◆長いお別れ
標題は、レイモンド・チャンドラーの小説とは何の関係もない。
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もう先々週のことになるが、高齢者施設に入所している母親がコロナに罹ったという知らせを受けた。
調べてみると、クラスタとしてニュースにもなっていた。
まあ、半々くらいで覚悟はしつつ、ふつうに日常生活を送っていたのだが(旅行にすら出かけた)、今夜になってやっと、無事回復したことを知った。
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母親が現実に死ぬかもと思いはじめてから、もう10年近くになる。
敗血症・脳梗塞・肝臓がんをそれぞれ乗り越えてきて、糖尿病ともずっとつきあっている。まだ他にもいろいろあったような気もするが、もはや思い出せない。
そこへきてコロナである。身内の罹患者は初めてだし、知り合いですらまだ1人しか知らない。
母親に関しては、少なくともこの10年ほどずっと、いつ死ぬかいつ死ぬかと折りに触れては思い出すので、長い間、お別れの精神的準備をしているような気分である。
お蔭で、もはやいつ死んでも大丈夫な気がしている。
もちろん、葬式で涙くらいは流すかもしれないが、それだけのことだ。
しょせん、ひとはみな死ぬのである。
息子に精神的準備期間をくれただけでもありがたい。
伊勢物語に
世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もと祈る人の子のため
という歌があるが、「さらぬ別れ」(避けられぬ別れ=死)はいつか必ず来ることがわかっているのだから、「千代もと祈る」ことすら私はしない。
詮のないことだからである。
いつのころからか、「家内安全」を祈るときにも、両親は外している。
どんな神仏であろうが、絶対に無理なことを頼まれても困るだろう。
元気だった父親も、卒寿を越えてしばらくしてからは介護認定を受けるくらいには弱っている。
さらぬ別れを、遠かれと思わないでもない。
だが、遠くなっても、長いお別れがさらに長く続くだけのことだ。
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生老病死とはよく言ったものである。
この四苦に続くのが愛別離苦であることもやるせない。
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