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2017.09.30

■歳月 ──としつき

 19年乗った、家人愛用の軽自動車。

 故障もなく長い間働いてくれたのだが、車検の見積もりを取ると、寄る年波には勝てず、さすがにそろそろちょっと・・・という話だったので、車検が切れないうちにと、急遽新しい車を買うことになった。こんなこともあろうかと以前からぼちぼち考えていたので、別のメーカーの車だが、あっという間に注文してしまった。
 車の下取り額は100円。価値がないことはわかっていたけれど、わざわざ査定して、そのために待たされたのは何だったのかと思う。

 驚いたのは店長の若さである。「子ども店長」か !? とツッコみたくなるような風貌で、たまらず年齢を聞くと、「30になりました」という返事。
 まだ店長経験3か月だということだが、40代半ばの前の店長が異動し、一番年上の「男」(とはっきり言った)が自分だったとのこと。早い出世を言祝いだが、比較的ブラックな業界で、人の出入りが激しいのかもしれない。

 担当セールスは(たぶん)二十歳そこそこの女の子。もしかすると、家人の車の方が「年上」の可能性すらある。今年入社したばかりで、今月からやっと自分で車を売り始めたという。名刺には初心者マークがついている。今日注文した車が初めて売った車だとよかったのだが、残念ながらそうではなかった。

 注文書説明の際は、念のためにと先輩社員が同席するのだが、せいぜい20代半ば。まあ、店長が30だというのだから当然かもしれない。

 こんな店で大丈夫なのか・・・とも思うのだが、周囲が若く、下手をすると子どもに見えるというのは、間違いなく「相対性理論」である。

 「えっ? 高校野球で甲子園に出てる選手って年下?」と驚いたのが懐かしい。今や、プロ野球12球団の監督ですら、もしかすると全員年下かもしれない。

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2017.09.27

■鋭い/鈍い 味覚と嗅覚

 息子が帰宅してリビングに入ってくるなり、「なんかバターくさい」という。

 夕食はカレーである。バターなんか一切使っていない。
 カレーを食べると「やっぱりバターの味がする」と言う。家人にはわからないらしい。

 「いつもと同じように作ったよ。もしかして、バター入れた?」と家人。後半は私に聞いている。

 「入れるわけないやろ」と息子と私が同時に言う。
 私は料理のバター味が嫌いなのである。息子もきちんと把握していることを、家人は気にしていない。料理担当なのに。

 作業が途中だったので若干夕食に出遅れた私がカレーを食べる。なるほどバターくさい。

 匂いに関してはそれほど感じなかったのだが、食べれば歴然としている。家人はどちらもわからないという。

 いつもと同じように作ったというなら、メーカーがルーを変更したとしか考えられない。うちはずっと、S&Bのフォン・ド・ボー ディナーカレーを使っている。パッケージを見ると、確かに原材料の中にバターも入っている。
 だが、古いパッケージがないので、前は入っていなかったのかどうかがわからない。

 ウェブで調べると、なんと今年、「ディナーカレーの魅力である「フォン・ド・ボー」「ソテー・ド・オニオン」「バター」の特徴を深化」したという記載。7年ぶりの変更だ。
 私と息子はそれを感じ取ったのである。

 こういう定番商品でも製品開発の努力は継続しているんだなあと、ちょっと感心する。
 せっかく変えても、たとえばバター嫌いが離れていく危険もあるし、なかなか難しいと思うんだけれど。

 幸い、息子も私も、だから今後はやめようとは思わなかった。息子はどちらにしてもこの手のカレーが好きではないし、私もこのくらいならバターの風味も悪くないと思える。

 問題は・・・

 家人の嗅覚と味覚がわれわれより鈍いことである。料理担当なのに。

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2017.09.26

■ iPhone 7 の強制終了方法

 備忘録です。

 iOS 11 にしてから、初めてiPhoneのホーム画面がフリーズしました。アプリも立ち上がりませんし、隣の画面にスワイプすらできません。

 無駄に Siri が機能したり、ロックと復帰だけできたり、Notification Center が表示されたりはします。

 でも、相変わらずホーム画面はまったく無反応。

 電源も切れず、強制終了をしようと思ってスリープボタンとホームボタンを長押しするも、反応なし。

 ここまで来ると、さすがにちょっと焦ります。LINE には新着メッセージのバッジ。滅多にない予定が入っているので重要な連絡かも・・・
 ___

 検索の結果、 iPhone 7 から強制終了の方法が変わっていることを教えられました。そういえば、かすかにそんな記憶があるような・・・

 ホームボタンが物理ボタンではなくなったので、ソフトウェア的な不具合があるときに機能しなくなることを考え、強制終了には使わなくなっていたのでした。一応、ちゃんと考えているんですね。クリック感があったせいもあり、思いつきませんでした。

