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2016.06.29

◆セラミックのボカリナ

 以前にも書いたが、音楽にはほとんど縁がない。

 No Music, No Life. みたいな人も多い中、私は聞く方すら趣味とも言えないレベルだし、演奏の方はまったくダメである。

 小学生の時にはなぜか(ほんとになぜなんだかわからない)「器楽部」というのに所属していて、音階を奏でる楽器がぜんぜんできないものだから、ティンパニーを叩いたりシンバルを鳴らしたりしていた。
 それくらいなら私にも何とかなったのである(ティンパニー奏者・シンバル奏者の皆さま、申し訳ありません)。

 中学校3年の時だったと思うが、友人の影響でフォークギターなんかも買った。
 Fコードはたぶん何とかクリアした程度だったが、友人の一人が、当時の私から見ると天才とか名人とか呼ぶしかないようなクラシックギター奏者であり、また別の一人は、プロみたいにフォークソングを弾き、歌っていて、私自身は早々に挫折した。

 ろくに練習もせずに、彼我の違いを思い知らされた気になっていたのだ。
 まあだいたい、私は何をやっても続かない。
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 その時代からはるかに飛ぶが、今、リビングの隅にはただの一度も!人の手によってまともな音楽を奏でたことのない電子ピアノが鎮座して20年近くなる。
 息子が興味を示すかと思ったのだが、家族のだれも習いすらしないまま、ほとんどそこにあるだけのオブジェと化している。

 そんな私がかろうじて人並みに鳴らすことができるかもしれないのがリコーダーだ。

 小中学校の音楽の時間に否応なく吹かされたせいもあるだろうが、リコーダーなら、楽譜なんか見なくても、知っている曲はだいたい吹ける。
 それがふつうだと思っていたのだが、できない人も多いみたいなので、ひょっとしたらちょっと才能があるのかもしれない(笑)

 だが、いい年をした男が、リコーダーでは格好がつかない。

 いや、人前で演奏することなんかないのだから、もちろん格好なんかつかなくていいのだが、なぜかそういうふうに考えてしまうのである。
 たぶん、ギターのうまかった友人たちが女の子にもてているような気がして羨ましかったのがトラウマになっているのだろう。
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 バーディングの先輩に音楽好きな方々がいて、そのうちのお一人がオカリナの先生なんかをやっていらっしゃる。
 数年前、そのご縁で、オカリナを購入して吹いたりしてみた。オカリナなら、ちょっと格好がつくんじゃないかと思ったのである ^^;

 しかも、リコーダーに近いので、特に練習というほどのことはしなくても、知っている曲ならそれなりに吹けてしまう。
 もちろん、ひと様に聞かせられるようなレベルではないのだが、向上心というものを持ち合わせていないものだから、なんだかすぐに飽きてしまった。
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 今度もそうなると思う。でも、今度はちょっと違うような気もする。

 同じ先輩から、鼻笛(ノーズフルート)というものも教えていただいた。鼻から出した空気を口で共鳴させて演奏する、口笛が大きな音で出るような楽器だ。
 音階も、口笛と同じように、口の大きさや形、舌の位置なんかで作る。

 オカリナと前後して、まず木でできたのを買い、次いでプラスティックのを(当時は日本で手に入らなかったので)アメリカの eBay で購入した。

 木製のは、まろやかな低音が出たりして音色は好みなのだが、たぶん構造上の欠点があって、息の利用効率が悪く、息継ぎが大変すぎた。
 それで次に、プラスティックの(「ボカリナ」という登録商標で呼ばれている)を買ったのだが、こちらは音が気に入らなかった。

 というわけで、いつものようにお蔵入りになって数年経つ。

 そんな中、懲りもせずにまた音楽の虫が騒ぎ出し、今度はセラミックのボカリナ(第2世代)を購入した。

 今日来たばかりなのだが、こいつは木製やプラスティック製の欠点を克服したような製品で、息も苦しくならないし、音色も悪くない。

 知っている曲ならすぐに演奏できるのは口笛と同じで、リコーダーやオカリナよりもはるかに楽である。

 もちろん、上手に吹けるわけではないが、これならちょっと練習しようかという気も湧いてくる。

 さて、また同じ轍を踏んですぐにタンスの肥やしとなるか、それとも少しは上達するのか。

 いずれにしても、「鼻笛」では「格好がつかない」んだけれど・・・

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2016.06.22

◆最後のフィルム

 なぜかというか、なんとなくというか、長い間机の引き出しの中で眠っていた撮影済みのフィルムがあったのだが、それを現像に出した。今日出したこと自体も、なぜかというか、なんとなくというか・・・

