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2019.01.28

■初めてのパンク

 初めて免許を取ってから、自動車やバイクあわせて50万km(地球12.5周!)以上は走っていると思うのだが、一度もパンクしたことがなかった。

 昔は車に必ず積まれていたスペアタイヤも、フルサイズからテンポラリータイヤに変わったなあと思っていたら、もはや搭載しないのが標準となっている。私の車にも積まれていない。
 それほどパンクが少ないということだ。

 わりとまめにタイヤの空気をチェックする方なので、左後輪だけちょっと減りが早いのが気になっていた。
 最初は何かの間違いか、気のせいかとも思ったが、念のため給油を早めて2週間後にガソリンスタンドでチェックすると、やはり左後輪だけ少し減っている。残り3輪より 0.2 kPa くらいのことなのだが、それが3回も続くとさすがにおかしいのはわかる。
 少しずつ空気が漏れる、いわゆるスローパンクチャーというやつかもしれないと思った。

 ちょうど1年点検が来たので、その旨ディーラーに言うと、案の定というか、パンクしていたという。
 バルブからの空気漏れとか、でなければ何かもっと神秘的?な理由かと思っていたのだが、なんと釘が刺さっていたそうだ。
 子細に点検しなかったことをちょっと後悔した。

 まさか、釘が刺さっていてもあんなにゆっくりしか空気が抜けないとは・・・
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 パンクとは関係ないが、以前乗っていた車で、エンジンルームからの異音に気づきながら、その後しばらくして起こったメジャーな故障を防げなかったことがある。整備士にも見てもらって、音を聴いてもらっていたのに、その時はあまり再現せず、「様子を見てください」と言われていたのだ。

 自分の車を一番よく知っているのは、いつも乗っている自分自身である。

 今後はさらに気をつけようと思う。

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2019.01.26

■寂寥感漂う評価

 生来の「あかんたれ」である。気が弱くて、なかなか「こうしたい」と言い出せない。

 そのせいで、小学校低学年の時に親に言われて通い始めた習字を、やめられなかった。
(そろばんの方は、泣いて「嫌だ」と抵抗して、習い始めるのを回避した。今だに計算が苦手で、ちょっと後悔している。)

 兄も弟もかなり早期にやめてしまった。他のみんなも、小学校高学年から中学校と進むにつれてどんどんやめていくのに、私自身は先生にも親にも「やめたい」と言い出せなくて、毎週通うのがそれなりに苦痛だったにもかかわらず、きっかけがつかめないままずるずると高校生まで続けていた。
 もちろん、そこへ通う高校生は私だけである。

 「この調子だと大学に入ってからもやめられないかなあ」と暗い気持ちでいたが、自宅から2時間かかる大学に進学が決まったことで、それを言い訳にしてやっと言い出すことができ、やめられてほっとした。
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 まあしかし、そのお蔭で、字は汚い方ではない。週1回とはいえ、たぶん10年以上教室に通い続けたのだから当然だ。

 ただ、子どもがいやいや通い続けるぐらいで達筆になるかというと、そんな甘いものではない。文字通り、児戯に等しいレベルである。
 それに、一応は人より書を見ているせいで、自分の書いたものの下手さかげんが目につき、字を書くたびに「もう少し上手ければなあ」と、かえってげんなりする。

 そんな文字でも、書道をやっていない人から見るとそれなりにきれいに見えるようで、特に若いころには褒められることが多かった。
 新しく知り合いになった飛行機仲間に送った年賀状を奥様が見て、あまりの字の美しさに驚き、「いったいこれは誰から?」と夫に訊いたというのが、最後に派手に褒めてもらった記憶だ。10年以上前のことである。