  iPhone 7/ iPhone 7 Plus の強制終了の方法は、
・右側面上の「スリープボタン」と
・左側面上の下の方「音量下げボタン」の
同時長押し

です。

 あっさり強制終了して再起動、とりあえず解決ですが、また起こりそうでなんかコワイ。

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2017.09.21

■ iOS 11 に

 なんとなく手持ち無沙汰な時間があったので、 iPhone 7 Plus の iOS を 11 にアップデートした。

 いつもならこういうメジャーアップデートはしばらく待って、不具合対策に目途がついたあたりでやるのだが、まあ何かあってもいいやという感じ。

 ものの10分か15分ほどで完了し、特に不具合もなし。
(ただ、盛んに言われているように、32bit のアプリが使えなくなるのでご注意。iEijiro(抜群の語彙量を誇る英和和英辞典)が使えなくなったのは痛い。)

 今までほとんど使っていなかったコントロールセンターが便利で、これからは使いそうな気がする。

 これでますます、 iPhone 8 や X を買う理由はなくなった。

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2017.09.19

■ iPhone が気にならない9月

 iPhone が10周年だとかで、iPhone X(テン)が発売される。それとは別に、7の後継機の iPhone 8 も(どうして 7s じゃないんだろう)。

 iPhone X の方はけっこう力の入った新製品だが、ほとんど気にならない。

 思えば、実際に買う前から、毎年9月は iPhone が気になる季節だった。

 最初に買ったのは iPhone 5(2012)で、半年ほど後に息子も5を買い、その後も6、6s、7と買ってきた。個人的には、iPhone 5周年ということになる。
 私は 5→6→7
 息子は5→6s
 家人は6
 だ。5は2つとも下取りに出した。家人の6は私のお下がりである。

 今は3人で6と6sと7を使っていることになるのだが、どれも格安SIMを利用していて、三人合わせて月額5千円以下と、いわゆるキャリアの 1/3 以下の費用で使えている。6sと7は SIM フリーだ。

 8もXもいいのだが、細かいことを除けば、できることも画面もそれほど変わらない。Xのデザインと有機EL画面と顔認証は少しは気になるが、それに十数万円を出す気はしない。まったくの新製品だし、初期不良等も心配だ。
 「7を10万円で下取り」とか言うなら考えるが、ありえないだろうなあ。

 前にも書いたが、7を使い始めてまだ1年経たないというのがちょっと信じられない。もうずいぶん長い間使っているような気がする。

 こんな調子でさらに1年使い続け、改良されて安定したXの新しいのが出たら・・・

 その時はまたそれが欲しくなったりするのだろうか。

 新製品が気にならないよりは、欲しくてわくわくする方が幸せなんだけれど。

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2017.09.17

■解散総選挙??

 twitter には書いたのだが、腹の虫が治まらない。

 「これまでにない深刻かつ重大な脅威」のあとの「これまでにない重大かつ差し迫った脅威」(いずれも安倍首相)の最中に解散総選挙を行おうとしているとしたら、論理的に考えて、その「脅威」がウソなのか、脅威にさらされている日本よりも自分の都合が大事なのか、のどちらかしかない。

 おそらくは、自分に都合よく使える範囲においての「脅威」であり「日本」なのだろう。

 先月!改造してできた、自称「仕事人内閣」はどんな仕事をしたのか。

 解散総選挙が行われるとしたら、こういう輩を排除する絶好の機会でもあるのだが、選択肢がほとんどないのが残念だ。

 それでも、投票には行かなければならない。
 無関心や棄権は、「自分に都合がよければ脅威も日本もどうでもいい」ような連中を利することにしかならない。

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2017.09.14

■目に余る誤訳

 書き出すとキリがないし面倒くさいと思って今までほとんど書いたことがなかったのだが、直前のエントリに触発されて、つい先日「これはいくら何でも」が2つ続いたことを書く。
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 映画の吹き替えや字幕、特に字幕には制約が多く、元の台詞の1/3も訳せていないみたいなのがよくある。他にも、大胆な意訳や「超訳」もしばしば見受けられる。というより、省略と超訳が基本線みたいなところがあって、それは確かに仕方ない面もあると思う。
 ただ、その制約の中でも「もっとこう訳した方が」というのが非常に多い気はするのだが、それはこの際 問うまい。

 問題は、明らかな誤訳である。

 先日、「ER 緊急救命室」を見ていると、ヘリコプターのパイロットが "I'm gonna shut down for autorotation." と叫ぶ台詞があった。エンジンに異常が生じたので、安全に降下すべく、「オートローテーションを行うために(for autorotation)エンジンを止める(shut down)」、という意味である。

