◆見えぬ「周辺」
散り果てた桜の姿を満開まで巻き戻しつつ被災地に向かってから、もう1か月あまりが経った。
案の定というか、何も書けないままである。
ただ、あのとき痛切に感じたことで、今も気になっていることの1つは、 「周辺」への目配りが必要だということだ。あるいはそれ以前に、「周辺化させないこと」と言ってもいいかもしれない。
大きく言えば、津波の被害で地震の被害が忘れられ、原発の被害で津波の被害が忘れられてしまっていないか、という懸念がある。
「忘れる」は極端にしても、しばしば軽視はされてしまう。津波はまだ相対的に「まし」だが、地震そのものの被害は顧みられることが非常に少ない。
そして、地震・津波・原発のそれぞれの被害の中でも、周辺に行けば行くほど、そして、被害が「軽微」であればあるほど、軽んじられる傾向がある。
より重大な被害があるのだからもちろん仕方のない面もあるのだが、たとえば、比較的被害の少ない地域で、どこも壊れていないしっかりしている(ように見える)家から泥を出している家族の様子なんかを見ていると、これでは見捨てられたような気持ちになってしまうだろうなと思わずにはいられなかった。いや、実際に見捨てられているのかもしれない。
地震後2か月が経とうとしていたころですら、瓦礫はほとんど片付いていないように見えた。まもなく3か月になる今日のニュースでも、「瓦礫の撤去はほとんど進んでいません」とか言っている。被害の中心部でさえ手が届いていないのだから、周辺が放置されているのも仕方ないのかもしれない。しかし、おそらくはどこからも援助の手が届かず、2か月も経ってから家族3人で家を住める状態に戻そうとしているのを見ていると、「忘れ去られた周辺」の悲哀が胸に迫った。
そういえば、それほど被害がない地域でもまだ点灯していない信号が数か所あって、それにも驚かされた。昼間だったので気づかなかったが、まだ電気が復旧していなかったのかもしれない。
ふつうに車が行き交い、建物も壊れていない幹線道路沿いですらそういう場所があるのだ。
マスメディアが報道するのはどうしても被害の中心地になりがちだ。今回のような広範囲の災害では、「中心地」はいくらもあるので、さまざまな場所がひろく報道されているかのような錯覚に陥る。
しかしながら、たとえば被害の範囲を円にたとえると、多数ある円のうち、報道されているのはほとんどがその中心付近の話であり、円の覆う広い面積がカバーされることはない。別の円の中心なら報道対象になるとしても。
「周辺」に目を向けなければ、と思う。あるいはまた「周辺化させてはならない」とも。
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