★たぶん30年ぶりのキャンプ
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肝臓ガンの手術を終えて、ICUから一般病棟に移った母親を見舞ってきた。
妙な感想だが、「死にそうだけどまあ元気」という感じだった。
中心静脈栄養を入れ、導尿している。鼻からは酸素を吸い、痛み止めもいつでも静注できるようになっている。
何だかわからない小さな袋を腰に下げているので、やってきた看護師に聞くと、まだ腹腔からのドレインを外していないということだった。
ということは、お腹に穴が空いて、内臓と外とがつながっているのである。
まだ手術の2日後なのだ。
そんな状態で、歩行訓練を始めている。
点滴のポールと酸素ボンベを従え、導尿やドレインの袋をぶらさげて、歩行器に寄りかかって歩く。
指にはパルスオキシメーター。ナースステーションまで歩いただけで酸素飽和度が91に下がり、脈拍が100になる。
大丈夫なのか?
それに、以前から不思議だったのだが、お腹を開けて内臓を切り取ったりして、傷を縫っただけですぐにくっつくものなのだろうか。手術の翌日には「歩かなければならない」といって、すぐに訓練が始まるそうなのだが、傷口が開いたりしないのか、ほんとうに不思議である。
指先をちょっと切ったくらいでも、2〜3日は傷口がふさがった感じがしないのに。
まあ、大丈夫だからやっているんだろう。もうヤマは越えたし、病院に任せておけばいいようにやってくれるはずだ。
幸い、父親はすこぶる元気である。
___
私自身はゴールデンウィークで自由の身になった。
今から海外・・・というのはちょっとアレだが、日本全国ほぼどこにでも行ける。
去年に引き続いて東北へ行こうかと思っていたのだが、桜も終わりつつあるという情報も入ってきて、それならいっそのこと、九州へと考えていた。
だがどうも、まだ震災も地震も生々しい。本気でボランティアでもするんでなければ、やっぱりやめておいたほうがいいかなあという気もする。それで、もう東北気分になっていたところへ、「九州は旅行客が激減して大打撃」みたいな記事を読んだ。
もともと、微力ながらそういう事態を補うために九州を考えていたものだから、また針が九州に振れる。東北は去年も行ったしなあ・・・ でも、太平洋側に限れば、たぶん5年ぶりになるんだけれど。
以前からどうしようか考えていたテントを、出発に間に合うように急遽アマゾンで買うと、なんと12時間後に届いた。
宿泊施設、車中泊に、テント泊という選択肢が増えて、去年今年の東北や北海道旅行よりはちょっと楽になりそうかなという気がしている。
気になるのは、ここ1か月くらい、右肩が痛むことだ。自宅で優雅に寝ていてもつらいときがあるので、テント泊や、まして狭い車中泊でよけいにおかしくならないか、ちょっと心配している。
でもまあ、好きでそういうことをするのだ。そういう生活を余儀なくされている方々のことを思えば、気楽なものである。
それともいっそ、旅先にお金を落とすために、豪華温泉旅館をハシゴとかしてみようか(無理だけど)。
うーん、まだ決まらない。この分だと、車で走り始めてから、やっと気持ちが固まりそうな気がする。
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職場のコピー機の話。
「メニュー」を押すと、「コピー」「ファクス」「スキャナ」などと並んで、「らくらくコピー」というボタンが液晶画面に表示されるのはうすうす知っていた。
「うすうす」というのは、そういうのがあってもあまり目に入っていなかったということだ(理由は後述)。
したがって、コピーをするときはいつも「コピー」ボタンを押していた。
ところが、その後のユーザーインターフェイスが悪くて、ちょっと両面コピーをするのに、最初の画面とは別のタブに切り替え、さらに奥のメニューへ・・・みたいな感じで、とても面倒だった。
別に、「なんとかそのめんどくささを回避できないか」と真剣に考えたわけではない。先日ふと、「らくらくコピー」というボタンが目に入り、気まぐれにそれを押してみた。
するとなんと! 看板に偽りなし。らくらくとコピーできるのだ。
用紙選択・拡大縮小・両面コピー・モノクロ/カラー・濃度設定などのメニューがすっきりと一枚の液晶画面にまとめられており、メニューを切り替えたり階層をたどったりすることなく、簡単に設定が完了する。
文字も大きくて見やすい。
それまでまったく利用しなかったのを後悔するくらいのものである。
だがそこで疑問が湧いてきた。どうしてこちらのボタンが「コピー」ではないのだ?