 オートローテーションというのは、ヘリコプターのエンジンを切って動力のない状態にし、自重で地面に近づいていく過程で、ヘリのローター(羽根)が風を受けて自然に回ることを利用して、その抵抗を使って安全に不時着する技術である。

 知り合いによると、大袈裟に言えばヘリの操縦訓練の半分近くはオートローテーションに当てられるというような話であった。
 「半分近く」というのはいくら何でも誇張だと思うけれど、ある程度の高度か速度があれば(両方あるのが理想)、ヘリコプターはエンジンが止まってもそうやって安全に降りられるように設計されており、操縦者もその訓練をしっかりと受けている。

 実際、ER のヘリも、誰も怪我することなく無事地上に降りた。

 その "I'm gonna shut down for autorotation." (「オートローテーションのために(エンジンを)切る」)の字幕が、なんと、

  「オートローテーションを中止する!」

であった。

 どうしてプロの翻訳家がこんな初歩的な誤訳をテレビで放送してしまうのか。

 「"autorotation" という「専門用語」の知識がなかったから」などというのはまったく言い訳にならない。そんなもの、1980年代の『リーダーズ英和辞典』(研究社)にだって載っている。
 さらに、万一その意味がわからないとしても、"shut down for autorotation" なのだから、「オートローテーションのためにシャットダウンする」という構文なのは明らかだ。
 この文型で autorotation を shut down の目的語にして訳すなど、ちょっと気の利いた生徒なら高校生でもやらないような間違いである。
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 「まさか、スクリプト(脚本)を見ないで聞き取りで訳しているとか、意味は何でもいいから雰囲気だけわかればいいとか、そんなことはないだろうなあ」と思って検索すると、まさに ER の翻訳者本人が、いかに苦労して訳しているかという講演をしている記録が見つかった。

 それによると、もちろんスクリプトを手に入れて、数多い制約の中、いかに努力して完璧な翻訳を心がけているかという話が、これでもかというほど述べられていた。特に、医学用語や表現に関しては医学監修者と綿密に打ち合わせて正しくかつ自然な日本語になるよう努力していたそうだ。

 もちろん autorotation は医学用語ではないが、それにしてもあまりにお粗末だし、この間違え方はいわゆるケアレスミスではない。
 字幕や吹き替えの制約も言い訳にならない。

 「オートローテーションを中止する!」と訳せるなら、
 「オートローテーションを開始する!」と正しく意訳できるはずだ。

 もし意味がわからないなら、いっそのこと「不時着する!」とでも訳せば、通常の字幕としてはぎりぎりセーフではないだろうか。
 ___

 このような、「どうしてこんな・・・」と思うレベルの誤訳が、字幕にはしばしばある。冒頭に「書き出すとキリがないし面倒くさい」と書いた所以だ。

 ネットを見ると、字幕の大御所をはじめ、プロの翻訳家のお粗末な誤訳の例がこれでもかというほど指摘されている。
 (大御所を除けば)多くの場合、「忙しすぎて、時間がなくて、やっつけ仕事をしてしまいました」みたいなことなのかもしれないが、「それにしてもひどい」というのがネット世論のようで、私もそれに同調せざるを得ない。
 いったい、どんな人たちが翻訳しているのか、また、それほどの誤訳を積み上げても一線で活躍し続けられる理由は何なのだろうかと考え込んでしまう。
 ___

 映画やドラマの誤訳の話はこれまでほとんど書かなかったし、この件もここに書くつもりはなかった。
 書く気になったのは、次の回の ER の放送で、またとんでもない誤訳を見つけてしまったからである。まあしかし、これはケアレスミスなのだが、

A:レガスピー先生よ
B:写真家の?
A:ええ
B:必要ないわ(※筆者注:←の訳は記憶による)

 見ていて???が頭の中で点滅した。レガスピーが写真家だとかいう話があったっけ? どうして "Psychiatrist?"(「精神科医?」) を「写真家の?」って訳すんだろう?

 (皆さんはすぐわかりましたか? 私は10秒近く???が続きました。その後やっと、「せいしんか」を「しゃしんか」と間違えていることに気づきました。)

 まあ、上にも書いたとおり、これはケアレスミスである。
 ただ、字幕を入力した人の単純ミスかと思ったら違っていた。何と、吹き替えに切り替えて聞いても、声優がばっちり「しゃしんかの?」と発音していたのだ。どうしてこの場面で唐突に「写真家」が出てくるのか? 誰かどこかで気づかなかったのだろうか・・・

 この「連続技」があって、前から溜まっていたフラストレーションをここで一度は晴らしておきたい気分になってしまった・・・
 ___

 翻訳のご苦労は大きいと思う。でも、視聴者はそれを頼りに見ているのだ。もとの言語がわからなければ(ある程度わかる場合ですら)、翻訳した日本語がその映画やドラマ「そのもの」になってしまう。
 その日本語が、まったくの素人から「これでもか」というほど間違いを指摘されるようなものであっては困るのである。私たちは脚本すら見られないのだ。

