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2015.07.31

●バイク&バイク(番外:天狗岩)

 休日出勤の代休。バイク&ハイクというよりバイク&バイク。

 先日初めて車で走った県道82号で山口町船坂。芦有ドライブウェイで有馬から宝殿。3度目の天狗岩。

Dsc07855_169 3度目でやっと、なぜ天狗岩と呼ばれているかが分かり、東側に見えている小さなビルが今は使われていない六甲有馬ロープウェイの天狗岩駅だと認識した・・・

 六甲山牧場のところで西行き通行止め(表六甲も通行止め:いずれも台風11号のせい)。ガーデンテラス、裏六甲往復。宝殿から芦有ドライブウェイで初めての奥池。戻って有馬。また県道82号。逆瀬川経由で帰宅。
 走行約140km。

 カンカン照りではなく薄曇りだったのに、やはりもう明日は8月。山に入るところのいつもの電光掲示板は30℃、山上でも28℃よりは下がらない。
 山上でジャケットを脱いで走るとまあ涼しいには涼しいが、ほんの10日ほど前に感じた風の冷たさはない。

 帰りの宝塚から中央環状では、日の当たっていない温度計がずっと40℃を指していた。

 お盆を過ぎるまではもう無理かな・・・という感じだった。
 ___

 この夏、北海道に行こうかと思っている。最初はバイクで行くつもりで、だんだん気持ちが車に傾いてきていたのだが、帰宅して駐めたバイクを後ろから見た瞬間、きっぱりと車で行こうと思った。

Img_8894_sqr 北海道は涼しいはずなので、その理由はよくわからない。

 夜になってからはすっきり晴れた。ブルームーンが綺麗だ。

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2015.07.26

●それでも事故は起こるので・・・

 費用と免許の面から単発飛行機(エンジン/プロペラが一つの小型機)しか飛ばせない自家用パイロットの間では、「単発機は飛ぶ前からエマー(ジェンシー)だから」というジョークが、自嘲と自戒とを込めた口調で交わされる。

 エンジンが2つある双発機は、どちらかのエンジンが故障などで動かなくなっても、残った一つのエンジンだけで飛行を継続し、着陸が可能なように設計されている(2月に台湾で起こった墜落事故は、操縦士が誤って正常な方のエンジンを止めてしまったことが原因だということが明らかになった)
 それでも、エンジンが一つ止まると、エマージェンシー(緊急事態)を宣言し、一刻も早く最寄りの空港に着陸することが要請される。

 エンジンが一つ正常に動いていて、特に危険なく飛べて降りられる飛行機でもエマージェンシーなのだから、エンジンが一つしかない飛行機は飛ぶ前から緊急事態じゃないか、というのが冒頭のジョークの趣旨だ。

 だから、パイロットは飛行前点検を怠らない。

 日常的に自家用車に乗っている人で、乗車前にオイルやら冷却液やらファンベルトやらの点検をしている人はまずいないと思うが、飛行機の場合は、チェックリストに従って、かなりの数の点検を必ず行う。

 以前乗っていたセスナ172のチェックリストを久しぶりに引っ張り出してみたところ、
  ・操縦席に落ち着くまでに50項目ほどを点検
  ・エンジンをかけるまでに20項目弱
  ・エンジンがかかってから7項目
   ○管制塔に移動許可を要請
  ・滑走路に向かいながら5項目
  ・滑走路手前で停止して20項目弱(エンジンランナップ(≒試運転)を含む)
   ○管制塔に離陸許可を要請
  ・滑走路進入前に5項目
というように、実に、のべ(=一部重複して複数回)100を超える項目について、Set, Checked, Free, Both, On, Off, Rich, Cold, Locked などと唱えながら、そして時には CLEAR ! などと恥ずかしげもなく叫びながらチェックする。

 そうまでして、何か異常があることは滅多にない。
 実際、私ですら一連のこの手続きを百数十回やっているが、何か異常があってエプロン(駐機場)に戻ったとか、あるいは離陸滑走を中止したなどということは一度もなかった。
 それでも、次回飛ぶときには、また同じ手続きを繰り返す。「まあ大丈夫だろう」などと手順をスキップすることはない。

 だって、飛ぶ前から緊急事態なんだから。
(双発や多発の飛行機でも、チェックの手を抜くことはないだろうと思います。念のため。)

