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2011.05.31

■いくら軽いとは言っても・・・

 毎日、MacBook Air と iPad の両方を持ち歩いている。

 いくら軽いと言ってもそれなりに肩に食い込み、ちょっとなんだかなあと思ってしまうが、今のところ、どちらかにするという選択肢はない。

 2箇所ある職場と家との計3箇所に MacBook Air があれば、iPad だけを持ち歩けるのだが、いくらなんでもそれもちょっと非現実的な気がする。

 iPad に飽きるまで、現在のやり方を続けるしかない・・・のか。

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2011.05.28

■3年遅れの Blu-ray

 3年4か月前に買った東芝の HD DVD レコーダ(VARDIA RD-A600)が壊れてしまったので、新しくソニーの Blu-ray レコーダ(BDZ-AT700)を買った(morio様、その節はありがとうございました)
 正式には「ブルーレイディスク/DVDレコーダー」というらしい。

 東芝のは、しばしば「録画に失敗しました」という画面が出て録画できなくなっていた。
 できたものも、再生すると途切れがちになってしまう。ちょうど、ディスコで昔のレコードを回すとき、手で止めたり動かしたりして音楽を歪める、あの状態になる(とまあ、見てきたように言うのだが、そんなものを生で知っているわけではないし、ディスコにはたぶん、生涯に1度しか行ったことがない。同窓会の流れだった)

 「ハードディスクを初期化すれば直るかも」とマニュアルに書いてあったが、10回以上やってもだめだった。それに、手段として簡易フォーマットしか用意されていないのだ(かかる時間でわかる)。
 きちんと全体を物理フォーマットすれば直る可能性も高いと思うのだが、方法がない。不良セクタのスキップとか、そういうこともやってくれないのだろうか。

 しばらく放置していたが、やっと余裕ができて東芝に電話すると、やはり HDD の故障か、でなければ、エンコーディング/デコーディング回路の故障だろうという。
 前者だと HDD、後者だと基盤の交換になる。持ち込みでも、前者で5万円以上、後者で3万円以上かかる。しかも、前者の可能性が高い。
 なぜHDD交換にそんなにかかるのかと訝ったが、300GBのHDDが2機搭載されているそうで、部品代が2倍かかってしまうらしい。

 今どきHDDなんて1万円もしないのに・・・とは思うものの、これだけ費用がかかるならば、修理を選択することはありえない。

 でもまあ、お蔭様ですっぱり諦めをつけ、3年遅れで待望の?ブルーレイディスクレコーダを買うことができた。5万3000円。

 安っ。

 3年前は確か、同じようなのが十数万円した。Blu-ray レンタルもほとんど始まってなかったし、どうせディスクに録画することはないのだからと、HD DVD vs Blu-ray の勝負がついてから、あえて安くなった「負け」の方を買ったのだ。それでも8万数千円だったと思う。

 発売から「もう」7か月も経っているので、そろそろ新製品が出るかもとか迷いもあったが、もはやテレビ画面をリアルタイムで見る習慣がほとんどなくなっている以上、ブルーレイはどうでもいいのだが、HDDレコーダは必須であり、いつともわからない新製品の発売など待っていられない。

 一昨日の夜中に注文して、今日の午前中に着いた。

 取扱説明書を一切開くことすらなく、画面に映るメニューに従っていけばすぐ使えるようになる。秀逸だ。

 ただ一点、画質の設定でモニタの種類を選ばされるのだが、その選択肢は
・液晶テレビ
・プロジェクター
・有機ELテレビ
・プラズマテレビ
・該当なし
しかない。うちのテレビはリアプロジェクションなのだが、どれを選べばいいのだろう。
 プロジェクターには違いはないが、一般のプロジェクターとはぜんぜん違うし、何の注釈も説明もない(これは、あとで取説を開いても、ソニーのサイトで調べても同じであった)。

 かつて自社で売っていたテレビの面倒ぐらい見ろよ、といいたくなる。ほとんどのリアプロユーザがこの選択に頭を悩ませるはずである。結果として「プロジェクター」と同じ設定になるとしても、選択肢として「リアプロジェクション」があれば、安心してそれを選べるではないか。
 ___

 まだほとんど使っていないが、それ以外は文句ない。
 ユーザインターフェイスがかつて使っていた PSX のそれとそっくりで、使いやすい。慣れているばかりでなく、できのいいインターフェイスだと思う。
 古い(といってもたった3年前・・・)東芝機と違って起動も速いし(ただし、テレビコマーシャルの「瞬間起動」(0.5秒)を選ぶと、待機時でも一日最大6時間、 22W の電力を消費する)、いつでも手動で電源offできる(もちろん、offにしてもやるべき仕事はやっている)。

 さて、体積が新しいのの倍以上ある、古い東芝の HD DVD レコーダは、ただの DVD プレイヤーとなってしまった。もちろん、HD DVD も再生できるが、そんなものを再生したい人がどれだけいるだろう?
 うちにある、まっさらの HD DVD-Rメディア4枚、それに、トランスフォーマーの市販ディスク(HD DVD Two-Disk Special Edition)とともに、お払い箱になる。