 「人間のすることだからミスはある」という程度なら、ネットの誤訳騒ぎはあれほど盛り上がらない。

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2017.09.13

■「NYPDよっ!」

 アメリカのドラマの宣伝を見ていると、被疑者のところに突入する刑事が

「NYPDよっ!」

と叫ぶ場面が放映される。

 "NYPD" は "New York city Police Department"(ニューヨーク市警察)の頭文字で、「エヌ・ワイ・ピー・ディー」と発音する。
 吹き替えでなければ、英語の音声はもちろん、"NYPD !" だけだ。

 前から気になっていて、いつかここに書こうと思っていたら、いつも見ている別のドラマでは、その "NYPD !" に、

「NY警察よっ!」という字幕が出た。

 おわかりの通り、いずれの場合も叫んでいるのは女性刑事である。

 しかし考えてみてほしい。「NYPDよっ!」とか「NY警察よっ!」などと言う刑事が存在するだろうか。

 日本語だとふつうは名詞に何かつけないと言い切りにならないので、「警察だ」とか「警察です」と名乗ることになる。被疑者のところに踏み込んだ警察が、「警察!」というのは確かに変だろう(逆に被疑者の側が「(あっ)警察!」などというのはありそうだが)。

 なので通常、"NYPD !" は、「NYPDだっ!」とか「警察だっ!」などと訳される。

 ところが、発話主体が女性だと、実際には言うはずのない「NYPDよっ!」「NY警察よっ!」になるわけだ。
 確かに、そもそもそういう場面で女性が話す適切な形が日本語には存在しない。「主人」や「家内」に代わる適切な語がないのと根は同じだ。

 日本にだって女性刑事はいるのだが、彼女らは同じ場面で何と言ってるんだろう? まさか「警察よっ!」とは言うまい。
 荒っぽく踏み込む場面なんてそうそうないだろうから、実際には「警察です」と言っているんだろうか。
 あるいは、すでに「警察だっ!」を使っていて、それが今後日本語のスタンダードになっていくのかもしれない。
 (後記:そういえば、日本の刑事ドラマでは何と言わせているんだろう。さすがに昨今のドラマだと女刑事もいると思うのだが)
 ___

 (多く)現実とは違う言葉遣いでその発話者がどんな人かを示す言語表現を「役割語」というのだが、いくら何でも女性刑事に「NYPDよっ!」などと言わせるのはやめてほしい。
 小説ならともかく、映像で女性とわかる人物が女性の声で発話しているのだ。わざわざ役割語を使って「この人は女性ですよ」とわからせる必要はない。

 ・・・と思ったのだが、では何と言わせるのか(あるいは字幕をつけるのか)というとハタと困ってしまうのもわかる。さっき書いたように、適切な形が日本語には存在しないのであった。

 でも、ここは過去を取るか未来を取るかだ。

 思い切って「NYPDだっ!」と訳さないと、いつまでたっても未来は来ない。

I skate to where the puck is going to be, not where it has been...(Wayne Gretzky)

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2017.09.10

■スズメ激減??

 バイクに乗って兵庫県明石市の実家に行ってきた。往路は六甲山、復路は有馬経由。往復で4時間くらい。

 山の中以外はかなり暑かったのだが、季節は秋、沿道の田んぼの多くには稲穂がたわわに実り、たまに刈り入れの終わったのが混じっている。そういう風景を眺めながら走るうち、今まで考えていなかったことにふと気づいた。

 私が子どものころの田んぼというのは、この季節になると鳥よけの網が張られ、虹色のテープなんかできらきら光っていた。案山子もあるのがふつうだった。主にスズメの食害から守るためである。

 それが、今日見たたくさんの田んぼのどれ一つ、網もテープもなかったのだ。案山子だって、観光用みたいなのを除けばない。あれで食害は大丈夫なのだろうか。

 美しい田園風景が網やテープで台なしにならないのはいいのだが、あんなに無防備で大丈夫だというなら、スズメはほとんどいなくなったということなのか。
 実際、カラスやハトは目にしたが、スズメは見なかった。もちろん、バイクで走りながら・・・ということはあるのだが。

 2010年ごろだったか、スズメが(1/10に?)激減しているというような話がマスコミで取り沙汰されたりしたが、きちんとした調査があるわけではない(と思う)ので、誰も確かなことはわからない。バードウォッチングなんかをしている限りでは、それほど減ったという印象はない。