 ただ、もちろん、単発だからといってほんとに「飛ぶ前からエマー」だというわけではない。

 セスナ172のような小型機でも、燃料系統・発電系統・点火プラグその他、可能なものはほとんど二重化され、自動車のエンジンのように頻繁に?止まることはないようにできている。
 一方で、機構がシンプルな分、逆に信頼性は高い。とにかく停止しにくいことを第一に設計されているのだ。
 ___

 それでも事故は起こる。

 パイパー社のマリブ・ミラージュによる今回の調布の事故でもっとも不幸だったのは、地上に巻き添えを出してしまったことだ。
 小型機が関連する事故は少なくはないが、地上の人命を奪ってしまった事故というのはちょっと記憶にない。

 報道から判断すると、何とか住宅地を避けられなかったのかという思いは残る。
 もちろん結果論だが、左旋回せずにまっすぐ飛んでいれば、中央自動車道手前の草地に不時着できた可能性も高い。そうすれば、かなりの確率でだれも死なずにすんだだろう。
 一縷の望みを託して、絶対にやってはいけないと教えられる、滑走路への帰還を試みたのか、それとも、揚力がなくなる失速を起こしてそもそも操縦不能だったのか・・・

 いずれにせよ、落下地点から計算すると、離陸から墜落までの時間はわずか30秒以下だろうから、冷静な判断の余裕もなく、墜落してしまったのかもしれない。

 気になるのは、先に移動していた飛行機を追い越して、滑走路手前でのエンジンランナップ(≒試運転)を行わずに離陸していったという点だ。追い越された飛行機のパイロット(元日本航空の機長)が詳細に証言しているので、それは間違いないだろう。
 もちろん、本来は滑走路手前でやるランナップは、エプロンで?すませていると運航情報官(都の委託職員だから「官」ではないけれど)に無線で申告しているということなので、それはその通りだと信じたい。

 いずれにせよ、何らかの判断ミス・操縦ミスがあったとしても、根本的にはエンジンの不調が原因だろう。

 現役の単発機パイロットには、「飛ぶ前からエマー」のジョークを、自戒を込めてもう一度思い出してもらいたい。
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 末筆ながら、亡くなられた方々に深く哀悼の意を表するとともに、怪我をされた方々の一刻も早いご快癒をお祈り申し上げます。

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2015.07.25

●バイク&ハイク(その3:天狗塚)

 まさかの3回目にして、やや本格的?なハイキング。天狗塚(先週は天狗「岩」です)。

 それほど高低差のない尾根筋を行くはずが、まさかの猛烈アップダウン。
 登りは壁、下りは崖である。

 いや、尾根筋には違いないのだが、地形図を見慣れていないものだから、等高線の間隔がどの程度だとどのくらいの勾配なのかがピンとこないのだ。
 かなり緩やかなのんびりした道に見えたのだけれど、周囲の谷が急すぎるだけのことだったらしい。

 今見ると、車の走る道などは、ほとんど等高線と交わることなく、並行して走っているのがよくわかる。
 それでもけっこうなアップダウンなのである。

 まったく大した距離は歩いていないのだが、個人的にはほとんど限界だった。「熱中症」とか「転倒」とか「滑落」とかいう文字が何度も脳裏をよぎる。

 バイクを駐めたところまで戻る気力がなく、帰りの半分弱はバスに乗ってしまった。何をやってるんだか・・・

 山上の気温はやはり22℃。

 風がない分、歩いていると先週よりかなり暑く感じたが、少しの間だけバイクジャケットを着ないで走ってみたら、冷えた空気が火照った体をみごとに冷やしてくれて快適だった。

 ヒグラシの声が増え、あじさいはまだ盛りを保っている。
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 それにしても、出会った20組ほどのハイカーのうち、16人(←16/20)くらいが年配の男一人。

 みんな孤独なんだなあ・・・ この暑いのに一人で山を歩いて楽しいのだろうか。

 人のことは言えないけれど。

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2015.07.24

●私たちは戦争を体験していないけれど

 鶴見俊輔が死んだ。

 朝日の朝刊は日経によるフィナンシャル・タイムズの買収がトップだったが、その横に訃報。
 夕刊は一面トップである。

 昨今の情勢の中、メディアから鶴見俊輔の声が聞こえてこないのが不思議だった。
 さすがに高齢だからかとは思っていたが、同い年の瀬戸内寂聴氏や2つ下の村山富市氏などは表に出てきている。夕刊には「5月半ばに太ももを骨折」とあるが、発信は可能だったようにも書いてある。

