◆司法と正義
さて、肝腎の話。
今このブログのサブタイトルになっている英文は、アメリカの法廷ドラマの中で判事が弁護士に言った言葉である。
「司法は被告人に正義を保証しているのではない。単に公正な裁判を保証しているだけだ。君の依頼人はそれをちゃんと受けたんだよ。」
この被告人はまず間違いなく無実で、判事もそれを知っている。
だが、この弁護人たちの戦略のまずさもあり、陪審員は有罪の評決を下した。オハイオ州における第一級殺人だから、ふつうだったら死刑か終身刑ということになる。
あまりにも理不尽だ。
裁判が終わってから判事の部屋で「正義はどうなる? 公正はどうなる?」と憤慨する弁護士に、判事が言った言葉が上記である。
量刑はこの後判事が言い渡すことになるのだが、淡々と死刑や終身刑を言い渡すのだろうか。
ドラマでは、裁判はこれで終わりで、控訴や再審などはできないということになっていた。「ほんとうは無実なのだ」では控訴理由にならないのだという。その辺の司法制度の違いはよくわからない。
しかも、主人公の弁護士(失敗した弁護人とは別人)が、「納得できないのはわかるけど、正しいのは判事だ。あなたにもわかるでしょう」と、弁護人に言って話は終わる。
なんという不条理。
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いや、「正義」を保証できないのはわかる。それを言えば「公正」だって保証できない。そんなことができる者がもしいるとすれば、全能の神だけだ。
だが、われわれは少なくとも、「正義」を志向しなければならないのではないだろうか。
「手続きが正しいなら間違って無辜の人を死刑にしてもいい」というのが司法なら、何かもっと違うシステムを探究する必要が絶対にある。
幸い、少なくともとりあえず控訴できるという点だけは、日本の司法制度の方がマシだ。
だが、その根本の精神がアメリカと同じように「手続きが正しければ正義はどうでもいい」というようなものであるとすれば、それは間違っている。
今まで、冤罪を生んだ多くの裁判に大きな違和感を抱えていたのは、この根本の精神が私の考えと相容れないためではないのかと思い当たった。
もしそうなら、根本から司法の精神を変えねばならない。
法律を知らない素人のたわごとかもしれない。しかし、少なくとも、主権者はわれわれなのである。
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