 でも、スズメの数を数えなくても、田んぼから案山子や網やテープがなくなったという事実から、その激減は容易に推測される。

 まさかとは思うが、網を張らなくなった理由が他にあるのだろうか。たとえそうだとしても、もしスズメが昔のようにたくさんいるなら、あの無防備な稲穂に群がっていなければおかしいのだが・・・

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2017.09.09

■手軽に行けるアルプス的なところ

 このブログのプロフィールにも書いているとおり、アルプスが好きだ。
 本家のアルプスも日本アルプスも、スロバキアアルプス(っていうのかな、ヴィソケ・タトリ)もカナディアンロッキーも。
 行ったことはないが、サガルマータ/チョモランマ(エベレスト)だってデナリ(マッキンリー)だって好きだ。要は、アルプス的な山ということである。

 一方で、体力も気力もないので、とてもアルピニストにはなれない。自力で(と言えるかどうかわからないが)登った3000m超の山は、たぶん乗鞍岳(3026m)だけだと思う。あとは木曽駒ヶ岳(2956m)手前の乗越浄土(2850m)くらいか。

 しょせん、私の「好き」も情熱も、他と同様、その程度のことである。

 だからこそ、というべきか、その程度の人間でも登れる/歩けるアルプス的なところのリストが欲しい。
 そう言いながら、今まで本気で調べたことはないのだが、少なくとも私の感度の悪いアンテナには引っかかってこなかった。『日本百名山』とかそういう本はベストセラーなのに、『あなたも行けるアルプス』的な本は聞いたことがない。まあ、あんまり簡単に行かれて遭難されたりしても困るんだろうけれど、この際自分が知っている範囲をまとめてみることにした。

 今回の信州旅行でかなり残念だったのは、その「行けるアルプス」に行け(か)なかったことだ。

 バイク乗り用の雑誌の特別増大号に『絶景ロード100』というのがあって、そこに乗っていた「黒菱林道」というのに行ったのだが、行ってみると、その終点からリフトを2つ乗り継げば、往復3時間で八方池を往復してアルプス気分を味わえたのである。
 実際に行ったときには、リフトは途中で雲の中へ消えていたし、時刻も夕方だったので諦めたのだが、次の日の天気予報がよければ、その辺にもう1泊して登ってみたかった。またいずれ行くつもりでいる。

 バイク雑誌だから仕方ないとは言え、車道のことしか書いていないのにはがっかりした。「終点からリフトを乗り継げば、往復3時間のアルプストレッキングも楽しめる」とでも書いてあれば、間違いなく主要な目的地になっていただろう。
 書いていること以上の情報を求めようとしなかった私が悪いのだが、求めたくなるような記述は、たった30字ほどで書けるのだ。そのための紙幅は十分ある。

 さて、前置きが長くなった。私が知っている「初心者のあなたも行けるアルプス的なところ」のリストを以下の《続き》に記す。具体的な情報はご自身で収集願いたい。
 場所が場所なので、シーズンは概ね6月下旬から10月中旬くらいまでだ(もっと短いかもしれない)。(木曽)駒ヶ岳に登ったのは11月初めの連休だったが、いくら遅くてもその辺で終了してしまうのでご注意を。

 また、言うまでもなく、下界とは気温がぜんぜん違うし天気も変わりやすく風も強いことがある。雪が残っていることも多いし降ることすらあるし、滑落や遭難の危険だってないわけではない。2000mを超えると高山病の可能性も出てくる。
 登山届が必要な場合は必ず提出し、十分な情報収集と装備の上、自己責任で気をつけて。