 細胞生物学者で歌人の永田和宏氏(ご自宅も近所だという)によると、「メッセージを頼もうと思ったが、体調を気にして声をかけなかった」(『朝日新聞』)のだそうだ。

 麗しい配慮だが残念なことだった。
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 鶴見俊輔の「起点」や「原点」などとして、よく戦争体験が語られる。ご本人の口からも、戦争への言及がしばしばなされる。実際、戦争体験は鶴見にとって思想のバックボーンとなるものだったのだろう。

 日本からは戦争体験者がどんどんいなくなってきている。その理由が死であることは悲しいことだが、諸外国では必ずしも戦争体験者が減っているわけではない点を鑑みれば、もちろん言祝ぐべきことだ。
 しかしながら、「戦争を知らない子どもたち」だった為政者が、「大人になっ」った後で「平和の歌を口ずさみながら」「歩きはじめ」ないで、むしろ、「また戦争をする方向へ舵を切ろうとしているのは、戦争を直接体験していないからだ」などと言われることを考えると、手放しに喜べないような気になってしまって複雑だ。

 実際、同じ自民党でも、何らかの戦争体験を持つ、もはや引退してしまった元重鎮たちの多くが、今回の法整備に明白に異を唱えているし、鬼籍に入ってしまった、たとえば後藤田正晴のような人物も、生きていればそれに加わっただろうと思われる。

 だが、戦争の経験を得るためには、戦争を体験することを必要としない。
 こと戦争に関してだけは、私でさえ、体験しなくてもわかる。

 「何を生意気なことを。体験していない者にあれがわかるものか」と言われれば、「すみません、おっしゃるとおりです。ご体験とはくらべものになりません。とてもわかったとは申せません」と返すしかないのだが、「自分で直接経験しなければ学べない」と、いつも自分の想像力のなさを呪っている私ですら、こと戦争に関しては、わかる気がするのだ。

 それは、幼いころから接してきた、膨大な絵本・漫画・体験記・小説・詩・歌・写真・絵画・映画・ドラマ・劇・報道・投書など、そして、数は限られているが、直接聞いた体験談の蓄積があるからである。

 もちろん、そんなものがナマの体験にかなうわけではない。
 ただ一方で、一人では到底体験しえないようなさまざまな立場を、私たちは仮想的に経験してきた。

 こないだの日本の戦争に限っても・・・

 敵と勇敢に戦ったり、命令されて無抵抗の民間人を殺したり、上官に殴られたり、マラリアにかかったり、飢えに苦しんだり、そうして死んでいった腐乱した死体の横を目を背けながら歩いたり、その挙げ句に人肉を食べて飢えをしのいだり、完全軍装で何十キロも行進したり、その時の靴が安物でついには裸足になったり、焼夷弾を落とされて家を燃やされたり、そのせいで父母や兄弟が焼け死んだり、特攻機で出撃して故障のために途中の島に不時着したり、実際に敵艦に突っ込んでいったり、そういう最期を迎えるために飛行操縦の訓練に励んだり、そんな息子を手塩にかけて育てたり、帰ってこない夫や息子を岸壁で待ったり、遺骨として白木の箱の中の石ころを受け取ったり、、原爆で体中の皮膚が垂れ下がって幽霊のように歩いたり、竹槍で爆撃機を落とす訓練をしたり、校庭を畑にして芋を栽培したり、勉強をやめて工場に行って働いたり、そこが爆撃されて逃げ惑ったり、アメリカ軍の火炎放射器で焼き殺されたり、日本兵にガマから追い出されたり、わが子を手にかけてから手榴弾で自殺したり、占領した村の食料をすべて奪って女性を強姦した上に殺したり(これは直接の目撃者から聞いた)、グラマンの機銃掃射を受けながら命拾いしたり(これは父親の体験)、疎開先でいじめられたり(これは母親)、やっと戦争が終わったら、シベリアなんかに送られて極寒と飢えの中強制労働させられたり、子どもたちは教科書に墨を塗らされたり・・・

