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2014.11.19

●証拠がないのに有罪判決を出すのはそろそろやめませんか

 また冤罪だ。
 証拠がないのに有罪判決を出すのはそろそろやめてはどうだろうか。

 強姦と強制わいせつの罪で懲役12年の判決が確定し、刑務所に服役中の男性を大阪地検が釈放したという(asahi.com)。
 大阪地裁の再審開始決定すら待たずに刑の執行を停止して釈放した。そうせざるをえないほど明白に無実だったということだろう。
 「極めて異例の措置」(同)だと言うが、足利事件の時も同様だった。また同じ間違いを繰り返したのだ。

 この男性はすでに、約3年6か月も服役していたそうだ。
 再審請求を受けて再捜査をした結果、被害者と目撃者が証言を翻し、かつ、「男性が事件に関与していないことを示す客観的証拠も見つかったという」(同)。

 逆に問いたいのだが、この男性が罪を犯したという「客観的証拠」が何か一つでもあったのだろうか。
 あったのならそれは間違いだったということになるが、おそらくは何一つなかったのだろうと思う。

 証拠がなくても「懲役12年の判決が確定」する!!

 そんな司法制度を擁する国に私たちは住んでいる。
 男性は一貫して無実を主張していたというから、地裁から最高裁まで3回も誤った判断を繰り返したのだろう。何のための三審制なのか。
 さらに、まったく無実の者が「やっていない」と主張し続けると、「反省しておらず悪質」だとして刑を重くしてしまうのがこの国の裁判所である。

 無実なのに・・・

 2人が口裏を合わせ、「私は襲われました」「私は目撃しました」と言っただけで、もっとも残酷な形で他人の人生を葬り去るようなことができたのだ。
 この事件に無関係の者にとって怖いのは、「できた」だけではなくて、今後も「できる」ということである。
 2人どころか、1人が「この人が痴漢です」と(間違えて)言っただけで、まったく証拠もなしに有罪判決が出る現実は、『それでもボクはやってない』(周防正行2007)で綿密に描かれたとおりだ。

 刑事裁判の鉄則は、
 ・疑わしきは罰せず
 ・すべての合理的疑いを超えて有罪としか考えられない場合のみ有罪
 ・十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰することなかれ
であるはずだ。

 だが現実には、まったくの無実・無辜の人を、平気で有罪にしてしまい、時には死刑にすらするのである。

 ほんとにもうそろそろ、証拠がないのに有罪判決を出すのはやめてはどうだろうか。

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2014.11.18

●高倉健さん逝去の報に接して

 俳優の高倉健さんの訃報に接した。

 特にファンでもないし、映画もいくつかしか見ていない。しかしながら、「国民的俳優」であることは理解している。

 この報が気になったのは、その年齢と病名とによる。
 ちょうど、義父が同じくらいの年齢で、たぶん同じころから悪性リンパ腫と闘っていた。
 ステージIV。Vは存在しないし、年も年なので、「もはやこれまで」感も漂い、医師も「年単位(で生存する可能性)はちょっと・・・」と言っていた。

 それが「寛解」(この病気に全快とか治癒とかはないらしい)し、とりあえず「治った」ということでほっとしていた矢先の、高倉健さんの訃報であった。

 この土曜日に義父の快気祝い?をしたのだが、その時にはもう、健さんは亡くなっていたということになる。

 義父の方は、タイプもステージも最悪に近いものだっただけに、おそらく最高の治療を受けたであろう健さんの方が亡くなったのは何か不思議な感じだ。
 ___

 「治った」義父も、最初に病院に行ってからまだ1年経っていない。次は、「年単位」の壁をクリアするのが当面の目標だ。
 断続的な長い入院生活と抗がん剤治療で弱った体を回復させる必要もある。

 義父の入院中に自分も入院するなど、義母だって決して健康体だとは言えない。
 実父母も同様である。

 なんとかまだ身の回りのことができることに感謝しなければならないのだろうが、それができなくなり、この世に別れを告げるのもそれほど遠いことではないだろう。

 1000年以上経っても、「避らぬ別れのなくもがな」(古今和歌集/伊勢物語)と嘆かなければならないことに変わりはない。

 まあ、それでいいのかもしれないけれど・・・

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2014.11.16

●国家推奨のぼったくり ──処方薬の一物二価(多価)

 医療行政に詳しい医師のお話をうかがう機会があった。

 いろいろ勉強になったが、かねがね不思議に思っていた処方薬の価格への疑問が氷解したので備忘を兼ねて記しておきたい。

 慢性疾患(といっても脂質異常症(旧:高脂血症)とか)で薬を処方してもらっていると、1種類の薬をまったく同じ数だけ受け取るのに、薬局によって価格がバラバラなのが不思議だった。
 大した金額でもないし、「別の薬局の方が安かったですよ」とか言うのもどうかと思うので、支払い自体はいつも素直にしているが、なぜそういうことになるのかはずっと気になっていた。

 明細を見ても、書式がバラバラなので、どこが違っているのかわからない。
 あるものは「調剤基本料」「薬歴管理料」「調剤料」、またあるものは「調剤技術料」「薬学管理料」となっていたりする。そして、以上5つのどの数字も一致していないし、後者の3つの数字をどう組み合わせても、前者の2つと一致する数字が出てこない。
 違う薬局のものが十数枚とか溜まれば法則が見えてくるのだと思うが、だいたいは同じ薬局で薬をもらうので、今のところそこまでいっていない。

