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2015.05.31

■ツバメへのお詫び

 家を建てていたとき、ガレージの天井にある照明器具にツバメが巣を作りかけたのだが、そのうちシャッターがついて出入りできなくなることがわかっていたので、傷の浅いうちにと撤去させてもらった。

 あれから十数年・・・

 うちのすぐ近くには田んぼとかはないはずだし、近所でツバメの巣を見かけたこともないのだが、この季節になると自宅付近をしょっちゅう飛び回っている。

 そして、不思議なことに・・・という気がするのだが、毎年のようにガレージの中に入ってくる。
 シャッターが開いているのは、クルマやバイクを出し入れする間くらいだけなのだが、その短い時間にも狙いすましたように入ってくるのだ。

 華麗な飛行で、その航跡にはほれぼれする。

 しかし、ガレージに入られると、出るまでシャッターを閉められない。今まではまあタイミングをみはからってうまくやっていたのだが、昨日はとうとう、ツバメを閉じ込めることになってしまった。

 目の前でホバリングを繰り返してくれたり、昨日は特に見ごたえのある飛翔を見せてくれたのに、実に申し訳ない。

 出る様子がないので、シャッターを半分くらい降ろしたところで止め、しばらく車の中で待ってみたのだが、それでも出てこない。
 仕方なく、すでに外に出た可能性もあると思い、そのうちまたシャッターを開ける家人に後を託して出かけることにした。

 帰宅してから聞いたところによると、やはり2羽のツバメが閉じ込められていたという。
 「あんな暗いところに閉じ込められて怖い思いをしたら、もう二度と来なくなるわ」などと悲しいことをいう。

 それにしてもどうして毎年、ツバメがガレージに入ろう入ろうとするのだろう。
 もともとは洞窟などの入口に巣を作っていた習性があるとかだろうか。

 いずれにせよ、ツバメがお気に入りのガレージには、申し訳ないが巣を作らせるわけにはいかない。シャッターは開けておけないし、中をフンだらけにされても困る。

 そこでこの際、玄関に巣を作ってもらうことにした。

 うちの玄関は通りから洞窟ふうに凹んでいるというか、アルコーブみたいになっているので、ちょうどいいと思ったのだ。
 問題は、コンクリートにタイル張りなので、巣の土台をどのように設置するかということであった。

 これまでも(十数年間!)ちらちらとは考え続けていたのだが、本気で検討したことはない。
 今回は、昨日閉じ込めてしまったお詫びの印に、そして、十数年前に作りかけの巣を壊した罪滅ぼしのためにも、ちょっと真剣に考えてみた。

 すると、玄関ドアの枠を利用して、ちょうど上手い具合に土台を設置できそうな気がしてきた。
 そのための板と留め金をホームセンターで買ってこようと思っていたのだが、キッチンにおあつらえ向きの鍋敷きが転がっていたので、板はそれで代用する。固定用のL字金具と木ねじだけ買ってきて、両面テープも使い、さっそく設置してみた。

Dsc07494_32 素晴らしい。
 われながらちょっと悦に入るほどの土台ができた。色合いも玄関にマッチしている。あとは昨日のツバメ(ほかのでもいいけど)が来るのを待つだけだ。

 家人の車を洗車していると、今日も周囲をすいすいと飛び回っていた。昨日と同じ個体かどうかわからないが、怯えてここに近づかないというようなことはなさそうだ。

 ただ、もう5月も終わりだし、今から新たな営巣は期待できないかな?
 でも、巣を作るつもりがないんだったら、どうしてガレージの中に入ってきたりしたんだろう?

 いずれにせよ、少しわくわくしながら待つことにする。ダメならまた来年があるさ。

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2015.05.27

■帰ってきた「人馬一体」

 バイクを整備してもらっている待ち時間、隣がマツダのディーラーだったのでちょっと覗いてみた。

 先日発売されたばかりの新しいロードスターが見られればラッキーくらいの感覚だった。

 見回したところ一台もなさそうだったのでちょっとがっかりしていたのだが、おそるおそる聞いてみると、「今、試乗に出ています」とのことで、こちらが何も言わなくても、「試乗をご希望でしょうか」と先方から聞いてくれた。

 「あ、いえ、現物が見られればくらいの感じでお邪魔したんですけど、試乗させていただけるのであれば、ぜひ」
 「それはもう、どうぞどうぞ」

という感じで、試乗させてもらった。
 ___

 とりあえず、オープンになっていた幌の屋根を閉めてもらう。ホンダのS660もダイハツのコペン(2世代目)も、クローズにすると頭が天井に当たってしまい、その瞬間に問題外となったからである。
 幸い、ロードスターはさすがにそんなことはなく、ちょっとほっとした。