 きりがないのでこの辺でやめよう。

 いくら想像力のない者でも、とにかく金輪際、体験したくないことだというのは容易にわかる。特に私のような、苦しみや悲しみや痛みなんかに弱く脆い者であってみれば。

 鶴見をして、「一億人の中の一人になっても」とまで言わしめた反戦への思いの「原点」となった体験そのものは、もちろん私にわかるとは言えない。

 しかし、圧倒的な量の戦争擬似体験は、私の乏しい想像力を動員するだけで、ナマの一人の体験くらいにはなるはずだ(それでも体験者から「わかるものか」と言われたら「すみません」としか言えないけれど)。

 だから、「昨今の為政者たちは戦争体験を経ていないから戦争の恐ろしさがわからないのだ」というような言説は、にわかには信じがたい。もし本当にそうだとしたら、もはや救いようがないほど愚かだとしか言いようがない。

 まさかそんなことがあるはずはない、と思うのだが。

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2015.07.20

●バイク&ハイク(その2:石の宝殿と天狗岩)

 台風が去って3日目にやっと台風一過。

 2度目が危ぶまれた「バイク&ハイク」の2回目が敢行できた。自分を褒めてやりたい(笑)
 ほとんど歩かなかったけれど。

 今日は六甲山系の「石の宝殿」と「天狗岩」。山上はやはり22℃くらいで快適だ。

Dsc07784_169 天狗岩はやや風が強かったものの、そのお蔭もあって視程は抜群、関西空港から明石大橋の主塔まで一望できる。

 先客がいて、服装から見てそうかなとは思っていたのだが、なんと下から山道を走って登ってきたとのこと。問わず語りで知った年齢は私と同じ。
 ここはともかく、下界は暑いはずだ。途中一度も休憩しなかったというのだが、私だったら歩いてでも無理な所業である。

 とても同じ人間とは思えない。

 そうこうしているうちに、初老の女性数人のパーティ。
 毎週のように山に登っているというので、すごいなあと思っていると、夏山のトレーニングのためだという。「夏山」というのはたぶん日本アルプスとかのことを指すのだろう。
 メンバーのうちの1人もトレイルランをするということで、先客とその話で盛り上がっている。

Dsc07786_169 次に来たのはMTB(マウンテンバイク≒自転車)の男。タイヤの空気を抜きはじめたので、まさかこの急な階段の尾根を下っていくのかと思っていると、とりあえず担いで降りていった。
 山道を走ってきた男が、「ここは急だし、雨で階段が崩れたりしていて危ないですよ」と言うような道なのに。

 バイクで登ってくるような軟弱な奴は私だけである。

 先客も、7年前に運動を始めたときは、歩くのもやっとだったと言っていた。
 バイク&ハイクを始めた私も、7年後には山道を走れるようになっているのだろうか。

 ありえない・・・と思いつつも、せめてハイキング程度はふつうにできるようにならなければと、また同じようなことを考えるのだった。

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2015.07.19

●105万分の1

 夜寝るのが遅かったというのに、朝7時前に起こされる。

 なんでも、就職試験のために出かけた息子が自宅最寄り駅までバスに乗っていったところ、JRが全面運休していて復旧のめども立っていないという。

 そんなことなら、試験も延期になるか、最低でも遅刻しても大丈夫だろうとは思ったものの、寝床で横になったままウェブサイトを確認すると、「本日の試験は予定どおり実施します」と書いてある。

 朝早すぎてサイトの更新が間に合っていないのかとも思ったが、「本日の」とまで言う以上、何とかして行かざるをえない。
 急遽起きだしてカフェラテを半分だけ飲み、すごすごと帰ってきた息子を乗せて車で試験会場へ向かった。

 「念のため」といってバカみたいに早く出かけていた息子の臆病さが功を奏し、無駄にバスで最寄り駅を往復してから私が車で送り届けても、余裕で間に合った。

 息子が帰宅してから聞くと、試験はまったく何ごともなかったかのようにふつうに行われたという。
 遅刻したり欠席したりした人はいなかったのかと聞くと、それなりにいたが、救済措置については特に言及がなかったとのこと。

 止まっていたのはJRだけだったということもあるのだろうが、一応は人生がかかっているんだから、若い人たちを絶望させるようなことだけはしてほしくないと思う。
 いずれにせよダメだったにしても。
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 昨日の運休は、「計105万人への影響」があり、「過去最大規模だという」(『朝日新聞』)。
 しばらくとはいえ、どうすればいいのかと途方に暮れた息子への「影響」や、安眠を妨害された私へのそれは、せいぜい105万分の1に過ぎない。