 その後はほとんど褒められることもなくなり、大した字ではないことは重々承知しているものの、やはりそれはそれでちょっと寂しい思いをしていた。

 そもそも、文字を手書きすること自体がほとんどないのだが、毎年の年賀状の表書きのうち、われながら上手く書けたと思う数枚(何とか納得できるのはその程度だ)を家人に見せ、自慢するのが関の山だった。
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 そんな中、上手な字を「おじいさんみたいな字」と評する言説が若者の間に広まっているという話を知った。

 そういう連中にはもちろん書の心得などないだろうから、私の字もおそらく上手に見え、同じように「おじいさんみたいな字」と判定される可能性が高い。

 別にそれで貶しているというわけではないらしいのだが、そこには、連綿と培われてきた芸術としての書道や、人生の経験を重ねてきた年長者への敬意はない。ただただ、「年寄りくさい」という事実がクローズアップされているだけのようだ。

 ああ、まあそれでも、若い人が書いた上手な字は「おじいさんみたいな字」ですむ。
 だが、まだまだとはいえ、確実にそこに近づいている私なんかにとっては、一足先に本物のおじいさんにされてしまうような寂寥感が漂う。

 どうか、上手だと思う字を見て「おじいさん」だとか「年寄り」だとか思わないでほしい。
 ほとんどの場合、その字はむしろ、とても若いときに形成されたものなのだし。

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2019.01.23

■死んでも追いかけてくるもの

 先月(=昨年12月に)亡くなった岳父を追いかけて、住民税を取り立てる書類が市役所から届いたという。

 岳父が納めるべき税金を、代わって誰が納めるのか届け出よ、とのことである。

 ああ、故人にまで納税の義務があるのだ・・・
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 というのはまあ当たり前の話で、取り立ててどうこう言うレベルのことではないのだが、没後の雑事が山のようにある中で、来年度になってから住民税を納めることなど思いもよらず、ちょっと虚を衝かれた感じがしたのだ。
 医療費が相当かかったので、岳父の確定申告はしようと考えていたのだが、それでも住民税のことは考えていなかった。

 働いている人の多くはご存知だと思うが、住民税というのは前年の所得が確定してから支払う。
 サラリーマンの場合は、たとえば2018年1月から12月までの所得分にかかる税金を、2019年6月から2020年5月にかけて払うことになっている。岳父の場合は、「年税額を6月、8月、10月、12月の4回の納期に分けて支払う」のが標準らしいが、6月に一気に払ってしまってもいいのだろう。

 私も一度勤め先を退職しているので、無収入になったところへ前年分の住民税の追撃を食らった経験がある。
 そういうシステムだからまあ仕方ないといえばそうなのだが、死んで「住民」でなくなった後まで追いかけてくるのが「住民税」だというのは、何ともやるせない。

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2019.01.21

■まだ20歳

 三浦雄一郎さん(86)は残念ながらアコンカグア登頂にドクターストップがかかったが、私は還暦でのキリマンジャロ征服を視野に入れて体作りを少しずつ始めている(ほんまかいな)。

 数年間使っていなかった任天堂の Wii Fit を利用して、1月4日以降、少なくとも体重とバランス年齢の測定は毎日やっている。
 余裕があればというか、通常はヨガと筋トレもやるようにしている。

 初日こそバランス年齢が40代になってちょっと焦ったが、その後はほぼ20代を維持しており、たまに30代になるとちょっとがっかりする。
 それでも、最高の20歳はなかなか出ないのだが、今日はやっと20歳になった。ツイッターのプロフィールアイコンにまだ嘘はない(笑)

 今後も20代をキープしつつ、徐々に体を変えていきたいと思う。

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2019.01.16

■とうとう産卵

 今朝、飼っている文鳥が産卵しているのが見つかった。

 いかにも時季外れだが、人工的な環境にいるので仕方がない。
 一歳半を超えているので、もう成鳥だということなのだろう。雌であることも確定した。

 が、一羽で飼っている鳥なので、産卵することには害しかない。体力は消耗するし、産卵がらみの病気にかかる可能性もある。

 卵の重さを量ると1.7gあった。体重が23gくらいなので、7.4%のものを産み落としたことになる。これが私だとしたら5kgだ。恐ろしい数字である。
 体重50kgの女性だとすると3.7kg。大きめの赤ん坊を産んだのと同じだ。

