◆国鉄への信頼
若い人たちが「日本人は時間に正確だ」という話をしたとき、その昔、大学へ遠距離通学していたころのことを思い出した。
自宅の最寄り駅は国鉄のいわばターミナルで、当時は、本数でいうとおそらく8割を越える電車の始発駅になっていた。
始発に乗れば座れるということもあり、可能な限りそれに乗るようにしていたのだが、始発電車は文字通り時報に合わせるかのように発車する。
もちろん時報は聞こえないのだが、
プッ プッ プッ プー ・・・プシューッ
という感じだ。最後はドアの閉まる音である。
私は当時から正確な時計を愛用していたので、まだ高架橋からホームに降りていなくても、「30秒ある」とか考えて安心していられた。
たとえ10秒で階段の途中にいても、十分のんびりできた。
何となれば、人類は10秒で100m走れるのである。私だって、当時は50mぐらいは余裕で走れた。十数メートル先の電車に乗るのになんの不自由もない。
あるいはすでにホームにいるときは、5秒前におもむろにベンチから立ち上がり、数歩歩いて乗り込むと、背中でドアが閉まる。
そこには間違いなく、互いに正確な時刻を知っており、かつ双方が必ずそれを守るという揺るぎない信頼が存在した。
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最初のころ、阪急電車で同じことをしようとして痛い目に遭ったことがある。13分発とか書いてあるのに、そのはるか前に発車してしまったのだ。
まだ13分になってないじゃないかと、非常に理不尽な思いをさせられたのを覚えている。
後でわかったのだが、運転士が参照しているタイムテーブルは20秒おきになっていて、そこには12分40秒発と書いてあるのに、駅の時刻表は13分発となっていたのである。
20秒単位で運行しているなら時刻表もそうせよとは言わない。だが、12分40秒に発車するなら、時刻表は12分発にすべきである。たとえそれが12分55秒発であっても、だ。
この件だけで、阪急電車は信用するに足りないと判断した。今はどうなっているんだろう?
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何も始発だけではない。当時の国鉄の時刻管理はそれは見事なものだったと記憶している。途中の駅でも1分以上違うことは稀だった。
最近は滅多に電車に乗らなくなったが、たまに乗ると、むしろほとんど1分以上の遅れが出ていて驚かされる。
何十年も経っているのにこれほど運行管理が劣化したのはどうしてなんだろう?
速度の追求、過密ダイヤ、そこから生じる余裕のない運行管理。教育システムの不備、誇りを奪われた運転士、人減らし、過重労働 ・・・そして「人身事故」。さまざまな悪条件が考えられる。
それでも、表示時刻より早くは出ないという美点は今も守られているのだろうか。
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国鉄がJRにならなければ今も正確な運行管理ができていたかどうかはわからない。時代の要請に答えられず、もっと劣化していたかもしれない。
だが、尼崎の衝突事故とその背景を知ったとき、国鉄ならあんな事故は起こさなかったのではないかという思いを禁じえなかった。
それとも、国鉄の強迫性障害的な正確さの追求こそが、あの事故の背景に流れる文化の源流だったのだろうか ・・・私にはわかならい。
わかるのは、遠い昔、私と車掌と運転士の間にあった、行動を正確な時刻に委ねるという信頼関係と、それがもたらす安心感だけだ。
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