 残りの104万9999人(というほど正確な数字ではもちろんないけれど)への影響も、小さかったことを祈るばかりだ。

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2015.07.17

●金色の MacBook とクラウドコンピューティング

 納品までずいぶん長い間かかった MacBook が手に入った。iPhone に合わせて金色にしたのだが、とうとうここまで来たかというちょっとした感慨がある。

 30年前、日常的にパソコンを使い始めたころは鉄板に塗装したベージュだった。
 その後、プラスティックのブラックやグレーが主流になり、いつの日からかアルミ素材色のシルバーばかりを使ってきた。

 それがゴールド・・・ 鏡面仕上げの林檎マークは美しいけれど。
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 新しいパソコンを手に入れると、近年はそれまで使っていたメインマシンの中味を自動でコピーしてきたのだが(信じられないくらい便利だ)、今回は、アプリケーションを新規にクリーンインストールし、データも手動で移行することにした。

 メインで使っていた MacBook Air(以下 Air)は、あまりにもたくさんのアプリケーションやデータが複雑に絡み合っているので、いったんここですっきりリセットしたいと思ったのだ。

 この3連休のうち2日は予定が入っているのだが、留守の間もパソコンにせっせと働いてもらわざるをえないかと考えていた。
 ところが、火水木の夜だけでとりあえずの移行は完了し、今夜はもう特にすることがなくなった。後は折りに触れて少しずつ環境を整えていくくらいですむんじゃないかと思う。

 以前と違って、わけのわからないエラーに悩まされたり気むずかしい機械をなだめすかしたりするみたいな作業がほとんどなくなったのは、ちょっと物足りないような気がするほどだが、もちろんうれしい。

 気になるのは、新しい「バタフライ構造」と呼ばれるキーボードの、その構造はいいのだがストロークが浅すぎることと、トラックパッドが Air ほど自由自在には使いにくい(これは途中からのような気がする)ことくらい。
 キーボードにはすぐに慣れると思うし、目も綾なレティーナディスプレイと、「ここまで来たか」をさらに超えて薄く軽量になったのが素晴らしい。
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Dsc07747_800 そんなわけで、ここ数日間、MacBook Air と MacBook(以下Gold)の両方(+ちょっとだけ MacBook Pro)を使っていたのだが、それで今さらのように気づいたのが、「クラウドコンピューティング」のことである。

 データを Gold に移行した後は、常にそちらで作業をしないと整合性が面倒になる。
 だが、一気にすべてのデータを移せるわけではないので、Air を使う場面も残る。

 たとえば最初のころ、仕事のファイルは Gold で作り、移行が面倒そうだったメールは Air を使ったりしていた。

 ところが、私が好きではなく、信用もしていないクラウドベースの作業(たとえばこのブログを書くのがそうだし、facebook や twitter なんかももちろんそうである)は、どちらでもふつうにできるのである。
 データは外部のサーバにしかなく、私は一人しかいないのだから、そのデータをどちらのコンピュータから触ろうとも問題はない。
 それどころか、iPhone や iPad からでも。

 なるほど、クラウドコンピューティングってこういうことなのか(今更だけど・・・)。

 もしすべてのデータがクラウド上にあれば、手元のマシンは単なるシンクライアント(Thin Client:必要最小限の機能しか持たない端末)に近づいていき、ストーレージも処理能力もそれほど必要でなくなっていく。
 高いスペックが要求されるのは通信速度だけだ。

 「シンクライアント」などという言葉を耳にしはじめた数年前?、そんな馬鹿げたシステムは嫌だとか思っていたのだが(基本的には今もその気持ちは変わらない)、なるほど、やっぱり近い将来の姿はそこにあるんだろうなあという気は(やっと)してきた。

 何ごとも自分で具体的に経験してみないとわからない。

 相変わらずである。

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2015.07.12

●バイク&ハイク(その1:西おたふく山)

 六甲山系の西おたふく山(西お多福山)山頂(878m)へ行くことは不可能です。
 少なくとも、夏の間は。
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 西おたふく山は謎の多い山である。頂上まで登頂した人はあまりいないのではないか。