 これ以上産卵しないように、巣みたいにして閉じこもっている水浴びの容器は取り外した。息子が体を撫でるのもやめさせた。

 申し訳ないけれど、今後、卵は産まないで元気に過ごしてほしい。

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2019.01.12

■「失敗重ねた「改革狂の時代」」

 京都大学名誉教授の佐伯啓思さんが、平成は、「ことごとく失敗に終わった」「改革狂の時代」であったと総括していた(asahi.com)。

 「まさしく「改革狂の時代」というほかないであろう」

 「大学改革も教育改革もほとんど意味があったとは思われない」

 その他の改革も
 「ことごとく失敗に終わったというほかない」

 この方とは見解を異にすることも多いけれど、これにはまったく同意する。

 なんとなれば、私がいつもここで書いていることと同じだ(が、頭のいい人が書くとこんなにうまくまとめられるんだなあと感心する)。

 元号とともに世の中が変わりうるものであるならば、怨嗟の声を上げつつ無駄で無益で有害な「改革」に勤しんだ時代は、すっぱりと終わりにしてほしい。
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「効果がないものを「改革」とは呼びません」(寺沢拓敬 関西学院大学准教授:2018年10月31日(水)朝日新聞朝刊)

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2019.01.03

■本能?

 飼っている文鳥が、カゴの下に敷いた新聞紙を熱心に引きちぎって、巣作りらしき行動をしている。

 問題は、その場所が飲み水(兼 水浴び)容器の中だということだ。

 水に新聞紙を浮かべ、その中に籠もるという珍妙な生態を数か月前から披露している。

 先月には、巣作りに適した巣を入れてやったのだが、居心地が良くなかったのか、そちらには1〜2度入っただけ(中に少しだけフンがあるのでわかった)で、その後放置したままだ。

 新聞も水も毎日替えるので、いつまで経っても巣らしきものにはならないが、愚かで可哀相な鳥は、今も一生懸命新聞紙を引っ張っている。

 それにしても、巣作り?が始まったのは秋ごろからだと思うのだが、それまでは幼すぎてそういうことはしなかったにしても、季節感を誤っているのは、人工的な環境だからだろうか。

 ともかく、誰からも教えられていないのに、賽の河原を積むように巣を作ろうとしているかに見える。
 仮に巣が完成しても、子孫を残す望みはないのに。

 これが本能だとしたらやっぱりすごい。エサをついばむのはともかくとして、飛ぶのだって水浴びだって、まったく誰からも習っていない。

 先代とまったく同じ行動をする当代だが、先代は巣作りしなかったと記憶している。雌雄とかに関係があるのだろうか。どちらも雌だと思っているんだけれど。

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2019.01.01

■キリマンジャロに登ろう・・・か

 2019年1月1日になった。

 三浦雄一郎氏(86)が南米大陸の最高峰アコンカグア(標高6962m)への登頂を目指して、明日 日本を出発するという(asahi.com)。

 氏は還暦を前にして、暴飲暴食・不摂生から体重は90kgを超え(身長164cm)、血圧も190以上あったそうだ。
 狭心症の発作も出て、腎臓も人工透析間近、このままでは余命は3年ないと言われたらしい(smart-flash.jp)。

 改心して摂生とトレーニングを開始、65歳の時に70でエベレストに登頂するという目標を立て、世界最高齢登頂記録(当時)を更新した。
 その後、75歳、80歳でも登頂したのは有名な話である。

 そんな氏ですら、今回のアコンカグア登頂のトレーニングを開始すべく富士山に登った際には、一般登山者の半分くらいのペースでしか歩けなかったという。
 筋力は人一倍あるが、心臓に持病もあり、心肺機能の低下は目を覆うばかりだったそうだ(朝日新聞)。