 「じゃあまあせっかくですから」という営業マンの勧めで、再びオープンにして走り始める。

 歩道前で一旦停止してから車の途切れるのを待ち、ゆるりと幹線道路へ出て行くところでは、特に何も感じなかった。
 最初の直線では、最大で15kgmほどしかないトルクをやや非力に感じたが、車体が軽いせいもあって、少しエンジンを回せばそれほどパワー不足という感じはない。このエンジンと車重ならマニュアルが楽しいだろうなあと思った。

 「次の信号の交差点を右に曲がってください」ということで、何でもないような交差点をごくふつうのスピードで右折する。

 途端に、「うおぉぉぉ」と唸ってしまうような挙動を腰が感じた。

 明らかに、自分の腰を軸にして車が旋回していくのである。

 どういうふうに作ればそうなるのか知らないが、これまでにこの感覚を与えてくれた車は先代のロードスターだけだ(それ以前のロードスターには乗ったことがない)。

 S2000もMR-SもCopenもS660もAudi TTも、そして、ポルシェのボクスターでさえ、この感覚とは無縁だった。

 マツダのいう、「人馬一体」だ。あの乗り味が帰ってきたのである。

 気に入らないと思っていた「薄目」のヘッドライトデザインも、実物はそう悪くはなく、もう少し早く発売されていれば、今の車ではなくこちらを買っていた可能性もある。

 決められた試乗コースなので、結局、カーブといえばほとんど交差点しかなかったのだが、それでも、この唯一無二とも言えるような操縦感覚の素晴らしさは十分にわかった。
 ___

 バイクの整備も終わり、エンジンの回転やシフトフィールがはっきりわかるくらいスムーズになった。
 気をよくして、昼食後、ちょっと走りに出た。

 バイクだから、それこそ人馬一体のはずだ。以前書いた、調和旋回をするかのように次々とコーナーを曲がっていく。

 だが・・・

 腰に来ないのである。
 今までほとんど考えたことがなかったが、このバイクは乗り手の腰の位置よりも少し前を軸にして旋回していくようだ。

 ロードスターの人馬一体には、バイクすら追いつけないということか。

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2015.05.25

■論理的な信仰

 バイクの12か月点検のためにディーラーへ行った。

 「気になるところはありませんか」と聞かれて、「特にありません」と答えてから、そういえばリアブレーキのパッドが減っているのを思い出した。

 しまった。安い店で先に交換しておくんだった・・・

 費用を聞くとそれなりに高いので、ちょっとどうしようかと考えるうち、つい先日、自分でここに書いたことを思い出してしまった。

「何でもかんでも、とにかく安く」という、信仰に近いような市場経済の要請が社会を蝕んでいる。

 言うまでもなく、私も信者(=社会を蝕む主体)の一人である。

 いや、分野によってはそれなりのお金を支出するのを惜しんでいない・・・とか言い訳してみても(だれに?)、お大尽からほど遠いのは疑いようがない。

 まあしかし、舌の根も乾かぬうちから「社会を蝕む」のも気が引けたので、ここは大らかに ^^; 高い費用を払って交換してもらった。

 ほんの雀の涙ほどは、日本経済と社会、そして労働者の幸福に貢献できただろうか。

 そう自分を慰めつつ、次回はやっぱり安い店に頼もうかと思っている。モノは同じだし、技術だって遜色ないのだから(もしかしたら上かも)、当然じゃないか・・・

 ふつう、信仰というのは非論理的だから対処に困るのだが、安さへの信仰は、論理的だからこそ始末に負えない。

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2015.05.22

■異常な廉価

 職場の清掃関連で看過できない問題が生じたということが会議で取り上げられた。

 私が担当ということになったので、支出などを把握している同僚にあれこれ教えてもらいながら2人で考えているうち、当面の問題よりはむしろ、市場経済の異常さに思いを致さざるを得なくなった。
 ___

 会議でも出たし、私もかねがねそう思っていたのだが、うちの職場の清掃にはかなり問題がある。
 端的に言って、あまり綺麗になっていないのだ。

 特にトイレには問題があると以前から思っていた。控えめに言っても、もう少し何とかなるだろうというレベルである。
 でも、現実に掃除をしている人を知っているので、その上司なり雇用主なりにクレームを入れるのもしのびない。
 どうしようもないというレベルではないからでもある。

 そんな中、今回初めて、清掃業務の仕様書?や費用などを知った。

 トイレを例にすれば、床や洗面台はもちろん、水栓や便器に至るまで、どこをどう掃除すべきか事細かに書いてある。
 ウォシュレットを使う時に伸びてくるノズルをきれいにするということまでリストにあって、抜かりがない。
 その掃除を平日は毎日行うことになっている。