 ネットにはそれなりに情報があるものの、そもそもどこを指して西おたふく山だと言っているのかすら曖昧な場合が多いし(現在は Google Map も Yahoo! 地図も Mapion も派手に間違っている)、だいたいの場所は把握していても、「ここが頂上だ」とするもののほとんど?が誤っている(と思う)。

 今日も、通りがかったハイカーに山頂のありかを聞いたのだが、教えていただいたのは六甲無線中継所(国土交通省近畿地方建設局)の鉄塔近くであり、そこは山頂ではないはずだ。
 「行ってみたが三角点は見当たらなかった」とおっしゃっていたのだが、国土地理院の地形図に標高すら記載されていないのだから、三角点があるはずもない。

 だが、多くの方がそのあたりに山頂があると思っていらっしゃるようで、以前は「西おたふく山 867m」と記した緑の板も木に取り付けられていたようだ。
 (後記:なんと、山と渓谷社の「山と高原地図:48六甲・摩耶(2015)」も、この867m地点を西おたふく山頂としている。)

 周囲で一番高いところを山頂とするならば、実際の山頂はそこから北西に100mほど行ったところにある。そこには地形図に「西おたふく山」と記載されており、878mの表示もある(いずれにしても三角点は設置されていないようだが)。

 ところが、そこに至る道がない。
 登頂した方の記録によると、「明確な踏み跡が登っているのか確認できた」とあるのだが、今日は目を皿のようにして見ても、その入口すら見つけられなかった。

 クマザサ?に覆われて、まったくわからなくなっているのである。

 頂上からすぐそこ、標高差も距離もほんの25mほどのところには舗装道路(ただし一般車両通行不可)が走っているのだが、なにせそこから登る道がないものだから、素人にはどうしようもない。

 「藪漕ぎ」を厭わない方であれば直登も可能かとは思われるが、なにせ標高差と距離とが同じ25mだとすると、45°の斜面ということになるはずだから、簡単ではないだろう。

 上記リンク先によると、5月13日と6月10日には登っていらっしゃるようなので、その後植物が生い茂って道がわからなくなってしまうということなのだろうと思う。

 実は、この周辺は「お気に入りの場所」として以前にも何度かこのブログで取り上げたことがある。夜に肝試しに来たような気分になったのもここだ。

 だが、頭の片隅には常にあったような気がするものの、西おたふく山の頂上がいったいどこなのかは、これまで解明せずに来た。

 昨日だか、なぜかふと気になって、一度山頂を目指してみようと思ったのだが、あえなく挫折したわけである。

 本格的なハイキングをする体力はないので、すぐ近くまでバイクで行く。
 どうしようもないような暑さだったが、宝塚市の逆瀬川にかかると少し涼しくなり、山に入るころには26℃、山上では22℃程度と、湿度は高いものの快適であった。
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 あまりにも歩かない生活をしていて、趣味がバイクツーリングだドライブだ旅行だというのではあんまりなので、バイクや車で出かけていって、ちょっとだけハイキングをするというのを思いついた(というか、これまでにも何度かやっている)。

 語呂が気に入ったので、「バイク&ハイク」としてシリーズ化したい。果たして「その2」があるだろうか・・・

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2015.07.10

●「安くておいしいランチ」

 このブログのプロフィール欄にも書いているとおり、「安くておいしいランチ」を「常に探してい」る。

 最初からそう書いてるんだから、少なくとももう10年以上は探し続けていることになる。

 「おいしい」のほうはまあクリアするところもそれなりにあるのだろうが、「安くて」のほうが難しい。それに、駐車場がなければ困るので、それもまたネックになる。

 数年前までは千円の壁があって、それを超える値段は対象外だったのだが、そんなことを言っていると、もはや食べるところがなくなるので、まあ千数百円ならよしとせざるをえなくなってきた。

 そうやって、この10年で何とか見つけたのはたぶん10軒もない。やっと見つけたと思ったら閉店してしまったりということも何度かあった。

 それを思えば幸運なのだろう。先日のカツサンドの店に続き、今度は邸宅隠れ家レストラン。

 ちょっと時間があったので、例によって食べログのランキングを見ていると、たぶん7割以上がラーメン屋である。ラーメン好きの人はほんとに羨ましい。

 そんな中、きらりと光る「邸宅レストラン」という文字が・・・ しかも、なんでもない住宅地に埋もれているという。駐車場も3台。

 まあしかし、3台では空いていないだろうなあと思いつつ、他の候補も考えながらゆるりと向かうと、駐車場が先に見つかり、しかも2台空いていた。こんなことは滅多にない。幸先のいいスタートである。

