●「生きとうもんのほうが大事や」
「生きている者のほうが大切である」
まだ私が20歳にもならないころ、知人の通夜に向かう車の中で、母親が私に言った言葉だ。
翌日に大学のフランス語の試験を控え、一夜漬けで勉強しようという計画?が頓挫した私が、「お通夜に伺ってそそくさと帰るわけにもいかへんし、明日の葬式には出られへんし・・・」とちょっと困っていると、母親が「生きとうもんのほうが大事や」と言ったのである。
幼いころから死に対する感傷を抱えていた私は、もしかするとお通夜なんかに行くのも初めてだったかもしれず、「ものすごい冷酷なことを言うなあ」と内心穏やかではなかった。
と同時に、大人の余裕というか、物事に動じないところにはちょっと感心してもいた。
知人といっても、老人の大往生ではないのである。小さいころにお世話になっていた近所のおばさんの娘さんで、当時たぶん、40歳前後だったのではないかと思う。
夫婦でテニスをしにコートまで出かけたが、忘れ物を取りに帰ろうと娘さんだけで車を運転中、交通事故に遭ったというようなことだったと記憶している。
突然娘に先立たれたおばさんの心中はいかばかりかと思うと、フランス語の試験なんてほんとにどうでもいいことのように思えるのだが、そうはいっても現実問題として、単位を取れずにもう半年か1年同じ科目を履修するというのも確かに避けたかった。
結局、お通夜には出席して、早々に帰宅した。
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後年、あのときの「生きとうもんのほうが大事や」というのは、太平洋戦争中、幼かった母親に祖母が言っていた言葉をそのまま繰り返していただけなのではないかと思うようになった。
死が周囲にあふれていて、自分にも近々訪れる可能性があり、かつ、毎日食べて生きていくこと自体が困難であるとき、ほとんどの人は死者にかまっている余裕はない。
「生きている者のほうが大切だ」と言い聞かせて、死者を顧みない自分たちを免罪しなければ、生きていくのが辛かった時代の言葉なのだろうと思う。
母親はたぶん、深く考えもせず、戦時中にしょっちゅう聞かされていたフレーズを口にしただけなのだ。
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その母親が他界した。
先日ここに書いたとおり、「敗血症・脳梗塞・肝臓がんをそれぞれ乗り越えてきて、糖尿病ともずっとつきあってい」た母親である。
もう一つ忘れていたが、パーキンソン病とも診断されており、脳梗塞の後遺症とも相まって、歩けなくなっていた。
最後は新型コロナに感染し、せっかくそれを生き延びたのに、後遺症もあったのだろうか、体が弱って食事が取れなくなって亡くなった。
食事が取れなくなってきたというので、その対策を相談しようと、母親にも会うことになっていた、その前日に死んでしまった。
これがその翌日なら、「最後に顔が見られてよかった」と思えたのだが、「明日会えたのに」と、ちょっと無念に感じながら遺体と対面する羽目になったのは、コロナ禍で碌に面会もできないことをそれほど不自由にも感じていなかった罰なのかもしれない。
額に手を置いて、「あんまり会いに行けなくてごめんな」と今さら懺悔しても、死者には何も伝わらない。
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唯一よかったのは、コロナ死ではなかったことである。
専門家が「死体は呼吸しません、死体からは感染しません」と力説しているにもかかわらず、亡骸を袋に入れられて、顔も碌に見られないまま荼毘に付されてしまう理不尽を嘆いた遺族のことを思えば、立派な布団を掛けられて、きれいに死に化粧をしてもらった母親に触れ、眉毛や睫毛まで生きているかのように感じられたのは、僥倖と言ってもいい。
たとえばウクライナやコロナ死や大震災のことを思えば、人なみに通夜を執り行い、葬儀を出せるだけでも幸せだ。
(いまこれを書いているのは母親が没した当日だが、公開日時は葬儀後に設定している。)
いずれにせよ、母親なら、自分が死者の側である今こそ「生きとうもんのほうが大事や」と言ってくれそうな気がする。
やすらかに。
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