 誰か欲しい人がいれば喜んで差し上げるんだけど、誰もいないだろうなあ・・・

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2011.05.27

■魔法の板

 iPad 2 が気に入っている。

 まず何より、小さくて軽くて薄いのがいい。

 手に入れる前は、せめて13インチぐらいの画面がほしいと思っていたが、もしかするとそれは間違いかもしれない。
 将来、もし、13インチの iPad が出たらたぶん買うとは思うが、こういうものはやはりこのサイズでないとだめだということを、さんざん考えに考え、議論を重ねた上で決定したというのが想像できる大きさだ。

 必要十分、絶妙である。

 長辺の長さは、小さなポーチにでも入ってしまうのに驚いた。短辺(高さ)がはみ出してしまうのが残念だが、大きめのポーチなら入る。いつも持ち歩くために、新しいポーチがほしくなった。

 薄さ・重さは現状でも十分だが、今後さらに薄く・軽くなるだろう。

 「風呂の蓋」と揶揄されたスマートカバーも素晴らしい。

 なんかこう、持っているだけで満足感に浸れ、寝るときは抱いて寝ている。いや、半ば冗談だが、寝床の中で使ったまま、布団の上に朝まで存在するのは事実だ。

 大学時代、暇があると寝床で本を読んでいたが、コンピュータを使い出してからどんどん目が悪くなって、眼鏡なしで本を読むのが困難だと思っていると、そのうち、不可能になってしまった。
 それが、iPad なら、あの時代と同じように眼鏡なしで寝床で本が読めるのである。文字の大きさが自在に変えられるからだ。それだけでも価値はある。

 朝のトイレの中には必ず新聞を持って入っていたが、iPad を持ち込むことも多くなった。
 ___

 もちろん、タブレット型コンピュータなので、コンピュータらしきことは一通りできる。

 しかし、感動したのは、電子コンパスとジャイロを内蔵しているお蔭で、ノートパソコンではできないことができることだ。

 たとえば、自分の家がどれぐらい傾いているか知りたかったが、概ね0.5度だということがわかった(ほんとうに正確かどうかはわからないのだが種々の点から考えて正しそうな値だ)

 半ばがっくり、半ばほっとしながら、職場やスーパーなどで測ってみると、やはり同じぐらい傾いている。
 まあ、通常の建物の許容範囲なのではないかと思う。

 使ってみて叫び声を上げたのは、「今ここ」から見える星空を画面に映し出してくれるアプリケーションだ。
 いわゆる「星座早見盤」なのだが、時刻も(可能なら)現在地も自動で設定される。
 そして、コンパスとジャイロを用いて、iPad を向けた方に見える星空が画面に展開されるのだ。

 夜空を眺めて目の前に iPad をかざせば、星座や惑星の名前が一目瞭然である。

 その他にも見るべきアプリは数多い。

 とりあえず唯一残念なのは、GPSが内蔵されておらず、Wi-Fi による位置情報しか使えない点だ。ただ、自宅の場所はほぼ正確に認識するようにはなった(あっ、職場で実験するのを忘れた)。

 何にせよ、物欲があまりなく、パソコンを買ってもぜんぜんわくわくしない私が、少なくとも1週間、夢中になっているのは事実だ。

 いかがですか。皆さんの寝床にも、iPad を。

 (お風呂の中でも使えるといいんだけどなあ)

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■5月に梅雨入り

 昨日、近畿地方などが梅雨入りしたという。

 今日も確かに梅雨空という感じだった。明日の楽しい予定はこれで流れるのか・・・ 日曜日は仕事だ。

 それにしても5月に梅雨入りなんて聞いたことがないぞと思っていたら、1991年にもあったらしく、20年ぶりだという。

 「これまで近畿で梅雨入りが最も早かったのは56年の5月22日で、今年は91年と並ぶ2番目」(mainichi.jp)なので、私が生まれてからまだ2度目だということになる。
 (2013.5.30記:「2度目」は間違いで、2011年時点で実に7度目です。正しいデータはこちら

 1991年が、もう20年も前ということになるのか・・・

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2011.05.26

■単一電池が戻った

 おそらくもう、皆さんはご存じなのでしょうが、単一電池の供給が戻ったようですね。

 家人がいつものスーパーの食品売り場のレジ前で見つけて買っていました。

 相場を知らないので、2つで500円・・・ パナソニックの高級アルカリ電池のようですが、それしか置いてなかったようです。

 後で別の階の電池売り場を覗くと、パナソニックで200円のもありました。マンガン電池ですが、それで十分なのに。

 他にも何種か、エボルタまでよりどりみどり。当たり前だった情景ですが、ちょっとだけ新鮮でした。

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2011.05.24

■ヘルメットは正しくかぶりましょう

 昨夕、家人を迎えに行って自宅へ向かう途中。

 左斜め前を走っていたミニバイクの女の子のヘルメットが脱げ、私の車の前を斜めに転がって来た。

 幸い、スピードも出ていなかったので、急ブレーキにもならずに止まり、ハザードをつけて待ってあげた。

 ヘルメットは私からみて右斜め前、片側二車線の右車線の左端あたりにある。幸い、右側を走ってくる車はなかったし、後ろの車は素直に私の後ろについて止まった。もしかすると、同じ現象を目撃したのかもしれない。