 だが現状は、とてもそんなことをしているとは思えないのだ。

 その一番の原因が今日判明した。

 支出と清掃回数から換算すると、1箇所1回あたりのトイレ掃除費用(しかも、清掃員その人に支払われる金額ではなくて、雇用主に渡る金額)が、なんと100円なのだ。
 1箇所というのは、便器1つのことではない。女性用がどうなっているのかは知らないが、男性用でいうと、小便器と大便器がそれぞれ3つずつ、洗面が2つとか、そのくらいのトイレだ。

 それをぜんぶ掃除して100円・・・

 どうしてそういうことになるかというと、(おそらく)競争入札による業務委託が義務づけられているからである。

 業者に仕様書?が提示され、これだけの業務がいくらでできるかと競争入札にかけられる。
 業者はとにかく安くしないと落札できないわけだから、とんでもない安値で落札する。その結果が、トイレ1箇所当たり100円というわけだ。

 そんな金額で、まともな掃除ができるわけがない。清掃員が1箇所の掃除に5分もかければ、業者は赤字になってしまうだろう。
 だが、とんでもなく汚くない限りは、だれもわざわざ文句は言わない。私だってそうだし、上にも書いたように、現実に掃除をしている人をいじめたくないという思いも働く。
 だから次の年もまた、同様の安値で同じ?業者が落札する。

 「こんな金額で仕様書通りの清掃ができるわけがない」というまともな業者があったとしても、そういう会社に仕事は渡らない。

 いや、たとえ競争入札だとしても、最低落札価格の設定とか何とかあるはずだ・・・とも思ったが、そういえば、「1円入札」とかいうニュースも見聞きするくらいだから、手抜き工事が危険に直結する建築物など以外では、最低価格はないのかもしれない。

 「この件でぼくたちに何ができるだろう」と同僚相手ににつぶやいてみたものの、とりあえずは何もできそうにない。
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 「何でもかんでも、とにかく安く」という、信仰に近いような市場経済の要請が社会を蝕んでいる。

 国内にあった仕事は安い労働力を求めて海外に出ていき、さらに安い場所を求めて転々としはじめた。
 海外移転できない仕事は「仕方なく」国内在住者が担うが、その最低賃金は生活保護水準以下である。それは問題だということになると、賃金を上げるのではなく生活保護の支給額を下げようとする。

 さらには、その最低賃金でも高すぎるとばかりに、より低賃金の労働者を外国人研修生や実習生という名目で働かせてきた。
 幸い、今では労働者として最低賃金を保証されるようにはなったはずだが、実際のところはどうなのだろう。

 フルハイビジョンの40型テレビが5〜6万から手に入るような現状では、パナソニックだってシャープだってソニーだって経営が傾くのは当たり前である。

 われわれはどこまで、自分の首を絞めながら安さを求め続けていくのだろう・・・

 自戒を込めて。

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2015.05.17

■日曜水道屋(土曜だけど)

 「日曜大工」という言葉はあるが「日曜水道屋」という言葉はたぶんない。英語だと Sunday Plumber という言葉があるようだ。「日曜配管工」のほうがいいかな?
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 あっちでもこっちでも水漏れしていたのだが、まあ放っておいても問題ない箇所だったので重い腰があがらなかった。

 ところが、洗濯機への給水栓から漏れ始めたのは放っておけない感じだったので、とりあえずパッキンを替えて修理した。
 以前にもやったことがあるはずなのだが、プライヤーで挟んで回さざるを得ない構造で、今どきこんなものがあるのかと改めて驚いた。

 かかった費用自体は105円だけだが、水道屋さんに頼むと最低5千円は取られるようだ。
 気をよくして、もっと面倒な修理にも手を出すことにした。

 漏れているのは、キッチンの水栓と浄水器である。
 前者は根元に水が貯まり、後者は先端からぽたぽたと水が止まらない。
 いずれも、構造や原因がわからないし、パッキンを替えておしまいというわけにはいかないだろう。

 前者は、「ワンホールシングルレバー混合栓」という名前なのだとわかったが、シンクの奥に生えていて自然に湯水が湧いてくるだけで、ほとんどブラックボックスである。
 どういう仕組みでどこから給水・給湯されているのかもよくわからない。そもそも、どうやって流しに固定されているのかすら・・・

 が、便利な時代で、ネットで調べると、原因から必要な部品、修理方法まで教えてくれるサイトがいくつもある。中には修理工程を動画にしている人もいて、「暇だなあ」と半ばあきれつつ、感謝して参考にさせてもらう。

 結局、混合栓は丸ごと交換、浄水器はスピンドルと呼ばれる部品を交換(なんと4000円以上する)すればいいことがわかった。
 混合栓の方は種類が多すぎて、どれにするか決めるのに苦労した。

