★「老い」について
2025年の冷え込んだ歳末、「老い」について若い女性と語りあった。
「いちばん老いに抗いたくなったのはいつですか」と聞かれ、迷うことなく「今」と即答した。
思えば、このブログのプロフィールには「大阪北部(北摂)在住。40代。男。」と書いていたのだが、50歳を迎えたときに「40代」を削除して、年齢の記載をなくした。
嘘はつきたくなかったし、50代の自分には耐えられなかったからである。
でも、振り返れば50代はまだセーフだった気がする。
若い彼女もやはり「今」であるらしく、「男と女で違うかも」というのだが、それはそうだとしても、50代の女性だって、まだなんとかなっている。
森高千里は56歳らしいが、「奇跡の50代」も、美容外科的な手を入れないのであれば、「奇跡の60代」になることは難しい。もちろん、同世代の中で傑出していることに変わりはないとしても。
そういえば、数日後には、四半世紀くらい会っていない別の女性と会うことになっている(もちろんまったく浮いた話ではない)。
会うことが決まってから、「老いさらばえた顔をさらしたくない」という感情が芽生えて自分でも驚いた。しかしながら、相手のほうも、25歳がいきなり50歳になっているわけで、同じようなことを考えているかもしれない。
でも、繰り返すが、50歳はまだ大丈夫なのである。素敵な大人の女性になっているに違いない。
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思えば、少年のころから「自然体」を心がけてきた。何であれ、そのまま。
無理をしない、飾らない、そして、抗わない。
自然体と言えば聞こえはいいが、要するにあらゆる方面において努力しないので、青春・朱夏・白秋・・・と来た現在、なにもかもがぱっとしない、「それなり」に落ちついている。
自分の選択ではあるので大きな後悔はないのだが、ここまでぱっとしないというのも、まったく残念ではないかというと、やはりそう割り切れるものではない。
運よくもうちょっと何とかなった可能性までなくしてしまった今となっては、いくばくかの寂寥を禁じ得ない。
だが、振り返って、こうならないためにもっと何かに向けて歩めたかといえば、否、いずれにせよ、おそらくこのあたりに落ちついただろうと思う。
要するに、「自然に」こうなってしまったものは今さらしかたないのだ。
その中でも、もっともどうしようもないのが「老い」である。
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私とはまったく違う、窯から取り出したばかりの白磁のような肌をした目の前の若い女性も、やはり、抗いたいのはまさに今だという。
朱夏ほとばしる彼女だが、ほうれい線は気になるし、皺の中にファンデーションが入り込むようになったのだと嘆く。
そのどちらもこちらからは見てとれないが、まあ確かに10代には見えないので、本人的にはそろそろ「来ている」感じがしているのだろうとは思う。
でもだからといって、どんなふうに抗うつもりなのだろう?
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実はというか、私自身は数か月前から「自然体」を少し捨てて、実際に抗いはじめている。
しかし、8か月ぶりくらいに会った彼女に、「ぼく、変わってない?」と聞くと、変わりないという答が返ってきた。
その言葉を額面どおりに信じるとして、変わっていないのはふつうならいいことなのだが、抗った効果が見えないということだから、今回に限っては素直によろこべない。
まあ、自然体を放棄していかに抗おうが、「老い」というのは、ぼくには ──そして切ないことに彼女にとっても── まったく勝ち目のない相手なのである。


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