 同じなのは「薬剤料」で、これは保険診療による公定価格だから当然だろう。

 実際、私がもらう薬に関して薬局がやっていることは、できあいの錠剤シートの数を数えて売るだけなので、小学生でもできるような仕事である。「調剤基本」も「調剤技術」も「薬学管理」も「薬歴管理」も何もない。
 まあ、「管理」の方は、「他にお薬は飲んでいらっしゃいませんか」「はい」のやりとりで料金が発生するのかもしれないが、「調剤」のほうは噴飯物だ。
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 話が本筋から逸れた。結論を言うと、同じ薬を同じだけ売っても、薬局は「薬剤料」以外の部分で請求できる金額が違うのである。
 もちろん、自由に料金を設定できるわけではない。日本の保険医療からは、そういう競争は排除されている(なのにどうして用語が統一されていないのだろう)。

 では、なぜ違う料金になるのかというと、たとえば、
・一定以上の割合でジェネリック薬品を販売している薬局
・多数の医療機関の処方箋を扱っている薬局
は、料金を高く請求できるのだそうだ。
 他にもいろいろあるのだろうが、例として伺ったのはその2つであった。

 要するに、厚生労働省の方針に従っている薬局ほど、薬を高く売りつけることができるということである。安いジェネリックを薬局が勧めるのは不思議だなあと思っていたのだが、そういうからくりがあるからなのだ。

 患者の側から見れば、まったく同じ薬をもらうのに、薬局によって支払額が変わってくることになる。しかも、一般的な競争ではないので、デパートなら高くてスーパーなら安いというようなわかりやすい尺度がない。その上、価格が表示されている商店と違い、実際に買ってみなければいくらなのかがわからない。

 上の2例だけに限って安く薬を買うコツを述べるならば、

・ジェネリック薬品を嫌っている病院の門前薬局で、他の病院で処方されたジェネリック薬品を買う

のが一番安いということになる。具体的にどこがいいか思いつきますか?
 ただし、そういう人が増えると、その薬局でもらう薬は高くなるし、実際にはもっといろいろ複雑な理由で請求額が違ってくるようだ。
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 病院の場合も、お役所の言うことに従っている病院ほど、同じ治療をしても高い診療報酬を請求できるということになっているのは、以前から一応知っていた。厚労省はそうやって医療の方向性を操縦している。

 百歩譲ってそれはいい(仕方ない)としても、ではどうすれば安くて質のいい医療を受けられるのかの情報開示が乏しい現状では、患者は医療を選べない。
 安かろう悪かろうではもちろん困るのだが、私がもらっているような薬の場合、モノはまったく同じだから、価格だけが重要なのである。

 私はネオリベのような自由競争万能主義者ではない。しかしながら、いっそのこと、たとえば薬剤料以外は自由競争にしてもいいのではないかと考えてしまう。
 処方薬以外はもともと自由競争なんだし。

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2014.11.08

●原発再稼働は100%ない?

 今ごろ知ったのだが、2014年9月22日、ニューヨークで行われた国連総会の合間のワールド・リーダーズ・フォーラムで、安倍首相が「原子力発電所の再稼働について、安全が再び100パーセント確保されない限り、行わない方針を示した」という(jp.reuters.com)。

 ・・・ということは、どう考えても、「原子力発電所の再稼働は100%行わない」ということになる。

 もちろん、発言の趣旨はそうではあるまい。安倍さんは「原子力発電所の安全が100%確保されることが(ふつうに)ありうる」と思っているのだ。
 こんな非科学的・非論理的なことを国連総会の合間に世界に向かって発言する人物が首相・・・

 まさか、99.5%以上は100%だとか言うんじゃないだろうな。

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2014.11.02

●寿命

 冷蔵庫を買い換えたばかりなのだが、うちじゅうでいろんなものが寿命を迎えつつある。

 テレビは10年経っていないのだが、ファンからと思しき異音がすることがある。ファンを交換すればいいだけだと思うのだが、ネットで調べるとなんだかんだで5万円近くかかりそうで、微妙なところだ。4Kとか8K?とかがかまびすしい時代にフルハイビジョンですらないし、たぶんまもなく、2万円ほどするランプも交換しなければならない。

 洗濯機はもう20年近いかもしれないが、これも脱水時の音がおかしい。最近の高級洗濯機はもはや違う種類の電気製品になっているようで、そういうのを買うか伝統的なのを買うかも悩みどころだ。

 床暖房の制御盤も1つが完全に故障して、スイッチすら入らなくなった。これはもう、数年前から3つのうち2つは表示が壊れていたのだが、単に使うだけなら問題ないので放置していた。これは十数年使っている。

 車も今は調子いいが、修理しつつ使って2台とも十数年ものなので、そのうち買い換えざるを得ないだろう。一台はタイヤも交換時期で悩ましい。次の車検を通すなら足回りも更新しなければいけないそうだ。
 あ、そういえばバイクのタイヤもそろそろ寿命である。冬用のウェアもグローブも買わなければ・・・

 お金がかかるだけでなく、手間暇も相当かかる。断捨離とか清貧とかにも魅力を感じるが、凡俗の徒にあってみれば、なかなかそうもいかない。

 これでも友人・知人と比べればほとんど物欲がない方なんだけれど(笑)、それでも多くのものに囲まれすぎていて、それぞれが劣化し、寿命を迎えるのだ。
 劣化しつつある肉体(精神もか?)がまだ寿命を迎えそうにないことがせめてもの救いである。

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