通常するようなコピーは、ほとんどこれで用が足りる。その同じことをするために、本来の「コピー」のボタンを押すと、メニューを切り替えたり階層をたどったりしなければならなくなるのである。
これは当然、「らくらくコピー」を「コピー」にして、現在の「コピー」は「マニアックコピー」とか(まあこれは冗談です)「詳細設定コピー」とかにしておくべきだ。
たぶん今後も、「らくらくコピー」で間に合わないことは数十回に1回もないのではないかと思う。
___
さて、なぜこれまで、「らくらくコピー」の存在をうすうす知りながら使う気になれなかったか。
それは、これまで目にしたその種の機能が、人を小馬鹿にしたような機械音痴向けの安易な設計で、かつ、必要な機能が使えない・・・という場合が多かったからだ。
「シンプルモード」とか「かんたんメニュー」とか「おまかせオート」とか。
今見ると、愛用のカメラにも「かんたんモード」があったが、明らかに使う気になれないシロモノであった。
そういえば、大竹しのぶがコマーシャルしていた「らくらくホン」とかいうのもあった。まあ確かに、機械に疎い老人が必要最小限使うのならそれでいいのかもしれないが、ふつうはとても使いものにならない。
「らくらくコピー」も、たとえば、名ばかりの「オート」が中心で、しかもそれを使うと失敗する・・・みたいなのを漠然と予想して避けていた。
しかし、違うのである。通常は「らくらくコピー」で必要十分なのだ。「こんなこともあるんだなあ」と、認識を新たにした。
繰り返すが、富士ゼロックスはぜひ「らくらくコピー」のほうを「コピー」にして、今の「コピー」は「詳細設定コピー」などに変更すべきである。
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樹齢?30年近い、「幸福の木」が6年ぶりに花をつけた。
6年前、それまで一房だけだった花が2房出ていたときに驚いていたのだが、今回はなんと4房。夜になると、リビングは強烈な芳香に包まれ、息子なんかはドアを開けるなり「うわっ、くっさ!」と叫んでいる。
いや、ほんとは甘い香りだし、質としてはそんなに悪くないのだが、つけすぎた香水なんかと同じで、量が問題なのだ。
初めて中古のマンションを買ったときに、不動産屋の社員が片手にぶら下げて持ってきてくれたのだが、今や3メートル以上になっている部分がある。斜め上に伸びてそこからアーチ状に垂れ下がっているので、幸い天井には届いていない(が、壁にぶつかっている)。
木の名前が名前だけに、これまでまったく切ったりはしなかったのだが、あんまり繁茂しすぎているので、まっすぐ上に伸びている2メートルくらいのだけ残して、残りは切って処分しようと考えていた矢先に、この繚乱ぶり。
まあ、最後に一花咲かせたわけだから、やっぱり予定どおり切ろうかと思っている。
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これまで、幸福の木と幸不幸との因果関係はなかった(と思う)。
滅多に花は咲かないので、咲くたびに「幸せも花開けばいいなあ」とか夢想するのだが、何かいいことがあったためしは一度もない(断言)。
でも、特に不幸というほどのこともなかったわけだから、それでいいのかもしれない。
ただ、今年はもうすぐ母親が肝臓ガンの手術を受けるので、切るのをその前にしようか後にしようかとちょっと考えてしまう。
もちろん、そんなこと、手術の成否には何の関係もないだろうし、私は基本的には神も仏も超能力もUFOもネッシーも信じない人間なのだが(でもUFOは一度だけ見たことがある ^^;)、手術日が仏滅に設定されていることを含め、何か引っかかってしまうのは、えもいわれぬものへの畏怖の感情から完全には自由でいられないということか。
もし神がいれば、熊本だってエクアドルだってシリアだって南スーダンだって・・・あんなことにはなっていないはずだ。
そう思ってはいても、何か超自然的な存在をまるっきり無視するのにはかすかな抵抗がある。
無神論者の、それが弱さなのか、と思ってみたりする。
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震度7の地震がなんと「前震」だったとわかった熊本には義弟一家が住んでいて、阪神淡路大震災と同じマグニチュード7.3の「本震」が来てから、「熊本市内は前回より強い地震」だとLINEがあった。
家は熊本城のすぐ近くで、部屋の中は滅茶苦茶になってしまった上に断水しているものの、今のところ倒壊とかそんなことにはなっていないという。