 フジカラーの36枚撮り。

 10年前が2006年だから、ちょうどそれくらいに撮影したものだと思う。

 長期間放置していたのだが、ダメージは受けていないだろうか。
 戻ってきたら、何枚かをここで公表することにしよう。

 何が飛び出すか、ちょっとタイムカプセル的な楽しみがある。

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2016.06.21

◆向かいは何をする人ぞ

 先日、向かいのお宅の車のスモールライトがついたままになっているのに気づいたので、お知らせすることにした。

 とはいえ、もう着替えて(というより脱いで)しまっていたので、改めて服を着直して出るのも億劫になり、電話番号がわからないものかと、ネットで調べてみた。
 すると、フルネームと住所付きですぐにばっちり見つかったので、「向かいの車のライトがついたままになってるから、電話するわ」と家人に言うと、ご近所なのにそんなことで電話するのはヘンだと言われ、結局、家人が伝えに行った。

 翌日、私も、恐縮するくらい感謝された。
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 今の家に越してきてからもう20年近くになる。にもかかわらず、近所の方々のことなど、ほとんど何も知らない。

 両隣とは、もらい物のおすそ分けなどを人なみにはしているが、たとえば職業も知らないし、下の名前すらわからない。

 向かいのご夫婦とは頻繁に挨拶を交わすものの、それ以上の会話や交際はない。

 今回の件で驚いたのは、お向かいに関しては名字すら間違って認識していたことだ。
 表札の漢字を勝手に読んで、「○△□さんのとこに、またジョウビタキが来てるわ」などと夫婦で会話していたのだが、その読み方は間違っていて、実は○△◇▽さんだったのである。

 家人など、向かいのお葬式にまで出席しているのに、名字も把握していなかったことになる。もっとも、亡くなったのは奥さんのお母さんで、その名字はきちんとわかってはいたのだが。

 お向かいの電話番号も、初めて知った。両隣の電話番号はまだ知らない。

 そして、もう一つの驚きは、向かいのご主人が全国紙の編集委員や系列誌の編集長などをなさっていたことである。
 うちが越してきたのは、新聞社を退職され、大学教授なんかをなさっていたころらしい。

 今は悠々自適のようだが、特に気にもとめていなかった「向かいのご主人」が、そんな経歴の持ち主だとは考えもしなかった。

 隣のご主人は、いったい何をしている人なのだろう?
(奥さんの方は基本的に主婦だということがわかっている。)

 このネット時代、案外、調べてみれば簡単にわかるかもしれない。
 CIAのスパイだったりして。あ、だとすると、それはさすがにわからないか・・・

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2016.06.16

◆魔の第3水曜日

 昨日の水曜日。

 さてお昼に何を食べようとなって、つらつら考えた末、思い切って行ったことのないイタリアンを選んだ。

 ランチの値段を見ると、ふつうは行かないような店なのだが、火曜日は うどん ですませたし、まあちょっと思い切ってという感じだった。

 駐車場が少ないのが気になっていたが、少し遅めの時間だし、空いている可能性もあるだろう、もしダメだったらそのまま通り過ぎてコンビニおにぎりでもいいや、どうせ移動の途中だし・・・とか考えながら向かう。

 一度前を通り過ぎてしまって少し先でUターン。店の前の駐車場は空いていた。

 ラッキーと思ったのも束の間、どうも様子がおかしい。営業していないようなのだ。まだ13時30分にもなっていないのに。

 さっき調べて休みは火曜日だと思い込んでいたのだが、後できちんと調べると、水曜日も第3だけは休みなのだった・・・

 第3水曜日。

 そういえば、この同じパターンで「なんで今日だけ休みやねん、せっかく来たのに」ということがこれまでに2〜3度あった。

 未だに学習していない。お昼は結局コンビニおにぎりになった。

 同じ失敗を繰り返さないために「魔の第3水曜日」を胸に刻むべくこれを記す。

 どうでもいい話ですみません。

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2016.06.11

◆ちょっと見直した Windows

 巷では、Windows が勝手に 10 に更新したがっていて、「それを避ける方法がわからない」「気がつけば 10 になってしまっている」「お蔭で不具合が出た・・・」と不評のようだ。