 女の子がヘルメットを取りに行って戻ったところで車を発進させると、笑顔で頭を下げてくれた。
 ___

  その時は「自分の安全のためにきちんとヘルメットをかぶったほうがいいのになあ」と思っただけだったが、それは同時に周囲の安全のためでもあるのだ。

 ヘルメットが私の車を直撃した可能性はけっこう高いし、車がヘルメットに乗り上げた可能性だってある。
 急ブレーキを踏まなければならないタイミングだったら、後ろの車に追突されたかもしれない。

 ヘルメットは義務なので申し訳程度にかぶっている人も多いけれど、他人まで危険にさらすのならむしろかぶらない方がトータルとしては安全である。

 ふつうに走っていてヘルメットが転がってくるのはさすがに初めて見たけれど、ああいうかぶり方をしていて事故を起こしたらどうせ役に立たないし、かえって怪我を大きくしたり他人を巻き込んだりする可能性も高いだろう。
 「転んだら首が絞まるよ」といってあげたくなるかぶり方も多い。
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 私もかなり長い間種々のバイクに乗っていたが、一度だけヘルメットのお蔭で助かったことがある。低速だったが、顔から地面に落ちていき、「うわっ、あごが砕ける!」と覚悟した瞬間、ヘルメットが地面に当たり、まったく無傷ですんだのだ。

 昨日の女の子なんかは、顔面を潰したり頭を割ったり死んだりしてから、ヘルメットのありがたさに気づくのだろうか(あ、死んだら気づけないか・・・)。

 自分のためにも他人のためにも、ヘルメットはきちんとかぶりましょうね。

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2011.05.23

■忠実な執事?

 朝の早い家人に、くらーい声で起こされる。

 夢うつつの中、わけのわからぬ猛烈な不安がこみ上げ、何もかもだめだというような気分になる。

 ああいうのはいったい、どういう作用によるんだろう。
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 目が覚めて、現実はそれほどひどくないということに少しだけ感謝する。

 家人の車のエンジンがかからなくて出勤できないというのだ。そのぐらいのことなら、やるべきことを順番にやっていけば何の問題もない。

 すぐに着替えて、自分の車で家人を職場に送る。こういうアクシデントがあっても、余裕たっぷりに間に合うのだから大したものだ。何時に起きてんねん?
 ___

 セルがぜんぜん回らないし、助手席が半ドアになっていたというので、間違いなくバッテリー上がりだろう。室内灯がついていたのだが、昼間だったのでわからなかったのだ。今どきの車なら自動で消えるのだろうが、なにせ10年以上前の軽自動車である。

 帰宅してからエンジン始動を試みるが、そもそもインパネに灯が入らず、ドアのインジケーターがごく薄い影のようにかろうじて赤く見えるだけだった。セルは一切の音すら立てない。

 だが、私の車のバッテリーと繋ぐと、あっさりエンジン始動。そのままアイドリングにしておき、朝食などを済ませる。
 支度が終わったころにいったんエンジンを切って、再度ふつうにかかればそのまま使い続けようと思っていたが、調べてみると前回のバッテリー交換から3年半が経っている。軽自動車だし、安かった記憶があるので、交換することにした。

 一度切って再始動を試みると、セルも元気に回って無事エンジンがかかった。こんなに快調ならやっぱりこのまま使おうかとも思ったが、車音痴の家人が乗るし、どうせ近々交換ということになるだろうから、これを機会に替えることにした。
 ___

 夕刻、「明日はどうやって出勤しよう?」と心配しているはずの家人を、家人の車で迎えに行く。

 朝死んでいた車がふつうに動いていることは、話題にも上らない。水を向けると、「すっかり忘れていた」という。

 「朝、送ってくれたとき、「車のことは心配しないで忘れておけばいい」って言ってたから、ほんとに忘れてた」そうだ。

 いや、確かにそうは言ったが、わざわざ私が職場まで迎えに行っている理由は、じゃあ何なのだ?

 家人の車が動かなくても、彼女の仕事にはまったく何の支障もなく、仕事が終わるころにはもう直っている。
 私の車で同じことが起こったら、まったくこうはいかない。

 私にも、私のような忠実な執事 兼 使用人がいてくれたら・・・と夢想する。

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2011.05.22

■Post PC Device ? または 1年遅れの iPad

 iPad 2 が手に入った。

 だが、毎年の恒例行事で家人の仕事を手伝いに行かなければならなくなったので、触ることができない。

 それでもまあ、仕事の合間にちょっとちょっかいを出そうとしたら、まったく何もできないのである。充電以外は。

 iTunes の動くパソコンと、インターネット接続が両方揃わなければ、そもそもスタート画面にすらたどり着けない。
 そういうこともあろうかと、ちゃんとパソコンやら何やら持って行っていたのだが、作業場である家人の職場の小部屋には、ネット接続というものが存在しないのであった・・・

 指をくわえて、というのはこういう状態をいうのだろう。ひたすら充電するしかなかった(泣)

 しかし、ポストPCデバイスとか何とかいいながら、PC(パーソナルコンピュータ)とネット接続がなければまったく何もできないというのは、製品としてどうかと思う。
 パソコンは操作も価格も敷居が高いけれど、これだったら手軽に持ち運べそうだし値段も安いし・・・などという客は、ハナから相手にされていないのだろうか。間違って買ってしまった人が少ないことを祈る。
 ___

