■喪中の賀状
喪中でも賀状は来る。ありがたいことである。
今日までに私だけで22通。うち6通は、工務店とか車屋さんとかガス屋さんとか商売関係。何だか少ない気がする。経費削減なのかな?
残り16通のうち、喪中をわかっていて寒中見舞いとしてくださったのが2通。
喪中の知らせを出さなかった親戚から1通。
不思議なのは、喪中葉書を送った方からも、7通ほどふつうの年賀状が来ていることだ。
喪中だとはっきりわかっていてふつうに出す人はまずいないので、なぜそうなったかの可能性はほぼ次の3つに絞られる。
1.喪中葉書の到着がすでに年賀状を投函した後だった。
2.なんらかの郵便事故で喪中葉書が先方に到着しなかった(もしくは著しく遅配された)。
3.先方の情報管理能力が低く、間違えて賀状を出してしまった。
1の可能性はまずない。喪中の知らせを出したのは忘れもしない12月の1日である。年賀状の引受開始は毎年12月15日ごろだ。
残るは2か3ということになるが、これは友人知人の情報管理能力と日本郵便の信頼性とのどちらをより信用するかという難しい選択になる。
現状では後者に軍配が上がり、おそらくほとんど(ないしはすべて)の原因は3だったのではないかと思う。
ごく近しいある人(特に名を秘す)は、かつて、自分が葬式にまで出たその故人本人に年賀状を出したことがある。
親戚だから喪中葉書が来なかったとはいえ、あまりといえばあまりな勘違いだ。
そういう人が身近にいるぐらいだから、数名ぐらいが勘違いなさるのはぜんぜん不思議ではない。
それに、年賀状がこれほど少ないと、例年はどちらかといえば煩わしい存在で「も」あるものが、ただありがたいものに感じられる(「年賀状の数はぼくを支える人の数です」なんてノーテンキなことを考えるわけではないにしても)。
そのそそっかしさにお礼をいいたいぐらいだ。
まして、早々に寒中見舞いとしていただいたものは、たとえばそれがお年玉つき年賀はがきに書かれたものであったり、元日に届いたものであったりしても、そんなことはまったく気にならず、素直にそのお心遣いに思いを馳せる。
(おそらくは)喪中の欠礼状をくださった相手に寒中見舞いを出したことなどただの1度もない身としてはなおさらである。
いただいたからには、松の内を過ぎてから寒中見舞いを出さずばなるまい。
家人に、「松の内っていつまで?」と聞かれて、「正式には15日までのはずやけど、7日までとかにしてもええんとちゃうか」と返事をしたら、「そんないい加減な・・・」とあきれられたが、試みに辞書を引いてみると実際そう書いてあったので快哉を叫んだ。
そんなつまらぬ快哉しか叫べないような、相変わらずの新年 ^^;
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