 個人的に一番ウケたのは、10 への更新を「今すぐ」と「今夜」のどちらか選べというダイアログが出てくるという話。
 「いや、そもそも 10 にしたくないんだよ!」という怨嗟の声がネットに溢れている。
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 私がパソコンを使い始めたのは、NEC の N88-Basic の時代である。その後 MS-DOS になり、ちょうど Windows 95 が出るころに、仕事の関係で Mac を使わざるをえなくなった。

 以来今まで、メインマシンは常に Mac になっている。

 その仕事による年収のおそらく半分以上は自腹で買った Mac 代に消えたが、素晴らしいきっかけを与えていただいたと今でも感謝している。

 もしあの仕事を紹介していただかなければ、これまでずっと、Windows 95, 98, 2000, XP, Vista, 7, 8 と悪夢に悩まされ続けてきたかもしれないことを思うと、ちょうど Windows が普及し始めたタイミングで MS-DOS から Mac に移行したのは、紛れもない僥倖だった。

 いや、食わず嫌いではない。上に挙げた Windows OS を私はすべて経験している。Windows でしかできないこともいくつかあるので、7までは Windows マシンもそれほど途切れることなく使ってきた。
 その上で、Mac だっていろいろアレだったけれど、Windows にはいくら何でもアレなことが多すぎると思うのである。

 まあ、Mac 使いが Windows の悪口を言うと嫌われるので、これくらいにしておこう。
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 父親がパソコンを新しくしたいというので、仕方なく Windows 10 のパソコンを購入した。

 今日まで使っていたのは XP で、私から見れば父親の用途くらいならまだ十分に使えると思うのだが、まあ確かにもう10年以上前の機械だし、「XPはもうサポートしてないからね、何があっても知らんからね」みたいなポップアップが気になって仕方がないというので、適当なのを見繕った。

 これを機会に Mac を・・・と思わないでもなかったが、80代の老人にまったく別のパソコンをあてがっても混乱するだけだろうという気もしたし、Windows 10 のノートパソコンなら、そこそこ使えそうなのがたった4万円!で買えるので、結局それにすることにした。

 それで、セットアップなどのために Windows 10 と付き合うことになったのだが、それなりによくできていて感心した。
 「なんかまた、いろいろ面倒なことが起こるんだろうなあ」という予感はみごとに外れ、まったくといっていいほど何ごとも起こらず、拍子抜けするくらいであった。

 驚いたのは、10年もののプリンタを繫いだのに、ドライバのインストールすら必要なく、すぐに正しく認識されて印刷できたこと。
 無線LANはパスワードを入れるだけ、有線LANもケーブルを繫ぐだけ。

 「ああ、これこそがキカイのあるべき姿だよなあ」と、この30年以上の来し方を振り返ってちょっとセンチメンタルになってしまう。

 他社のアプリケーションを入れると台なしになるけれど、デスクトップや画面のデザインもかなり洗練されている。
 設定画面もわかりやすくすっきりとしていて、ユーザフレンドリーに見える。

 「え、まさかいまだに !?」のギザギザ文字も解消し、見やすいフォントになっている。

 まあ、一皮むくと、Windows 95 から変わっていないようなデザインで訳のわからない設定項目がずらりと並ぶのは相変わらずなのだが、たぶん、ライトユーザが使う分には、あれに付き合う必要はほとんどないのだろう。

 (それにしても、そこそこパソコンやネットに詳しいつもりの私が見ても何のことかわからないような設定項目が死ぬほどてんこ盛りなのは、いったい何のためなんだろう?)
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 いやー、しかし、この素晴らしいパソコンが4万円・・・