 午後からも別の仕事で帰宅は夕刻。それからずっと触って、いろんなアプリを試したり買ったりしていた。

 なかなかおもしろい。

 タブレットPCとしての大きさや形、重さからくる自由度と制約については、いろいろ思うところはあるが、まだちょっと判断しがたい。ただ、そのうちに落としそうで恐い。

 気になったのは、この製品を魅力的にしているさまざまなアプリが、どうしてふつうのパソコンに提供されないのかということだ。
 電子コンパスやジャイロなど、内蔵するハードに依存するアプリも確かにある。だが、多くは、パソコンで動いてもなんら不思議のないものだ。

 もしかして、私が疎いだけなのだろうか? いや、パソコン用の App Store がない(ですよね?)こと一つとってみても、根本的におかしいと思う。(※後記参照)
 先日始まった朝日新聞デジタルだって、パソコン用には専用ソフトがないようだ。だから、MacBook Air で見るのと、iPad で見るのとで、雲泥の差がある。ウェブブラウザで見ていたときはどうということはなかったが、iPad で見ると、新しい電子新聞の黎明を感じさせるのだ(ただし、購読に先立って丸ごとダウンロードする必要があり、それにかなり時間がかかる)

 パソコンにも、 iPhone や iPad なみのインフラが整備されれば、ソフトだってどんどん供給されていくのではないかと思う(何か勘違いしていたらご教示ください)。(※後記参照)

 それとも、これが世にいう「差別化」というやつで、「Mac があれば iPad なんかいらんやん」と言わせないための作戦なのだろうか。

 (Wi-Fi モデルを買ったのだが、GPSが内蔵されていると思い込んでいて、がっかりさせられた。Wi-Fi を使って位置情報を得るというのだが、とりあえず自宅では無理。他の場所だってどうだか・・・ 苦労して設定した(アップルから来たメールの「今すぐ確認」リンクが無効だった。iPad でメールを受ければ解決する)「iPad を探す」も、たぶん、看板倒れだろうと思う。まあ、なくすことはないと思うけれど)。

 (※後記:Mac App Store はちゃんとあります。実はこれを書く以前に使ったことすらありました・・・ すみませんでした。)

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2011.05.20

■ザ・プラクティス

 毎月最大8枚のDVDが届くので、見たい映画というのがなくなってしまうことが多い。
 以前にも書いたが、年間100本ちかくもの映画を見るという奴がもし私の学生時代にいたら、それは明白な映画フリークだった。

 まったく何でもない一般人の私に、そんなにたくさん見る映画があるわけないのである。

 これまでは、「いやもうほんとに見る映画がなくなりました」という感じの時に、『ER』がDVDで出たりして、喜んでそれで繋いだりしていた。
 それもいよいよダメになると、『24』という逃げ場もあった。

 その2つが両方とも完全に終了してしまい、いよいよ本当に見るものがなくなってきたと思ったときに出会ったのが『ザ・プラクティス』である。

 もともとは、何かのDVDに第一話だけがおまけで入っていた。その話が素晴らしくて、登場人物と一緒に涙を流しながら見てしまった。
 一話だけで後が続かないかもと思っていたが(私にとっては、主人公以外の登場人物が今ひとつ魅力に欠けるし)、シーズン1全部見ても、ほとんどすべて傑作と言っていいレベルだと思った(第一話は2回目でもまた泣けた)。

 もともと法廷ドラマが好きなので評価が甘いのかもしれないが、これほど素晴らしいテレビドラマが流れているアメリカというのはやはりすごいなあと思ってしまう。
 ERもすごかった。それをまねた亜流の和製医療ものは、後出しのくせに見るに堪えないのである。

 この『ザ・プラクティス』、いったいだれが作っているんだろうと思って調べると、なんと、『アリー my Love』をプロデュースした David E. Kelley である。なるほど。だからどちらもボストンの法曹界が舞台なのか。
 それにしても、ぜんぜん方向性や味の違うドラマを、両方とも名作にするその才能はすごい。弁護士をやめてドラマ作りに転身したのはおそらく正解だろう。

 なんと、『ボストン・リーガル』も同じプロデューサーだ。
 ただ、これは第一話だけしか見ていないが、それほど感心しなかった。『ザ・プラクティス』を見終わったら、もう一度虚心坦懐に見てみようか。
 ___

 さて、私にとってはつい最近のドラマなのだが、どうも舞台が古い。大きなブラウン管モニタのパソコンが事務所に1台だけあり、それを弁護士たちが取り合ったりするのである。
 いくら貧乏事務所といっても・・・と思っていると、スタートは1997年だという。終わったのが2004年。

 このブログが始まったころ(それはつまり、日本でブログが増えてくるころ)にはそろそろ終わりだったわけだ。

 『アリー my Love』と相互乗り入れもしており、それぞれの登場人物が物語の役柄のままゲスト出演したりしているそうだ。『アリー』はずいぶん昔に全部見ているのに、『プラクティス』のほうはどうして今までぜんぜん知らなかったんだろう?