 作業自体は難しいことはなさそうだが、問題は作業スペースがほとんどないことと、古い部品が固着していて外れにくいことにあるらしい。

 混合栓の方は、シンクの下の米びつやら鍋釜やらを入れている収納部に潜り込んで仰向けになり、ものの10cmほどしか幅のない真っ暗な隙間に腕を入れ、上方のボルトを回したりする必要がある。
20150517taihen
 イラストは三栄水栓のサイトから引用させていただいたが、うちは給水管自体が仕切り板で隔絶されているので、この絵から想像される以上に大変だった(今日は筋肉痛だ)。

 幸い、バイク用に買ったラチェットレンチがあったのでうまくいったが、ふつうのスパナだったら回すスペースがないために外すのに苦労しただろうと思う。
 混合栓の定価は3万円ほどするのだが、通常の実売は1万4千円くらい。それを送料込み9千円程度で買える店を見つけて購入・交換した。
 頼めばぜんぶで4〜5万はかかるかなあと思っていたが、ネットで安いところを探すと2万5千円というのがあった(九州だけど)。

 浄水器の方はまだ部品が届いていないのだが、こちらは部品が固着していることだけが問題で、作業自体は単純である。
 だが、メーカーによると、部品だけ注文したものの、諦める人も多いということで、その場合は9千円で作業員を派遣すると言われた。
 ___

 浄水器の部品が首尾よく交換できたとすると、結局、3万円ほど節約できることになる(思ったより少ないな・・・)。
 給料は10年以上あがらず(というより下がっていたのがやっと10年前のレベルに戻りつつある状況で)、収入を増やす方法はほとんどない以上、こうやって稼ぐしかない。

 いや、巧拙はともかく、たぶん専門の業者さんより掃除に念を入れ、綺麗に丁寧に施工した自信はある。
 普段なかなか得られない達成感もそれなりに大きかった ^^;

 こんなことなら、もっと早くやっておけばよかった。

 こういうことを自分でしない(できない)人たちはどうしてるんだろう。
 素直に高い?料金を払っているのだろうか。水道に限らず、テレビやビデオの配線とかインターネットの設定とか、ウォシュレットやインターホンを交換するとかパラボラアンテナを上げるとか(いろいろやったなあ・・・)、次々と出てくると思うんだけど。

 そんなめんどくさいことじゃなくても、電球や蛍光灯を替えるのですら需要はありそうだ。

 近所ならいつでも私がやってあげますよ、という気だけはあるのだが(人に喜んでもらえるのは好きである)、こちらがそんなことを考えていることを近所の人に宣伝するわけにもいかず、失敗しても責任はとれないし、現実には難しい。

 ともかく・・・

 それ以前に、面倒なこと、不安なことを後回しにして長期間憂鬱な気分が続く怠惰な自分を何とかしたい・・・ようなしたくないような。

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2015.05.06

■All Seasons but Fall

 ふと思い立って北へ向かった。

 4年前と同じように、北へ行くほど、また、標高を上げるほど季節はどんどん逆戻りしていく。

 木々の葉はだんだん小さく色も薄くなり、ついには雪山の中の冬枯れた木立になる。
 桜の花は徐々に花びらを取り戻し、とうとう満開かと思うころ、まだ一輪も咲いていない、つぼみの膨らんだ八重桜に出会う。

 この時期に東北へ向かうのが何だか癖になりそうだ。
 もう少し近ければいいのだが・・・

 4年前は沿岸部を中心に回ったのでそれほど意識しなかったが、山に登るとまだたっぷりと雪が残っている。
 最初、鳥海山で雪の壁に驚いたのだが、八幡平はもはや、一面の雪原だった。

 いうまでもなく、春は真っ盛り。それに加えて、異常気象なのか何なのか、平地の気温は30℃ほどもあり、日差しも初夏というよりはほとんど真夏である。

 たった数日の旅行で、秋以外のすべてのシーズンを体験できたことになる。

 あ、いや、秋も体験したかもしれない。

 津軽半島の最先端、龍飛岬で吹いていた風は、これまで経験したどの台風にも劣らないほどの強風だった。
 なにしろ、駐めた車がゆさゆさと揺れ、そのまま車を離れることに不安を覚えるほどだったのだ。
 車を降りると転びそうになったり戻れなくなったりしそうになる。
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 青森の龍飛から滋賀の大津までは、まったく高速を使わずに帰ってきた。
 もちろん寄り道をしながらではあるが、渋滞には遭わなかったにもかかわらず、結局3日かかった。

 こんなこと、ハタチの時にやっておくべきことだよなあと思いながらも、二十歳の時には別のことを、その後もその時々に別のことをしてきたのだから仕方がない。

 もし二十歳だったら、最後の最後に高速に乗ったりせず、自宅まで下道で帰ってきただろう。
 そんなところでつまらぬ意地を張っても仕方がないと、それほどの未練もなくさっさとランプウェイを登れるところが、もう若くないということなのだと思った。

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