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2017.09.08

■私の文章です

 以下は私がかつてここに書いた文章からの引用です。

 ここに具体的に書くことはできないが、あの新機軸はこうなった、あの改革の副作用は、この改革のせいで・・・と考えていくと、もちろん功罪両面あるだろうとは思うものの、成功か失敗かという二分法を適用するなら、そのほぼすべてが失敗であったと断言できる。つまり、結局は何もしない方がよかったということだ。(2010.10.2)
   ___
 ある程度偉くなると、すぐに組織や制度をいじりたがる人がいる。
 だが、そういうことをして成功するのは、数少ない visionary だけである。調子乗りや凡人がやると、現場を混乱させて疲弊させるだけに終わってしまう。哀しいかな、偉い人の多くは調子乗りや凡人であり、現在大阪を動かしているのは、頭が古くて固い、調子乗りの凡人である。
 《中 略》
この十数年来、自分の職場やその上部団体(や日本中のお役所的組織)でずっと言われ続けてきた「変えなければ」のほとんどがさまざまな弊害をもたらし、どんどん事態が悪くなっていることを思えば、また同じ轍を踏むのは見えているような気がする。
 しかも、変えるためのコストは実に莫大で、仕事の半分以上が変えるためと変えたための無駄な会議や事務作業に終始してしまっているといっても過言ではない。(2011.11.29)
   ___
 毎年毎年、失敗するのが必定の企画が立てられて実行されている。
 今年もまた、箸にも棒にもかからない「画期的な新構想」がいくつか提案され、上層部とその追従者たちによって嬉々として実行されている(彼らもほんとは「やらされている」のだろうか)。
 その「構想」の提案書たるや、手垢のついた空疎な大言壮語の羅列であり、無駄に饒舌なばかりで大した意味はない。読んでいるこちらが恥ずかしくなってくるほどだ。
 法科大学院と新司法試験の失敗と同様、これも数年後、失敗に終わっているのはおそらく間違いない。ただし、いくぶんかひっそりと。(2011.12.17)
   ___
 この件に限らず、この国の教育行政(特に高等教育)は、やらない方がマシな「改革」を次々と打ち出し、大学はそれに翻弄され、結果は惨憺たるものなのに(法科大学院を見よ)、「だからこそ?また次の改革を」という悪循環を繰り返している。(2017.05.17)
   ___
 失敗することが目に見えているような「新機軸」を矢継ぎ早に打ち出す文科省の方針に次々と面従させられて疲弊し、それでも誰も責任を取らない世界にストレスを溜め込んでいる現場から見ると、「トップまでが「面従腹背」などと言っていたのでは、そりゃこの悪弊は改まらないよなあ」と絶望的になってしまう。(2017.06.03)

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■私の文章ではありません

 こういうことをするのは初めてですが、以下は私の文章ではなく、内田樹氏のブログからの引用です。引用元は
 http://blog.tatsuru.com/2017/08/31_1544.php
です。念のため、内田氏はこういう引用を無条件に許容なさっています。それどころか、「私が書いた」と主張してもかまわないそうです(笑)

 それはさておき、以下引用です。付け加えることはありませんが、是非上記のリンク全文をお読みいただければと思います(ものすごく長いですけど)。

アメリカの外交専門誌Foreign Affairs Magazineは去年の10月号で日本の大学教育の失敗について長い記事を掲載しました。過去30年の日本の教育政策は「全部失敗」という衝撃的な内容でした。続いて今年の3月にはイギリスの科学誌Natureが、日本の自然科学研究の失敗についての記事を掲載しました。半年間の間、英米の世界的な影響力を持つ二つのジャーナルが「日本の大学教育の失敗・科学研究の失敗」を大きく取り上げたわけです。それくらいに日本の学術の劣化は国際的に「有名」な事例になっているのです。21世紀に入ってから学術的生産力がひたすら落ちているのは、先進国で日本だけだからです。

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2017.09.07

■ほんっとにどうでもいいのですが・・・

 珍しくこんな話題ですみません。

 数多の不倫報道が相次ぐ中、元検事の有名女性代議士と、9歳年下の男性弁護士とのW不倫報道がありました。

 いかな代議士といえども、こういうのって純粋に個人的なことだと思いますし、政治家として云々というのはほんっとにどうでもいいのですが・・・

・悪事を糾弾してきた(であろう)元検事が
・日本中から注目されている立場でありながら
・あれほど目立つ形で(たぶん)不倫をしてしまう

という危機管理意識の低さというか、脇の甘さというか、は、とっても気になります。

 また、一般的に、世間の人たちのこういうことに対する倫理観がどれくらい厳しいのか緩いのかも知りたいと思っています。
 自分のことは(だいたい)わかるのですが、他の人がどんなふうに考えているのか、ほとんど知る機会がないので。

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2017.09.06

■それぞれの人生

 今年のゴールデンウィークに東北をぐるっと回ったとき、信州を経由した。
 その時に北アルプスの絶景を見せてくれた峠に、今回も立ち寄った。

 先客の一人と何気なく言葉を交わし始めると、その方が白馬村在住だとわかった。生まれ育ちは大阪なのだが、こちらに住んで「写真やデザイン」の仕事を(おそらく)個人でなさっているという。
 フォルクスワーゲン ゴルフ ヴァリアントの4motion に乗っていらっしゃるので、経済的にも困窮していないのは明らかだ。

 「理想の人生ですねぇ。私なんかサラリーマン以外考えられません」と心底羨ましくて申し上げると、
 「いえいえ、来月の仕事があるかもわかりませんし」とおっしゃる。そう言いながら、もう何十年か写真家を続けているらしい。

 「アルプスなんかにも登って写真をお撮りになるんですか?」
 「撮りますよ。山渓(ヤマケイ)さんの仕事なんかもありますから」
 「いやぁ、ほんとに理想の人生ですねぇ」
 「いえでも、定年がないとはいえ、いつまでも山に登れるわけでもありませんし」