 まあ、遅くなっても、出会えたことを小さな幸せだと思いたい。

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2011.05.18

■大阪府をストーカーにする条例

 橋下徹大阪府知事の肝いりで、公立学校の「入学式や卒業式などで君が代を斉唱する際、教員に起立を義務づける条例」(asahi.com)が制定されそうな雲行きである。成立すれば、全国で初になるそうだ。

 例によって理性なく吠えまくり、君が代を斉唱しないのは府民に対する挑戦だとか、起立しないことが複数回にわたると懲戒免職にするとか、勇ましい?ことを言っている。
 私も府民なのだが、君が代を歌わない教員は私に挑戦しているということになるのだろうか・・・ 受けて立ちましょうか(笑)
 ___

 日章旗と君が代を国旗国歌とすること、それを入学式や卒業式等で掲揚し斉唱することの是非はこの際問わない。

 そして、1999年の国旗国歌法審議時に、小渕首相が国会で「命令や強制は考えていない」(同)と答弁したこと、あるいはまた、2004年の秋の園遊会で、天皇が「やはり、強制になるということではないことが望ましい」(同)と述べたことは、この際、想起するだけに留めておく。

 いや、逆に?一歩踏み込んで、日本が近代国民国家としてその求心力を保ち、「国際社会において、名誉ある地位を占め」(日本国憲法前文)る上で、象徴天皇や国旗国歌を核にすることは役に立つと仮定しよう。

 それでもなお、こういう条例はダメだと思うのである。

 なぜか。

 「オレを愛していると、はっきり行動にして示せ」「そうしないとひどい目に遭うぞ」と脅迫することは、実際に愛されて素晴らしい家族を築いていく上で何の役にも立たないからだ。役に立たないどころか、むしろ大きな障害になる。

 そう、これはまさに、「ストーカーの論理」である。ストーカーは自分の思い通りにならない異性を脅迫して、愛してもらおうとする。そして、それが叶わないと刺したりもする。
 大阪府の条例では、思い通りにならない教職員を脅迫し、言うことをきかなければ懲戒免職にしたりするわけだ。

 それでみんな?から愛される府なり国なりになるのなら、まだ救いがある。
 しかし、君が代斉唱に反対するほとんどの教職員は、懲戒免職になると困るから、不平不満を内に溜めたまま(あるいは生徒に向かって吐き出しながら)嫌々職務を続けるだろう。ごく一部は信念を貫いて馘(クビ)になる。そして、両者の姿を目の当たりにした生徒たちは、それぞれさまざまな感情を抱くに違いない。

 ストーカー的父親に脅迫されて泣く泣く一緒に生活しながら愚痴をこぼしている母親や、経済的に困窮するのを覚悟で慰謝料も諦めて逃げ出した母親なんかを見て、子どもたちは父や母をどう思うだろうか。

 繰り返そう。

 仮に、日本が近代国民国家としてその求心力を保ち、「国際社会において名誉ある地位を占め」る上で、象徴天皇や国旗国歌を核にすることが役に立つと考えるとしても、露骨に処罰を持ち出して脅迫し、天皇への崇拝や国旗の掲揚・国歌の斉唱を強制することは、国家の一体感や公共への献身、あるいは「健全な」愛国心の涵養などに何の役にも立たない。むしろ、分断や反目、恐怖や忍従を生むばかりである。

 憲法前文がうたうように、日本が実際に高い倫理性を保ち、崇高な理想に向かって進もうとするのであれば、世界は日本に刮目し、国民はその国家に所属することに誇りを覚えるようになるだろう。
 大したことではないにせよ、「国旗国歌は強制しないほうが望ましい」と天皇が口にすれば、ああ、この人なら敬愛できると思うかもしれない。

 だが、橋下氏と維新の会がやっていることは、まったく逆である。

 彼らは、大阪府をストーカーにすることによって、分断や反目、恐怖や忍従を生む国家と国民を求めているのだろうか。

 橋下氏のいう「府民」の一人として、ストーカーの共犯にさせられるのはご免蒙りたい。

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2011.05.14

■ブレーキのない乗り物

 今日の朝日新聞「赤be」に、ジェット機が着陸する際の逆噴射について書いたコラムがあったので思い出した。
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 飛行機の操縦を習い始めてからしばらくして、かなり戸惑ったことがある。

 それは、ブレーキがないということだ。

 ブレーキをかけて止まれば、それはすなわち揚力を失って墜落するということだから、それでブレーキがないのかというと、そういうことではない。
 止まらないまでも、素早くスピードを落としたいことだってあるではないか(実際、1回だけあった)。

 もちろん、地上走行中には自動車と同じようなブレーキが有効だ。旅客機などでは、ジェットエンジンを逆噴射したり、プロペラの角度を変えて送風方向を逆にしたりもできるらしい。だが、そういうブレーキは飛んでいるときは使わ(え)ない。

 飛んでいるときに(も)使うものとして、エアブレーキやスポイラーと呼ばれるものがあるにはある。翼や機体の一部に板状のものを立てて、空気抵抗を増やす装置だ。
 だがそれも、着陸進入時や地上滑走に入ってから補助的に使われるのが一般的で、↑に想定したような「飛行中に素早くスピードを落としたい」という要請に答えるためのものではない。