楽観的な義弟本人は自宅にとどまり、心配でとても寝ていられないという家族は近くの広い駐車場に車を駐めてその中で寝ているらしい。
二夜連続でそんな状態らしいのだが、今夜はどうしているんだろう。
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最初の地震のあと、テレビのインタビューに「まさかこんな地震が来るとは夢にも思っていなかった」と答えている年配の人がいた。
経験則としては確かにそうなんだろう。
だが、少なくとも阪神淡路大震災の後では、個人の経験則で地震を考えてはいけないことが日本に広く共有されていると思っていただけに、かなり驚いた。
まして、東日本大震災の後なのである。
報道にあるとおり、熊本でも1889年(明治22年)に大地震があったという。私の祖父母すら生まれていない時代なので、その経験を聞いている人はほとんどいないに違いない。だからこそ、「歴史から学ばなければならない」と言われるのだろう。
しかしながら、経験と歴史から学んでいても、まさか震度7の地震のすぐ後に、より大きな地震が来ると予想した人はいなかったのではないか。報道で聞くのも常に「「余震」に気をつけてください」であった。
気象庁の地震予知情報課長も、「規模の大きいM6・5の地震発生後に、さらにそれを上回る規模の本震が発生した記録など」は「存在しない」と言っている(asahi.com)。活断層型地震に限れば、実際そうであるらしい。
つまりは、今回、学ぶべき新たな歴史が生まれたということか。
(後記:歴史地震学者?の磯田道史氏によると、規模の大きい地震後にさらにそれを上回る規模の地震が発生した歴史的事実は古文書から読み解けるという。だとすると、気象庁の課長は「観測史上」について発言していたのか、それとも歴史的記録にまで思いが及んでいなかったのか、あるいはまた、観測開始以前のマグニチュードや震度は推測に過ぎないため、「記録」扱いできないと思ったのか。)
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最初の地震を「まさか」と受け止めた方々には申し訳ないが、よく知られた警句がある。
曰く、「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」。
だが、学ぶべき歴史(上の記録)すら存在しないとき、私たちはどうすればいいのか。
それはおそらく、「想像する」ことだろう。
でも、イマジネーションの翼を広げすぎると身動きが取れなくなる。
至難には違いないが、「適切に想像する」ことの大切さを改めて思わざるをえない。
そんな想像、しなくてもいい地球であり社会であればいいんだけれど、悲しいことに、それは望めないのだ。
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つい先日、肝臓ガンの母親に付き添って、専門病院を訪れた。
何より感慨深いのは、患者であふれていること。
まあ、病院だから当たり前なのだが、とにかくガンしか扱っていない病院で、他の病院から紹介された患者しか来ないため、病人はすべてガン患者なのだ。中には「疑い」的な人もいるかもしれないが、こんなところに来ている時点で、もはやほぼ確定である。
ただ、病気が病気だけに、私のように付き添いがついている人も多く、「あふれている」人の半分くらいはべつに患者でもガンでもないのだろうとは思う。
次にちょっと感動したのは、そこでは、ガンがもはやふつうの病気であること。
誰も特に悲嘆に暮れているようには見えないし、その辺に悲愴感が漂っているわけでもない。
医者の方も、「重大な疾患を扱っている感」に乏しく、「ガンを告知するという重々しさ」など微塵もない。
母親のガンは、幸いにも原発性で、小さいのが一つだけなのだが、「肝臓に予備能(≒余力)がないと、手術で1%切除しただけでも死んでしまうことがあります」とか、「肝臓ガンは特殊で、手術しても再発の可能性が60%くらいあります」とか、「再発しなくても肝硬変で亡くなったりすることもあります」などと平気で言う。
たまたま、私より年上の偉い医者に診ていただいたのだが、意外なほど丁寧で親切な感じだった。診察が終わって待合に戻り、開口一番出た言葉が、「いい先生でよかったなあ」である。そんな医者でも、ガン患者と家族を前にして、淡々と再発や死を口にする。
まあ、事実だから仕方ないんだろうけれど。
___
ガンを日常のものとして扱っている医療関係者はともかく、患者や家族の心中は実際のところどうなんだろう?
