG車だが、あちらでは、LPGのスタンドが随所に見られるほど一般的であった。

 出会いはかなり衝撃的だった。空港まで迎えに来てくださった韓国人が借りていたレンタカーがLGP車で、ごく常識的なセダンであるにもかかわらず、たった1つのスーツケースがトランクに入らなかったのだ。他に何も荷物を入れなくても、である。
 見ると、奥には大きな円筒形のガスタンクが鎮座している。トランクが狭くなるはずだ。

 だが、日本のタクシーには、スーツケースが入る。どうしてだろう?
 想像だが、もともとはガソリン車であったものを、LPG仕様に改造したものではないかと思った。つまり、ガソリンタンクはそのまま残っており、LPGタンクは「荷物」のようにトランクに積んでいるため、スペース効率が悪くなっているのだ。

 ・・・と考えていると、9月2日の朝日新聞朝刊に、「上海 交通「エコ」化」と題した記事が載った。
 タクシーの話ではあるが、「ガソリン車からLPG車への改造作業がフル操業で続き、納車は1カ月待ちだ」というのである。
 添えられた写真が、まさに韓国で目にしたLPG車と同様。トランクを開けると、すぐ奥に円筒形のガスタンクが目に入る。しかし、タクシーがこれでは、上海へ行った旅行者のスーツケースはどこに載せるのだろう(笑)

 われわれの場合、助手席に乗る者が正座してその前のスペースに縦に載せようとしたが、どう入れてもドアが閉まらなかった。
 結局、後部座席に乗った者の膝の上に横に置くことにした。貴重な経験で楽しかったが、あのまま長距離を走りたいとはもちろん思わない。

 LPG車の普及を後押ししているのが原油の高騰だ。アメリカで1ガロンあたりの小売価格が3ドルになろうかという記事もあった。8月の国立公園(田舎かつ高い)ですら2ドル台前半だったから、半月も経たないうちに3割近い上昇ということになるのか。

 帰国して、それなりの距離を愛車で走ると(久しぶりだ)、例の「小確幸」(村上春樹)を感じた。
 ガソリンを焚くことの背徳感に陶酔できる感性があればもっと楽しめるのだが、燃費の悪い(=環境にも悪い)車を走らせるのが後ろめたいだけであるのは、ちょっとつらい。

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