 あ、戦闘機なんかだと、空戦を有利に進めるために急に速度を落としたりする必要があるから、飛行中にエアブレーキを使ったりもするだろう。
 また、急降下爆撃機などには、スピードが出すぎて地上に激突するのを防ぐためにダイブブレーキと呼ばれるタイプのものがついていたりする。エアブレーキの一種で、それが出す風切り音を聞くと自分の頭上に爆弾が降ってくることを意味するため、第二次世界大戦中、連合軍の兵士たちに「悪魔のサイレン」として恐れられたという、ドイツの飛行機ユンカース シュトゥーカ(Ju87)のものが有名だ。

 細かく書いていくときりがないが、いずれにせよ、単発のレシプロ小型機なんかにはエアブレーキなどもちろんついていない。強いていえばフラップ(高揚力装置)がそれにあたるが、それはスピードを落としてからしか使えない仕様になっている。つまりは、今ここで論じている意味でのブレーキではない。
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 これまで私が乗ってきたあらゆる乗り物は、加速したり減速したりするシステムをきちんと装備していた。それがないのはジェットコースターぐらいのものだろう。
 私が運転したものの中でそれがなかったのは、おそらく、幼児のころに乗った三輪車だけではないだろうか。

 飛行機は、そういう常識を裏切る乗り物だったので、ちょっとびっくりしたわけだ。

 もっとも、平和に飛ぶための飛行機は、何も障害物のない空を一定速度で飛ぶのが前提だから、通常はブレーキがないことは大きな問題にはならない。

 そういうものだとわかればなんということはないが、ブレーキがないという「想定外」の事態は、それを知らなかった者に一抹の不安を引き起こすのである。
 滅多にないにしても、急減速したいときにその方法がなく、あれよあれよという間にどんどん高速で進んでいくというのは、あまり心臓にいいものではない。
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 私が操縦していたような飛行機で速度を落としたいときにはどうするかというと、エンジンの出力を絞る(プロペラの回転数を落とす)か機体を上昇させるか(あるいはその両方)しかない。

 前者は、自動車でいうエンジンブレーキのようなものといえばよいだろうか。後者は、運動エネルギーを位置エネルギーに変えることで速度を落とすのである。まあ、速度を落とすために後者の方法をとることはまずないけれど。

 飛ぶときは、止まれないことを常に意識する必要がある。止まれないどころか、高度を保ったり下げたりしながら急速にスピードを落とすことすらできない。

 ぶつかりそうになったら、ステアリングによる回避操作よりもまずは急ブレーキ・・・というような、自動車における常識?が通用しないのである。

 まあ、ぶつかりそうになることもまずないんだけれど・・・

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2011.05.13

■周回遅れの iPad

 何だかあまり話題になっていないようなのだが、震災で発売が遅れていた iPad 2 がひっそりと?発売された(そして、もっとひっそりと新しい iMac も)。

 昨年、周囲の畏友たちが全員 iPad を手に入れるのを横目で見ながら、例によって様子を見ていたのだが、わずか1年後に発売された iPad 2 のスペックを眺めていて、ついふらふらと手に入れることを決めてしまった。

 少なくとも iPad 3 になるまでは手は出さないだろうと漠然と考えていたのに、2の段階でかなり魅力を増している。

 以前、T-1 という名前のデジカメを買ったとき、次に買うのは T-7 だと、半ば冗談で言っていたら、本当にそれになってしまったぐらい、私はなかなかものを買わない(というか、7になるのが早すぎるのである)。

 しかし、iPad のような革新的デバイスが発売された場合、ともかくも自分のものにしていろいろ触ってみないと、この分野に関する発想がどうしても保守的で時代遅れのものになってしまう。
 だから、結局は役に立たなかろうがすぐに飽きようが、あるいは宝の持ち腐れになろうが、とりあえずは手に入れて使いこむのが正しい道だ。

 それはわかっているのだが、iPad にはやはりちょっと納得できなかった。

 もやもやした思いを抱えているところへ、わずか1年で魅力的な製品が出てきたので、今度は背中を押されてしまったわけだ。

 既に iPad を使っている同僚を横目に見ながら、「待ったお蔭で自分はもっといいものが使える」と密かに悦に入っていたら(嘘です。そんなに性格は悪くありません)、まさかというか、同僚も iPad 2 を注文したと聞いた。

 わずか1年前に買って、また買うんですか・・・

 いやしかし、それが正しい作法なのだ。
 先方には既にある「新しい発想」と、それに触発されて広がった世界を、私は1年遅れで追いかけていくことになってしまう。

 まあ、私が使っても、大した発想も湧かなければ大して世界も広がらないんだけれど・・・

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2011.05.11

■首相の英断?