 そこに車は駐めたものの、肝腎のレストランがどこにあるのかわからない。車の奥はアパートで、まさかそこが「邸宅」レストランではあるまい。
 両隣を見たり、向かいを覗き込んだり・・・

 ほとんど不審者である。

 実際、以前紹介した蕎麦の「あき津」なんかは、歩くような速度で探しながら車で前を通ってもわからなったくらいだから、見つけるのに苦労しても不思議はない。

 結局、駐車場の隣の家の長い塀をたどっていくと、小さな銘板のようなものが見つかり、その角を曲がると、意外な派手さが門前を飾っていた。

Img_1710_43 庭を通り抜けて玄関先で恐る恐る声をかけるが、だれも出てこない。思い切って中に入り、右手のドアを開けながらもう一度「こんにちは」というと、やっとお店の人が顔を出した。
 文字通り、ふつうのお宅がレストランとして使われている。

 通されたのはリビングと思しき30畳くらいの部屋。なるほど邸宅である。

Img_1711_43 まあおいしくいただけたランチが1200円。10年以上で10軒も見つかっていないことを思えば、上出来の発見で、しばしの小確幸(©村上春樹)を味わう。

 味わう能力が不足しているのが問題だけど。

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2015.07.04

●バーダー必携の iPhone アプリ

 iPhone(iOS)用アプリ開発で有名な物書堂から、『日本の野鳥(山溪ハンディ図鑑)』が出た。
 もちろん iPad でも iPad mini でも iPod touch でも使える。

 おそらく、本格的な日本の鳥類図鑑アプリとしては、現時点で唯一のものではないかと思う。

 『山溪ハンディ図鑑7 新版 日本の野鳥』(『日本鳥類目録 改訂第7版』(2012)準拠)が(おそらく)すべて収録されていて、それに加えて多くの鳥の鳴き声を聞くこともできる。

 本より軽くてかさばらず、検索は便利だし、より大きな写真を見ることもできる。
 そして、本は4536円もするのだが、アプリは2000円だった(ただし、2015年7月15日以降は3500円)。
 すでに明らかになっている誤植箇所等も訂正済みだ。

 ふだん、100円のアプリでもほとんど買わない私が、大枚2000円を払って購入し、まったく後悔していない。
 実際、山渓の図鑑(ただし旧版)はほとんど本棚に眠ったままだが、iPhoneのアプリだとなぜかよく見る気になり、すでにかなりの知識を得た(といっても私のことですからほんの少しですけど)。

 バーダー必携。お勧めです。

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2015.07.03

●新しい経験

 大した経験ではないとはいえ、それなりにさまざまな経験を重ねてくると、経験から得られる感動の量が、蓄積された経験量に比例?して減ってくることを思い知る。

 近代経済学で言うところの「限界効用逓減の法則」のようなものだ。

 同じような経験を2度3度と繰り返すうちに、そこから得られる感動はどんどん色褪せたものになっていく。
 だから、昔と同じような感動が得たければ、次々と新しいことを試みていくしかない。

 しかしながら、自らの性格や経済力、さらには社会的制約による現実味などを考慮すると、そうそう「新しいこと」があるわけではない。

 私の精一杯の趣味的経験は、海外ドライブ旅行やスクーバダイビングや軽飛行機操縦くらいがその到達点で、その先にあるかもしれない新しい何かには手を出せないまま、かつて経験したバイクツーリングなんかに回帰してしまっている。

 趣味を深めることで、その中に次々と新しい喜びを発見できる(人がいる)ことは知っているが、自分にはできそうにない。
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 何だか大袈裟な書き出しになってしまったが、ここで言いたいのは食べ物のことである。

 フレンチでもイタリアンでも和食でも寿司でも、たとえたかだか年に1〜2回しか食べないものですら、もはや新鮮な感動を得ることは至難の業になっていて、かつての経験をなぞりながら「中くらゐ」の満足を得るのがせいぜいである。

 下手をすると、「うーん、やっぱりこの程度か。何かもっとおいしいものが食べたいなあ」というような、むしろ(自分としては)大枚はたいて損をしたような気分にすらなってしまう。

