●だれかのいない世界
母親が他界してから2週間になる。
いわゆる?二七日(ふたなぬか)というやつだ。
あと5週間経てば七七日(なななぬか・しじゅうくにち)、満中陰だ。
別に仏教徒ではないのだが、父親は仏教徒っぽいし、今後も死者(=母親)への儀礼は仏教式で続いていく。
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ところで、というか、母親はもちろんもうこの世にいないのだが、仮にいたとしてもそれほど変わらない。
生きていて、もっとも頻繁に会っていたときですら、数か月に1度顔を合わせれば多いほうだっただろう。
別に仲が悪いわけではないし、帰省すればいろいろしゃべって一緒にお寿司を食べたりもするが(あ、たまには旅行にも行った)、手紙類は父親の出す印刷の年賀状だけだし、電話も滅多になかった。
なので、たった2週間の音信不通くらいでは、生きていようが死んでいようが大差ない。
あるとすれば、何かの折りに、「もう会うことも話すこともできなくなってしまった・・・」と考えるということだろうが、今後そういう感慨に耽ることはあるのだろうか。
考えてみると、母親に限らず、例えば小中高大学の同級生や複数の職場の元同僚・教え子など、ふだんから音信不通の人たちは、生きていようが死んでいようが大差はない。
まあ、たぶんほとんどは生きていて、まだこの世界にいるのだろうが、仮にこの世が彼(女)らのいない世界であっても、私にとっては何も変わらない。
少しでも何かが変わるとすれば、少なくとも10年に1度くらいは、会わないまでも何か音信があるとか、そういう人でないと、かつて何らかの縁を結んだことは、私の世界に何の影響も及ぼさない。
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たまに思い出すのだが、生死や行方のわからない、かつての友人・知人が数名いる。
特にそのうち一人は、こちらが努力して消息を尋ねたり探したりしても手がかりは得られない。
それこそ10年以上音信不通なのだし、別にあいつがこの世に存在しようがしまいが、この世界は何も変わらないのだが、間違いのない死者とは違って、またこの先、突然、この世界があいつのいる世界に変貌する可能性はある。
その点、死者は甦らない。二七日や七七日は輪廻転生の思想と密接に関わっているが、人類史上、実際に転生した者も(たぶん)存在しないし、まして甦った者などいない。
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この世界は、毎日毎日、というより、毎秒毎秒、だれかのいない世界へと変貌を遂げている。
だが、その変貌は、具体的な自分の生活に関わってこない限り、ほとんど感知されない。
であれば、だれかのいない世界は、いた世界とそれほど変わりがあるわけではない。
たとえそれが、自分の母親であったとしても。
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