 菅首相が中部電力浜岡原発の運転停止を要請した。
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 その少し前には、現在運転を停止している3号機を再稼働する予定だと会社側が発表していた。

 その報に接して「この状況で再稼働なんてとんでもない」という声が上がったとき、私が考えたのは、「別にいいのではないか」ということであった。

 その理由はこうである。
 現に4号機5号機が稼働している以上、3号機の再稼働を止めてもたいした意味はない。再稼働がけしからんというなら全部止めなければならない。しかし、そんなことができるわけないのだから・・・

 教条的にでも声高にでもないにせよ、四半世紀にわたって原発に反対し続けてきた男でも、考えるのはその程度のことである。

 前提というか与件というか、そういうものがやはり、現状肯定になってしまうのだ。

 だから、英断であるのかどうかはわからないが、ともかくも「全部止める」という要請をしたというのには、かなり驚いた。

 前提を覆すことだってできるのだ。
 まあ、首相だからなんだけど、それにしても、現状肯定を前提にしてしかものが考えられなくなっている自分を少し恥じた。
 ___

 種明かしを聞いてしまえば(たとえば中部電力のピーク需要に占める原発の割合はたかだか12%だとか)、それほど難しいことではないのはわかるけれど、それでもやっぱり、もろもろの障害を乗り越えてそこへ踏み出すのは大したものだと思う。

 誉褒なく毀貶多き首相だが、この英断?にはちょっと唸ってしまった。

 他の政治家も、人の足ばかり引っ張っていないで、少しは私を唸らせてほしいと思う。

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2011.05.08

■ジャンプするクルマ

 被害のあまりなさそうな市街地の信号の中にも、まだ点灯していないものが数か所あって驚いた。

 防毒マスクにゴーグルみたいな完全装備の警官が手信号を送っていたりする。確かに、あの砂埃の中、交差点に立ち続けるのは、いくら仕事とはいえ、大変な作業である。

 被害のあったところの中には、通行止めで迂回路が設定されていたりすることも多かった。中には、橋が落ちたところに仮の橋が架けられたりもしていた。

 そんな迂回路のひとつを走っていたときのこと。

 交通量はほとんどない。長い迂回の間中、今思い出す限りでは、先行車(すぐに私を置いて先へ行ってしまった)と対向車がそれぞれ1台だけだったように思う。

 どこまで迂回するのやら・・・ 途中一度道を間違えて山の中の行き止まりになり引き返す。ほんとにこれほどの大回りが必要なのかとちょっと気持ちが焦っていた。
 北上川の河口付近、川に沿って左岸を東西に結ぶ道だ。川のすぐ北の道ではなく、もう一本北を走る田舎道である。
 綺麗な舗装に車のいない道のこととて、たぶん60〜70km/hぐらいで快調に走っていたと思う。

 えっ !? と思ったときには、すでに車は空中にいた。

 昔バイクに乗っていたせいもあり、路面には注意している方である。それに、「段差注意」とかなんとか、この国ではうるさいぐらいにある表示も、何もなかったと思う。さらには、ここに来るまでに、さんざん段差を経験していて、少しは慎重になっているはずだった。

 それでも車は見事に?ジャンプし、ほんの一瞬ではあるが、確かに4輪すべてが地面から離れた感触があった。

 「うわっ、あかん!」と思った瞬間、何もできないうちに車は着地し、直後にトランクに入っていた自転車が床に落ちる音が聞こえた。トランクの中で宙に浮いていたのだろう。

 車はしかし、そのまま何ごともなかったように走り続けた。着地のショックはあるにはあったが、タイヤとサスペンションがうまく吸収してくれ、底を打ったりもしなかったのは幸いだった。
 おそらくは、何もできなかったのがよかったのだろう。

 ジャンプするまでに変な抵抗は一切なかった。地震で?高低差のできた道路の段差を応急工事で埋めていたにちがいない。それがちょうどジャンプ台のようになり、車がスムーズに宙に浮いたのだと思われる。

 テレビゲームじゃあるまいし、自分の運転する車がたとえ一瞬でも完全に宙に浮くなんて、もちろん初めてのことだし、おそらくは今後一生ないだろうと思う(そして、ないことを祈る)。

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2011.05.07

■バックするサギ

 宮城県の石巻市あたりを北上川に沿って北上していたころのことだと思う(読み直してから気づきましたがシャレではありません)

 目の前を奇妙な鳥が左から右へ水平に飛んでいるのが目に入った。確か、長くて黄色い嘴が見えたと記憶しているのだが定かではない。
 大きさと色からは白鷺としか考えられないのだが、どう見ても知っている鳥ではない。嘴も異様だし、羽が前進翼になっているのだ。近未来戦闘機とか着陸(着水)直前の鳥とかだったらともかく、こんな飛行姿をしている鳥は見たことがない。

 驚いて見守るうち、この鳥は右から左へ飛ぼうとして、風に押し戻されているのだということがわかった。嘴に見えた足が黄色かったとすれば、コサギだろう。

 ものすごく風の強い日で、さすがに瓦礫が飛ぶのには遭遇しなかったものの、砂埃なんかはひどかった。

 それにしても、鳥が一生懸命に?飛んで、対地速度がマイナスになるなんて・・・

 これまで、風に煽られたりする鳥や風を利用して空中停止する鳥を見たことは少なくないが、真っ直ぐバックしていく鳥を見たのは初めてである。
 しばらくすると、鳥は何とか気を取り直したように、煽られながらもゆっくりと前進・降下し始めた。脳みそのない頭で、それまで何を考えて正面から風に挑んでいたのかはわからない。
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 数日の後、今度は日本海側を南下していて、たまたま直飛するカルガモと併走することがあった。ほぼ真横の低い位置をキープして飛んでいる。速度計を見ると60km/h弱。その時の風がどうなっていたのかわからないが、その後車を降りて蕎麦を食べたときの記憶からすると、穏やかな日であった。仮に無風だったとすると、秒速16mほど。
 やっぱりカモって結構速いんだなあと思った。
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 コサギの飛行巡航速度(対気速度)がいくらかわからないが、仮にカモの2/3の40km/hぐらいだとすると(経験的にはそう外していないと思う)、秒速11mあまり。つまり、それ以上の向かい風に正面から挑んでいくと、バックすることになる。
 あのときは20m近い風が吹いていたのではないかと思うので、時速30kmぐらいでバックしていた可能性もあり、だとすればちょうど鳥がふつうに飛んでいるように見えたとしても不思議ではない。

 それにしても、珍しいものを見せてもらった。

 この後しばらくして、もっと珍しい?体験をすることになる。

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2011.05.06

■一生分の桜

 何から書き始めよう?