 思い切ってウン万円とかいう食事をすればブレイクスルーがあるだろうことはわかるのだが、そういうのは上記種々制約から私の守備範囲を超えてしまっている。

 まあ、一番よくないのは性格だ。

 毎日の食事に日々感動を新たにしながらおいしく食べられる人もいるだろうし、それ以前に、「飢えとはまったく無縁に暮らせることに感謝してもしきれない」というような思いが食事のたびに湧いてくる人もいるかもしれない。

 とはいえ、限界効用逓減の「法則」というくらいだから、私のような凡俗の徒にあってみれば、これでふつうなんじゃないかと思わないでもない。

 ああ、またしても・・・ ここまでがどうでもいい前書き。
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 先日、千里中央(大阪の中心地梅田から地下鉄御堂筋線で北へ20分)へ行く用事があったので、お昼にどこかおいしいところはないかと食べログで検索してみた。

 案の定というか、ランキング100位までざっと目を通しても、これといっためぼしいところがなく、「何かもっとおいしいもの・・・」とかつぶやきながら虚しく iPhone の画面を見ることになった。

 ばかばかしかったのは、ランキング上位を喫茶店やラーメン屋が占めていたことである。
 どういう理屈かわからないが、おいしい店は数十位とかに貶められていたりする。どうも、安くて多くの人が行く店が上位にランクされるシステムになっているようだ。

 あ、「おいしい店を知っているならそこへ行けばいいじゃないか」とおっしゃるかもしれないが、昼から(というか夜でも)ひとりで3千円とかとても出せない。そういう制約で「何かもっとおいしいもの」とか言っているのだから、お笑いぐさであることは否定しない。

 興味を持ったのは、1位と2位がともに喫茶店であること。しかも、その両方がカツサンドを名物にしているらしいことである。
 あまり好みではないが、この際一度は経験してみようと思い、軽くレビューを流し読みして2位の店に行くことにした。

 両方とも、千里中央駅のホームを見下ろす吹き抜けになっている長大な回廊部分にあった。

 そこに何十軒もずらっと飲食店が並んでいるのは30年以上前から知っているのだが、どの店にも一度も入ったことがない。
 すぐ下を電車が行き来するということもあってか、何となく空気も悪いし、独特の臭気もうっすらと漂っている。そして、ほとんどすべての店にまとわりついているのは、どうしようもない場末感である。

 目指す店は狭い昭和の喫茶店であった。70近いと思われる女性が一人でやっていらした。カウンターに座ると後ろからタバコの煙が漂ってくる。

 気を取り直して、野菜入りカツサンドとアイスコーヒーを注文する。
 ドリップされたコーヒーがカウンター内のサーバーで保温されているのだが、「アイスだとペットボトルになるのかな?」という感じのコーヒーをすすっていると、斜め前に座った男性がざる蕎麦を1/3ほど残して席を立った。

 うーん、喫茶店でざる蕎麦、それに、このアイスコーヒー・・・

Dsc07703_85 そう思いながら待っていると、期待以上の姿をしたカツサンドができあがってきた。
 その予定はなかったのだが、許可を得て写真を撮ってからいただくことにする。

 こ、これはおいしい・・・

 ここ数年で食べたどの食べ物よりも感動した。

 その理由の大部分を占めるのは、この種の食べ物をほとんど初めて食べたことに由来するのだろう。
 効用が逓減していないのである。

 そうは思っても、いや、このおいしさはちょっと別格だ。何であれ、200を超える店舗のランキングで2位になっているというのは、やはり伊達ではないのだと思わされた。

 あんまり驚いたので、滅多にないことだが、初対面の作り手に少し話を伺った。食べ終わるころには他の客がいなくなっていたのも後押しした。
 そして、「おいしくいただきました」と心から言って店を出た。
 「またぜひいらしてください」と言われたのだが、残念なのが周囲の雰囲気とタバコの煙である。それがなければ、二度目からはどんどん感動が減っていくことを差し引いても、時々は来るだろうと思うのだが・・・

 あとで調べてみると、1位の店はタバコを吸う人がいないようなことが書いてあった。
 今度はそちらに行ってみるか。

 だがもう、その時には今回の感動は得られないことを、今から予感してしまっているのだ。

 新しい経験はほんとうに得がたい。

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