■寂寥感漂う評価
生来の「あかんたれ」である。気が弱くて、なかなか「こうしたい」と言い出せない。
そのせいで、小学校低学年の時に親に言われて通い始めた習字を、やめられなかった。
(そろばんの方は、泣いて「嫌だ」と抵抗して、習い始めるのを回避した。今だに計算が苦手で、ちょっと後悔している。)
兄も弟もかなり早期にやめてしまった。他のみんなも、小学校高学年から中学校と進むにつれてどんどんやめていくのに、私自身は先生にも親にも「やめたい」と言い出せなくて、毎週通うのがそれなりに苦痛だったにもかかわらず、きっかけがつかめないままずるずると高校生まで続けていた。
もちろん、そこへ通う高校生は私だけである。
「この調子だと大学に入ってからもやめられないかなあ」と暗い気持ちでいたが、自宅から2時間かかる大学に進学が決まったことで、それを言い訳にしてやっと言い出すことができ、やめられてほっとした。
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まあしかし、そのお蔭で、字は汚い方ではない。週1回とはいえ、たぶん10年以上教室に通い続けたのだから当然だ。
ただ、子どもがいやいや通い続けるぐらいで達筆になるかというと、そんな甘いものではない。文字通り、児戯に等しいレベルである。
それに、一応は人より書を見ているせいで、自分の書いたものの下手さかげんが目につき、字を書くたびに「もう少し上手ければなあ」と、かえってげんなりする。
そんな文字でも、書道をやっていない人から見るとそれなりにきれいに見えるようで、特に若いころには褒められることが多かった。
新しく知り合いになった飛行機仲間に送った年賀状を奥様が見て、あまりの字の美しさに驚き、「いったいこれは誰から?」と夫に訊いたというのが、最後に派手に褒めてもらった記憶だ。10年以上前のことである。
その後はほとんど褒められることもなくなり、大した字ではないことは重々承知しているものの、やはりそれはそれでちょっと寂しい思いをしていた。
そもそも、文字を手書きすること自体がほとんどないのだが、毎年の年賀状の表書きのうち、われながら上手く書けたと思う数枚(何とか納得できるのはその程度だ)を家人に見せ、自慢するのが関の山だった。
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そんな中、上手な字を「おじいさんみたいな字」と評する言説が若者の間に広まっているという話を知った。
そういう連中にはもちろん書の心得などないだろうから、私の字もおそらく上手に見え、同じように「おじいさんみたいな字」と判定される可能性が高い。
別にそれで貶しているというわけではないらしいのだが、そこには、連綿と培われてきた芸術としての書道や、人生の経験を重ねてきた年長者への敬意はない。ただただ、「年寄りくさい」という事実がクローズアップされているだけのようだ。
ああ、まあそれでも、若い人が書いた上手な字は「おじいさんみたいな字」ですむ。
だが、まだまだとはいえ、確実にそこに近づいている私なんかにとっては、一足先に本物のおじいさんにされてしまうような寂寥感が漂う。
どうか、上手だと思う字を見て「おじいさん」だとか「年寄り」だとか思わないでほしい。
ほとんどの場合、その字はむしろ、とても若いときに形成されたものなのだし。
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