もちろん、80になる母親が単純なガンだといういい年をした息子と、40の父親が手に負えないガンだという思春期の娘とでは雲泥の差があるだろう。
しかも、それぞれに、年齢やら病状やら生活やらに還元できない、さまざまな関係性があるはずだ。
アメリカの医療ドラマを見るのが好きなのだが、そこにはよく、The patient died on the table. というような台詞が出てくる。「患者は手術台の上で(=手術中に)死んだ」という意味だ。
さすがに母親には言わないが、たとえば家人には、「died on the table みたいなのが一番ええかもしれへんで(いいかもしれないよ)」みたいなことを言ってみたりする。それなりに本気だ。
でも、不要品処分のような品々を持たされた帰りの車の中で、「なんだか早めの形見分けみたいだなあ」と思いながら、たとえば、中島みゆき や さだまさし が「いのち」や「愛」について歌っているのを聞いていたりすると、あるいはまた、何かの拍子に桜の花びらが車に降りかかってきたりすると、不意に目の前がぼやけてくる。
それは、母親の病気や、死の可能性のことを思ってというよりは、何ともいわくいいがたい、すべてを含んだもろもろの全体的な状況のせいのように感じられた。
その「状況」には、たとえばシリア難民さえ含まれている。
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花見に一度も行かないうちに春の嵐、大雨と風が桜を散らしてしまっているだろうことを思いながら、室内に籠もってごちゃごちゃやっている。
さて、それとは別に。
いわゆる「ふるさと納税」というのは、「2000円を超える寄付を行ったときに住民税のおよそ2割程度が還付・控除される制度」である。
もっと平たくざっと言うと、「自分が負担する住民税の2割までは任意の自治体に納めることができる制度」だ。
それだけなら「地方間格差や過疎などによる税収の減少に悩む自治体に対しての格差是正を推進するため」に役立つような気もする。
ただ、「お礼の品・特典」が過熱しすぎて自治体や地方経済を振り回し、疲弊させたりしている。
また、たとえば財政難に悩む東京都世田谷区から莫大な税収が流出したりすることも問題になっている。
さらに、「高額納税者(≒金持ち)ほどトクをする」という構造がある。
上記の通り、2000円以上の負担なくふるさと納税できるのは住民税の2割程度なので、一般に高所得者ほどその額は大きい。たとえば、単身の給与所得者で考えると、おおよそ
年収 ふるさと納税上限額
300万円 2万8000円
600万円 7万8000円
900万円 15万3000円
1500万円 37万5000円
2000万円 54万5000円
3000万円 102万6000円
1億円 430万5000円
といった感じになるらしい。
そして問題は、この右側の金額に比例する形で「お礼の品・特典」を受け取れるということである。つまり、その「お礼の品・特典」分が、実質的な減税となるのだ。
高収入で生活に余裕のある層ほど恩恵が大きい、絵に描いたような逆進性である。
そして、「ふるさと納税バブル」が起こり、多くの寄付を集めている自治体では、「お礼の品」が足りなくなり、米や肉や魚などを市場価格の2倍以上で買い上げたりしているという(『朝日新聞』)。
思うように寄付の集まらない自治体も、この「降りることのできないゲームを強いられ」(天声人語)続けている。
そして何より、全国の納税額全体で見れば、「お礼の品・特典」の分だけ税収減になり、この制度にまつわる人的コストも膨大なものになる。
これだけ税収が足りない足りないと騒がれているというのに。
こんな愚かな制度を考案して実行に移したのはいったい誰なんだろう?