 そんな状態からトレーニングを開始して、86歳でのアコンカグア登頂を目指しているのである。
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 氏と比較するつもりは毛頭ないが、私は身長180cmで67kg。暴飲暴食とは無縁だし、それほど不摂生とも言えない。
 だが、究極に近い運動不足で、血圧高めの脂質異常症を薬で抑えている状態である。

 何がきっかけだったか、年末にふと、一般人がキリマンジャロ(5895m)に登ることは可能なのだろうかと調べてみると、決して不可能ということはなさそうだった。

 七大陸最高峰(Seven Summits)のうち、オーストラリアのコジオスコ(2228m)は、まあ誰でも登れるし、登っても単なる物好きにしかならない。
 次に登れそうなのがアフリカのキリマンジャロだが、特に登山を趣味としてきたわけでもない一般人には、それ以外の5峰はちょっと無理そうだ。

 だからといって、

 「よし、三浦雄一郎が古稀でエベレストなら、オレは還暦でキリマンジャロだ!」

と勢いよく決心したわけではない。

 「やっぱり富士山にしようかなあ・・・」

 でも、富士山なら小学生でも登っている。そんなことが目標になるだろうか。
 確か父親も、70前くらいにふつうに登っていたはずだ。

 かつて、私がまだ不惑くらいのころ、外国人から富士登山に誘われ、とても無理だと断った身としては偉そうなことは言えないのだが、「数年後に富士登頂を目指す」というのは、いかに情けない私としても、志が低すぎると思う。
 ___

 誘いを断った時に言われた言葉は、ずっと引っかかっている。

 You can't get any younger.(今より若くなることはできないんですよ。)

 そう、生物は常に、現在が一番若いのだ。

 でも、だからといってこの夏にキリマンジャロに登ることはできない。70を超えた一般人と同じようにすら山道を歩けないのが現状の私だ。

 そういえば、23歳の時に仕事で鳥取の大山に登ったのだが、一緒に登った70くらいの大先輩のほうがはるかに健脚で、下山後に「今からもう一度登ってきてもいい」とおっしゃるほどであった。

 まあ、富士山は別にして、憧れのアルピニストになって槍や穂高、白馬でも・・・とも思うのだが、仮に可能だとしても、そういうのはやっぱり「目標」にはならない。
 ___

 それにしても、夢や目標のない人生だったなあ・・・と思う。
 とにかくがんばらないで、まあ自然に手の届く範囲のことしかやってこなかった。
 世の中の多くの人もそんなものだろうと自分を慰めるものの、こういうことを言うときに過去形になるのも恐ろしい。

 ここは一つ、還暦でキリマンジャロ・・・とも考えるのだが、目標を立てること自体をやってこなかった人生は、一朝一夕で変わるものではない。
 まして、そのために努力することなど、できるとは思えない。

 それに、仮に達成できたところで、しょぼい目標である。そんなことのために努力できるだろうか。
 かといって、立派な目標などとても立てられないし、それを目指すほどの努力は絶対に無理である。

 三浦氏がエベレストのために一念発起したように、私のレベルではキリマンジャロのために一念発起が必要だ。
 でも、こうして うだうだと書けば書くほど、やっぱり自分にはそれも難しいのがひしひしとわかる。

 なんとなれば、「特にキリマンジャロに登りたいわけでもないのだし・・・」と、始める前から言い訳している。

 いや、でもまあ、とりあえず、実際どうなるかわからないにしても、「還暦にキリマンジャロ」と唱えつつ過ごす数年と、そうしない数年とでは、少しくらいは何かが違ってくるはずだ。

 というわけで、2019年の New Year's Resolution は、「還暦でキリマンジャロに登る*かもしれない*ので、そのために少しずつ体を変えていこう」です(笑)


 みなさまのご健康とご多幸をお祈りしております。

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