 だからいつまでも不況が続くのかとは思うものの、とうとうここまで来たかと感慨深い。

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2016.06.09

◆フィービ・スネツィンジャー生誕85周年

 バーダー(鳥を見るのを趣味とする人)が少し本気になると、自分がそれまでに見た鳥の種類を数え始める。その種名のリストを Life List と言う。

 私なんかはぜんぜん本気ではないのだが、データを整理するのは趣味みたいなものなので、一応数えている。

 ざっと200種。

 外国で見た鳥を入れるともう少し多くなるが、おそらく250には達しない。

 珍鳥を求めて遠征するなど、ある程度本気にならなければ、死ぬまでに300を超えることすらたぶん難しいだろう。
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 今日の Google のロゴがフィービ・スネツィンジャー(Phoebe Snetsinger)の生誕85周年を記念したものになっていてびっくりした。

 1981年、50歳くらいの時に、悪性腫瘍で余命1年の宣告を受け、療養する代わりにアラスカに旅行して鳥見なんかをしていたら、帰ってきたときには寛解(≒治癒)していたというエピソードの持ち主だ。

 よくは知らないのだが、そのころまではまだ、バーディング(≒バードウォッチング)に関して、大したことはなかったらしい。まあ、私とは比べものにならないだろうけれど。

 ところが、それから彼女の Birding on Borrowed Time(『おまけの人生のバーディング』=著書の題名)が始まった。

 1995年には世界で初めて!8000種を超える鳥を観察した人物となり、1999年、マダガスカルを旅行中に交通事故で死ぬまでに8400種ほどの鳥を見たという。

 手元の図鑑によると、世界の鳥の種数は1万弱なので、そのほとんどを見たことになろう。

 50歳から68歳で死ぬまでのたった20年足らずでそれが可能だというのなら、私にだって絶対に無理ということはないかもしれない。

 まあ、比較するつもりもないし、実際は絶対に無理なんだけど。

 ともあれ、Google のロゴにこんな人物が取り上げられたのはめでたい。今日は世界中?の人が、鳥を見るということについて少しは関心を持ったのではないだろうか。

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2016.06.08

◆画竜点睛を欠く

 ・・・というほどのモンダイではないんだけれど。
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 いつも買い物に行くスーパーというのが決まっていない。
 いくつか理由はあるのだが、そのうちの一つは、うちが定期的に購入する商品を揃えているスーパーがないことである。

 ワイン(料理用です)や七味や山椒や中華調味料、それにコーヒー豆や冷凍うどんやパスタなど、いつも買っているのがあるのだが、それが一箇所では揃わないのだ。

 他の理由もあるからまあいいんだけれど、たとえば「山椒がなくなったからあのスーパーに行かなければ・・・」というのは、ちょっと情けない。

 そんな中、最近、比較的近所に新しいスーパーができた。

 先日偵察してきたところ、いつも買うものがだいたい揃っている感じで、ちょっと嬉しかった。

 今日は初めてきちんとした?買い物に行った。
 「香辛料の棚が少し寂しいのを除けばここでほとんど事足りるなあ」と思っていると、近くに別の島陳列があって、そこには近所のすべてのスーパーを凌駕する香辛料が揃えられていた。

 「おお、これでうちがふだん買うものはみんな揃うじゃないか」と喜んでいたところ、買い物の最後になって、いつもの冷凍うどんがないことがわかった。これはかなり重要な欠点だ。

 がっかり。

 でもまあ、このスーパーの前に開店した別のスーパーも、最初は置いていなかったその うどん を最近は置くようになっている。
 しばらく待っても置いてくれる気配がなかったら、要望でも出してみようかと思う。

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2016.06.06

◆ちょっと、これはあかん・・・

 いわゆる五十肩で苦しんでいる。

 5年前に左をやり、今度は右。天災?はやはり、忘れたころにやってくる。

 前回は、初めてということもあり、最初は何が起こっているのかわからず、いっこうに軽快しないでむしろ悪くなる感じだったので、整形外科で診察を受け、その後マッサージに通ったりした。

 その後もよくなる気配が見えず、年配の方とそういう話ができそうな雰囲気になると、片っ端から経験を聞いてみた(とはいっても、私の狭い交友範囲のこと、二桁には達していないかもしれない)。