(参考サイト:ふるさとチョイス)
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年度も替わっていつの間にか桜も満開、今日は近所でツバメを初めて見た。去年設置した台に巣を作ってくれることを期待しているのだが・・・
さて、それとは別に。
朝日新聞の天声人語がいわゆる「ふるさと納税」制度の過熱を憂うような論調のエッセイを書いていたので、気になってちょっとネットで調べてみた。
制度については知っているつもりだったし、実際、自分の知識は間違っていなかったのだが、いやあ、確かに、こんなすごいことになっているとは知らなかった。
何だか面倒くさそうで今までまったく無視していたのだが、いろんな意味で、ものすごい制度である。
まず
1.「日本で唯一の税金の使い道指定ができる制度です」
なるほど。これは麗しい殺し文句である。
2.「複数の自治体」「に寄附を通じて支援できます」
そして何より(笑)
3.「お礼の品・特典がもらえるんです」
この3番目の過熱・濫用を天声人語氏は憂えていたわけだが、こんな制度を作ればこうなることは明らかだったはずだ。
「お礼の品・特典」を禁止しない限り、地方自治体がこの「降りることのできないゲームを強いられ」(天声人語)る状態は続くだろう。
寄付という「未来に向けた投資とは」「少なくとも百貨店で商品を物色するような態度からは出てこない」(同)と説教を垂れるのだが、制度設計そのものが、「何かトクをしよう」という人間のサガに基づいているのである。
そしてそれは、現代人類社会のほとんどが拠って立つ、資本主義と根は一つだ。
幸いなのはというべきか、「トクをする」ためには、いったん先払いする形になることと、確定申告が面倒だということとが壁になっている。
そのせいか、全国トップの自治体でも、集めた寄付はせいぜい年に10億あまりだということだ(後記:2015年分は最高35億に膨れあがっているそうです)。
現状では、ごく一部の人たちの「マイブーム」で終わっているのだろう。
しかし、確定申告の壁は2015年の制度変更により半分以上取り除かれている。
もっと使いやすく簡単な制度になったら、数字はすぐに10倍100倍に増えそうである。
___
お説教を垂れられた後なのでちょっと憚られるが、この制度を利用すると、実質年間2000円(にせん円です、念のため)の負担で、たとえば
牛肉・豚肉・米・ホタテ貝・カニ・エビ・サクランボ・モモ・マンゴー・コーヒー・ケーキ・宿泊券
など(ほとんど何でもあって選び放題)が「ぜんぶ」もらえるのだ(上限は自身の納税額に依存する)。
こんな制度があれば、「もらえるものはもらっておこう」と考えるのはむしろ当然だろう。
これまで8年もの間、これだけの「もらえたはずのもの」(×8回)をもらっていないことに、むしろびっくりしてしまう。
ほとんど唯一の壁は、まだまだ面倒くさいこと。
だが、そのめんどくささを極限まで減らすサイトも既にあるし、サラリーマンの確定申告も国税庁のサイトを利用すればウソみたいに簡単になっている。
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ふるさと納税、皆さんは利用していますか。まだだとすれば、今後利用しますか。
自分の所得等でいくらまでなら2000円の負担で済むか、その数字も上記サイトで簡単に計算できます。
でも、結局一番儲けているのはそういうサイトの運営者だというのはなんだかイヤですね。何か制度ができたり変わったりするたびに「ビジネスチャンス」だと飛びつく精神こそ、とても貧しい気がします。
忘れられないのは、その昔、ソムリエの資格まで持っていた西洋料理店主が、介護保険制度の導入とともに、いち早く店をやめ、介護施設に衣替えしたことです。
若かった私には、いったい何のことなのかわからなかった思い出がありますが、あの変わり身の早さこそが、資本家の鑑なのでしょう。
それに比べれば、ふるさと納税をしてお礼の品や特典をもらうくらいの庶民のささやかな楽しみに説教されたくないという気もします。
でも、もしやるとすると、「日本で唯一」「税金の使い道指定ができる制度」なんだと、自分に言い訳をしながらになるかもしれません・・・
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