 確かに、60代前半に見える。

 そして、そうだろうなあとは思うものの、やっぱりにわかには納得しがたいのが次の言葉だ。

 「この辺の景色なんかもぜんぶ飽きちゃってて、何とも思いませんからね」

 じゃあどうしてここに車を停めて北アルプスを眺めているんですか、とは訊かなかった。その日はどっちにしても大した景色ではなかったのだが。

 「ご存知かどうかわかりませんが、この下のアルプスがきれいに見えるところに、ポツンとカフェがあるんですよ。ああいうのをやってみたいなと思ったりもするんですが」と私。
 「おやりになるのは自由ですけど、お客さんは来ませんよぉ。たまに来たらラッキーくらいに、趣味でやるんならいいですけど」

 まあ、そんなものだろう。写真とデザインを なりわいにして白馬村で暮らせる人だって、いったい何人いることか。

 別れてすぐ、名刺でももらっておけばよかったと思った。もしかしたら名のある人かもしれないが、名前も知らずに後で検索してみてもわからなかった。
 ___

 その日の夕刻。

 次の日もその次の日も天気はよくなさそうだし、それなりに目的は達した気がしてなんだか面倒くさくなり、1週間ほど続く予定だった信州旅行をたった2泊で切り上げることにした。

 それほどの景色も望めなかったとはいえ、要するに飽きたのである。たった3日で。

 白馬在住の写真家が飽きてしまうのは当然だ。

 先方の人生は羨ましいけれど、飽きることが納得できればまあ、お互いそれぞれの人生なのかと考えざるを得ない。

 でもやっぱり、「白馬在住の写真家」って、絵に描いたような理想の人生だよなあ・・・という思いは拭いきれないんだけれど。
 ___

 何にせよ、明日からまた仕事だ・・・

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2017.09.05

■蕎麦ツーリング?

 休暇も残り少なくなった。

 毎日うだうだしてるのも何なので、バイクでどこかへ出かけようと考える。

 そこら中走り回ってしまって新鮮味がないので、何か目的を作るために「蕎麦」を考えた。それほど蕎麦好きというわけでもないのだが、蕎麦屋というのは田舎に行ってもあるし、あんまり高くはないので目的地にしやすい。
 幸いというか、自宅から北北西に進路をとると、行ってみたいお蕎麦屋さんが少なくともまだ5軒くらいはある。だが、調べてみると、どれも「完全予約制」か「本日休業」。

 まあ、他にもどこかあるだろうと、重い腰を上げてバイクで篠山を目指す。別に蕎麦でなくてもいいし。
 午後3時ごろから雨が降るということだが、出たのは正午。幸い、雲は高く白く、空も明るい。

Img_7294_copy 篠山の「河原町妻入商家群」をトコトコと流していると、石臼挽き十割蕎麦のお店(丹波そば切り 花格子)を見つけたので、女将さん?のお勧めに従って「芝えびのかき揚げと かぼす蕎麦」をいただく。
 そのままバイクを置かせてもらい、商家群を散策。以前来たときに一番気に入った金工細工のお店(應需(おうじゅ)細工所)は土日祝しか開いていないようだ。

 バイクに戻って篠山市街を再びトコトコ。東西の通りを西へ走り、一本北へ上がって東へ走り、また北へ上がって西へ・・・と繰り返す。それで入り損ねた一方通行の道も入口を探して入るなど、主な通りを一通り走っても30分かからない。

 ちょっと山の方にある、前から気になっていたフランス料理の店と蕎麦懐石の店も見るだけ見ておこうと向かい始めたところで、シールドに雨がぽつぽつと当たり始める。ちょうど15時。降り始めの時刻まで当たる最近の天気予報は偉い。

 えっ、こんな雲で雨?と思う間もなく雨脚が強くなっていく感じなので、諦めて帰路につく。

 東へ、そして南に向かうので、すぐに雨は止むかと思いきや、かなりしつこく降る。能勢町に入ってようやくやんだ。
 ほっとしていると、自宅近くになってからまた降り出す。単純に西から雨というわけでもないところが難しい。

 それにしても、雲はあくまでも白く高く、空は明るい。これで雨なんか降るのか・・・と思うのだが、素人の観天望気に何の意味もないことを思い知らされた。

 防水の装備もなしに雨の中をバイク走行なんて何年ぶりだろう。

 茨木の山間部でも気温が21℃と、先日の信州と変わらず、ちょっと寒い。9月の初めって、毎年こんなに涼しかったっけ?