 とはいっても、ブログを始めてからのすべての旅行がそうだったように、今回も、いくつかどうでもいいことを綴った後は、また日常の中に埋没していき、肝腎なことは何も書けずに終わるだろうと思う。
 まあ、私が書けるような「肝腎なこと」が、もしあるならの話なのだが。
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 今回の折り返し地点は弘前だったといっていいだろう。
 そんなところに行くつもりはなかったのだが、結局は弘前城にまで行ってしまった。

 弘前城は、言わずと知れた、おそらくは東北で一番の桜の名所だ。ほんのひと月ちょっと前、まだ冬枯れた木々しかない弘前を仕事で訪れたとき、何人かの方から、「桜の季節は素晴らしいですから、またぜひいらしてください」と言われたものだ(念のため、地震直後の停電を除けば、弘前は被災地ではない)

 小雨降る中、空き時間に市内を散策し、ほとんど人っ子ひとりいない弘前城公園を歩いて横断した者にとっては、いったい弘前のどこが観光都市なんだろうという感想しか浮かばなかった。
 そうそう、お堀の一部には氷が張っていた。

 「またぜひいらしてください」と言われても、桜の季節はちょうどゴールデンウィークと重なるという。混雑や行列や渋滞が人一倍嫌いな私が、そんな時期にはるばる弘前まで行くはずがない。それに、飛行機とバスを使って往復するだけで7万円ぐらいかかるのである。

 だから、弘前城の桜を見ることはたぶん一生ないだろうなと思っていた。

 それからわずか一か月あまり。

Img_12993_32 河川敷の臨時駐車場に車を駐め、トランクに積んでいった自転車で弘前城へ向かう。3連休中だったのに、渋滞にも巻き込まれず、行列にも並ばなくてすんだ(もっとも、小さな「天守閣」へ入るのには長蛇の列ができていた)

 人出はもちろん多い。
 「桜のトンネル」と呼ばれているお堀端など、休日の心斎橋のようである。

 それでも、どうしようもないというほどではないし、300円払って入る本丸と北の郭の人混みは幾分少なく、芝生に敷いている花見のブルーシートの間隔にも都会よりは余裕があるように見える(あんな場所でブルーシートの宴会なんかを許しているのが信じられないんだけれど)。

 本物の桜の名所に出かけた経験が乏しいせいかもしれないが、珍しく家人に電話して、「一生分の桜を見た」などとありきたりの感想を述べたりした。

 もう一生行かないだろうと思っていた場所で一生分の桜を見たのだから、辻褄は合っている・・・のだろうか。

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2011.05.01

■季節を遡りながら

 ゴールデンウィークに遠出するなんて、何年ぶりだろう? もしかすると、生まれて初めてかもしれない。

 季節を遡(さかのぼ)りながら、東北までやってきた。今は福島県にいる。

 昨夜家を出たのだが、北上するに従って、木々の葉がどんどん縮んでいき、散った桜の花びらが枝に戻っていく様子は、サービスエリアやパーキングエリアで夜目にも感じられた。

 なのに気温は高く、車の中で仮眠するのに寝袋はまったく不要だった。

 あいにくの小雨模様だが、夜が明けてからは、季節の逆戻りがいっそう明らかになる。
 桜は満開に戻り、落葉樹は冬枯れた姿をさらす。猪苗代湖畔の枝垂れ桜など、膨らんだつぼみの姿にまで戻ってしまっていた。

 山々には雪が白く残り、 道ばたや芝生には積み上げられた雪が黒く残されている。
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 行く春と別れを惜しみつつ、江戸・千住を後にした芭蕉には、春は戻ってこなかったに違いない。かの健脚をもってしても、行く春を後ずさりさせるほどの速度で奥の細道を北上することはできなかったはずだ。

 それから300年余を経た現在では、春をどんどん巻き戻すことができる。幸い、その方法は旧に復した。
 現代の奥の太道たる東北自動車道をひた走れば、季節は目に見えて歩みを戻すだろう。
 上野を出る東北新幹線の車窓からなら、フィルムを高速で巻き戻したような景色が展開するに違いない。

 だが、それらはすべて、どんどん位置を変える旅人の視点だ。同じ地点にとどまる者には、時間を逆戻りさせることはできない。
 旅人にしたところで、いくら急いでも願っても、ここが静かで綺麗な雪に覆われていたときにまで遡ることはできない。

 「このままどんどん北上すれば、あるいはもしも・・・」と思うには、われわれは現実を知りすぎている。

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