 その結果、以下の2つのことがわかった。

1.ほとんどの年配者が五十肩(四十肩)を経験している。
2.何をしても治らないが、1年ほど経てば自然に治る。

 なんということだ。それほどありふれた病気で、かなり辛いにもかかわらず、明確な治療法が存在しないのである。

 実際、服の脱ぎ着も困難な月日を1年あまり経ると、いつの間にか治っていた。
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 今回も、日常のありふれた動作ができず、できるつもりで何の気なしに腕を動かすと、叫びたくなるほどの激痛が走ったりするので、当初は難儀した。
 でもまあ、二度目でもあり、どうすればできるだけ痛みやだるさを抑えられるかは早々に体得し、こんな調子でだましだまししんどい1年を過ごすしかないかと諦観していた。

 ぎっくり腰や五十肩など、この手の疾患の治療に西洋医学は無力だ。

 また、私は基本的に、鍼灸・指圧・マッサージ等をそれほど信用していない。それに、少なくとも五十肩(四十肩)には効かないことは多くの先達が証言している。
 いや、効くこともあるのかもしれないが、きちんとした技術を持った人に当たることは稀であろうし、効果があるかないかわからないものに短くない時間と安くないお金を割くことにはかなりの抵抗がある。

 「気持ちいい」という人がいるが、これまで何度かカイロプラクティックやマッサージや指圧などをしてもらった中で、そんな経験は一度もない。

 ところが・・・

 いろんな偶然やきっかけが重なり、今回は、以前から気になっていた整体治療院に通ってみることにした。最後は、Webで見た院長(といっても一人でやっている)の変わった経歴と信頼できそうな顔が背中を押した。

 初回の施術を終え(初診料含め1万円!)、やはり気持ちいいとかいうことはなかったが、いろいろ話をしながら1時間半近く全身を丁寧に診てもらった結果、少し続けてみようと思った。
 その後、右肩に劇的な変化はないものの、自律神経系を含めた体の状態も少しよくなった気もした。自己暗示のようなものも手伝っているのかもしれない。

 だが、問題は2回目の施術後にやってきた。

 右肩は確かに少しよくなったような気がするものの、首が痛くてどうしようもない。じっと座って動かさなければいいのだが、そこから立ち上がるだけで痛みが走り、ほとんど体を動かせない。

 ちょっとこれは、いくら何でも、もうあかん・・・という感じの状態である。

 次の予約は一週間後なのだが、施術のせいでこうなった首の痛みを今すぐにでもなんとかしてくれと再訪すると、どうなるのだろう。

 いや、これは困った・・・と思いながら、まあ週末でもあることだし、一日二日様子を見ようと思って、この週末はまったく無為に(それだけだといつもとあまり変わらないんだけれど、苦しみながら無為に)過ごしてしまった。
 幸い、日曜の夜には座ったり立ったりするのにそれほど支障がないくらいには痛みも治まってきたので、次回の通院まで待つことにした。

 でも、今度行ったときになんて言おう? 珍しくこういうものを信用して通おうと決めた途端にこんな目に遭うなんて・・・

 これは、「もうやめなさい」という啓示なのだろうか、それとも、何か他に意味があるのだろうか。

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2016.06.05

◆敵の敵は味方?

 「イスラム国」が自らの首都としているシリア北部のラッカに、アサド政権軍が南西部から進軍しているという。

 アサド氏がどういう人物であれ、アサド政権がどういう政権であれ、そしてまた、そこで戦闘が起こって死傷者が出ることを想像してすら、これがいいニュースに聞こえてしまう。

 だが、クルド人などで構成するシリア民主軍が既に北方からラッカに向けて進撃しており、今回の進軍はクルド人中心の組織がラッカを制圧してしまうことを避けるためであろう、というのを聞くと、もはややるせなさしか感じられない。

 「イスラム国」を撃破するまでは「敵の敵は味方」なのだろうが、共通の敵がいなくなってしまえば、また敵同士に逆戻りするしかないのか。

We must change our mind-set about war itself.
And perhaps, above all, we must reimagine our connection to one another as members of one human race.
(Barack Obama)

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