 幸い、首から上はヘルメットのお蔭で濡れず、上半身も風防があるためにそれほど濡れない。土砂降りでもなければ案外走れるかも・・・とわかったのが収穫。これまでは雨中走行なんて考えたくもなかった。

 あ、またオチがない。

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2017.09.03

■シーサイド・コーポラス

 中島みゆきで思い出した。

 今回聞いていて1曲だけ、すごくびっくりさせられたことがあった。
 よく知っている曲なのに、まったく知らない歌詞が流れてきたのだ。

 自分の記憶に支障を来しているのではないかと、ちょっと不安になった。
 今思い出して調べたら、これまで知っていたのは「36.5℃」というアルバムに収録されていたバージョンで、1番しか歌われていないもの。今回聞いたのはシングルバージョンで2番も歌われているものであるらしい。

 けっこう好きな曲なのに、こんなことがある。まあ、私の「好き」はその程度のものだということだけれど。

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■中島みゆき

 信州ドライブの間、ほとんどずっと中島みゆきを聞いていた。

 彼女のだけで40枚近いCDが1枚のSDカードの中に入っている。他にも、さだまさしとか小田和正とか徳永英明とかテレサテンとかが入っているのだが、何しろ数が違うので、ほとんど中島さんが流れていた。

 車のオーディオはSDカードが2枚刺さるので、もう一枚は洋楽にしている。でも、今回そちらは流さなかった。

 今さら、しかもこの年になってこんなことを言うのも恥ずかしいのだが、彼女の20代から60代までの歌をいろいろ聞いて、彼女の世界観は人生そのものだなあと思った。

 素直にそう感じただけなのだが、常人とはまったく異なる人生を歩んできた彼女が、常人の人生をあんなに知っているように見えるのはなぜなんだろうという気がちょっとした。

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■疾走するバキュームカー

 ワインディングロードを車で走るのは遅い方ではない。特に一人で乗っているときはそうだ。
 自分より速そうな車が後ろから来ると必ず譲るのだが、たとえば今回の信州旅行でそういう機会は一度しかなかった。
 (バイクの場合はぜんぜん違う。平均的バイク乗りより明らかに遅く、しょっちゅう道を譲っている。)

 その一度について。

 岐阜・長野県境の安房トンネルを抜け、上高地口を過ぎて松本へ向かっていた。交通量はほとんどない。どこから現れたのか、前をバキュームカーのような白い小型トラック(以下バキュームカー)が走っている。

 これが速い。

 がんばってついていこうとするのだが、かなり真剣にならないと無理だ。必死の一歩手前くらいで、なんとか付かず離れずついていく。
 バキュームカーは、カーブの続く山道を、ものすごく小刻みにピッチングしながら、時にはダダダダダダンッみたいな音をたてて疾走していく。よくもまあ、こんな速度であんなに揺れながら・・・

 そんな感じで十数分くらい走っただろうか、路肩が広くなっているところがあって、そのバキュームカーが道を譲ってくれた。
 振る舞いとしては正しいと思う。私だって、こういう道で付かず離れずついてくる車がいれば必ず道を譲る。前の車についていけるということは、ふつうはまだ余裕をもって走っているということを意味するからだ。

 だが、私にはもちろん、余裕などなかった。「かろうじてちょうどついていける」という速度だった。
 「うわあ、譲られても・・・」というのが正直な感想だ。どうしようかと迷ったが、相手はそこで休憩でもするつもりかもしれないし、とりあえずは厚意を受けることにした。

 私が前に出ると、バキュームカーはそのままついてくる。しかし、私はもうさっきまでの速度では走れない。前を切り開いていってくれる車がいるからついていけたのだ。先頭を安全に走ろうとすると、がくんとスピードが落ちてしまう。相手は「付かず離れず」ではなく、むしろ私を煽り気味だ。

 結局、ものの1〜2分で今度は私が譲ることにした。
 バキュームカーは、水を得たトドのようにあっさりと私を抜き去っていった。そして今度は、もう私が追いつけないスピードで徐々に遠ざかっていってしまった・・・

 FFとはいえ軽量のスポーツセダンに乗っている私が、バキュームカーについていくことすらできないのである。
 車の性能差には、ものすごいものがあるはずだ。それをひっくり返したのは何か。
 道、というか、(たぶん)すべてのカーブを熟知していることは大きいだろう。だがそれでも、あの車であのスピードで走れるものなのか・・・

 まあ、速いといっても「ほんとうに」速いわけではない。しょせんは、公道上の狭いワインディングのことである。あの程度の速度域でどれだけ速く走れるかを決めるのは、結局のところ「度胸」なのではないかと思った。私にはとてもあんな速度で走る度胸はない。

 そういえば去年だったか、家族で四国に行ったときに、びっくりするくらい速い軽トラックに道を譲ったことがあった。ついていく気なんか起きないくらいあっという間に遠ざかっていった。
 あの時も、「あんな車でよくもまあ、あの速度で走る度胸があるよなあ」と思ったものだ。

 いやでもまさか、度胸ではなくてウデなのか・・・ そう思いたくはないけれど。

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