2024.09.05

■働くおじさん

 その昔、「はたらくおじさん」という教育番組がNHKで放送されていた。
 今でもやってるのかな?
 似たような番組ならあるかもしれないが、今ならそのタイトルで放送することは不可能だろう。おばさんだって働いていることを度外視してつけられた番組名が時代を感じさせる。

 急に「はたらくおじさん」を思い出したのは、昨日まで2泊したホテルの経営者が、絵に描いたような「働くおじさん」だったからだ。
 とにかく笑顔で細部にまで気を配りつつ、ずっと立ち働いている。近所の人?や泊まり客との会話も、楽しそうに自然にこなしている。もはや、ホテルを運営していくことが生活そのものであるように見えた。

 このホテルが、今回のポルトガル(+スペイン)旅行で泊まる唯一の「ふつうの」ホテルなのだが、その建物の外観や部屋の様子から、ちょっときれいなビジネスホテル的なものを想像していた。フロントには若い男女がひとりずつならび、ビジネスライクにチェックインの手続きをするようなイメージだ。

 ところが、出迎えてくれたのは、英語を話さないおじさんひとり。それが経営者だと後(のち)にわかるのだが、当初は「こんな現代的なホテルで英語を話さないフロントとは・・・」と、驚いたものだ。

 あとで、Google Street View の過去写真とおじさんの話からわかったところによると、もともとは家族経営のホステルで、昔よく大陸ヨーロッパの田舎でわれわれが泊まっていたようなタイプの宿だったらしい。そういうところのご主人や女将は、たしかにたいてい英語を話さなかった。
(ただ、ちょっと違うのは、ホステルの一階で大きなレストランをやっており、地元の結婚式の会場などにも使われていたということであった。)
 その建物を、新築したかのように改築し、現代的なホテルに衣替えしている。隣には伝統を引き継ぐレストランも(たぶん)新築されていたが、残念ながら利用する機会はなかった。

 さて、そのおじさんの姿を見ない時はなく、滞在中、部屋を出て下に降りると常に何かしら働いていた。
 朝食の際の食品補充や清掃のマメさは特筆もので、よくもまあ、こんなに働くなあと感心していた。
 また、車の荷物を取るために夜遅くおりていくと、フロントで何やら事務仕事をしていた。

 3日目の朝、「いつも勤勉にお仕事をなさっているようですが、お休みを取ることはあるのですか?」と、Google の翻訳を使ってフランス語で聞いてみた。
 すると、案の定、Non である。土曜も日曜も含め、だいたい毎日15時間働いているというのだ。おおげさではなく、確かにそんな感じである。人を雇ってシフトを組むこともできそうなものだが、そういうことをしそうなタイプではない。そもそもが働き者だし、細部まで自分でやっておきたい性分も見てとれた。

 そして何より、楽しく仕事をしているのだ。マメに動き回られても、本人が楽しそうだからだろう、せわしなくて落ち着かないような感じをこちらに抱かせない。
 上に「ホテルを運営していくことが生活そのものであるように見えた」と書いたが、もっと言えば、人生そのものであるようにも見えた。
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 今日は世界遺産になっているトマールの修道院を見学した。
 修道女たちがどういう生活をしていたのかは想像するしかないが、彼女たちもまた、修道院での祈りと仕事が生活そのものであり、ひいては人生そのものだったのだろうと思う。

 ひるがえって私は、けっして「働くおじさん」ではなく、ホモ・ルーデンス、つまりは「遊ぶおじさん」でありたいと思っている。間違っても、ホテルのおじさんや修道女のような生活・人生は送れない。

 だが、(内実を知らなすぎる)修道女はともかく、ホテルのおじさんに関しては、あのように働くことがすなわち「遊び」なのかもしれないとも考える。
 毎日15時間も働くのはいったい何のためなのか、と私なんかは考えてしまうのだが、働くこと自体が喜びであり遊びであり、それ自体がまさに生活であり人生なのだと、ほんの少しはわかったような気にもなる。

 近年、学校の教師の仕事がブラックだという話が人口に膾炙している。
 しかし、現在でも一部の教師はそうであるように、彼(女)らはまさに「働くおじさん(おばさん)」なのだと思う。何か別の生活や人生のために教師の仕事をしているのではなく、教師の仕事そのものが生活であり人生なのだ。そういう人たちにとっては、仕事はけっしてブラックではない。

 ややこしいのは、現代ではもはや、自律的に教師の仕事をまっとうできるような環境が滅多にないことであろう。お役所的なやらされ仕事にあふれ、教育を生活や人生にしたいようなタイプの教師すら、それができなくなっている。
 そうなってしまうと、生活であり人生であってもよかったはずの仕事が、ブラック労働に変質してしまうのである。

 まあしかし、仕事は仕事、生活は生活、休暇は休暇、遊びは遊び、人生は人生・・・というのが日本の戦後、というか、ポスト高度成長の時代では主流だろう。私もいつの間にかそういう感覚を身につけてきた。
 でももしかして、何かのきっかけやタイミングで、あの働くおじさんのように、仕事と生活と人生とが一つになっていたかもしれないという気も、ちょっとするのだ。

 それはそれで、いい人生になったかもしれない・・・けれど、やっぱり自分には無理だな😅

(※「ブラック」という形容詞の使い方には問題があると思いますが、世間の表現にあわせて使用しております。)

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2023.02.27

◆狂犬病か恐水病か

 以前、ERだったかグレイズ・アナトミーだったか、医療系のアメリカドラマで、"rabies" を「恐水病」と訳していて、何のことだかわからなかった経験をどこかに書いた。

 そのときは ポリティカル・コレクトネスの問題かと思っていたが、朝日新聞のbe「サザエさんをさがして」で「狂犬病」が大きく取り上げられていた(2023年2月25日)。

 「サザエさん」(1947年3月7日)では、狂犬病の犬(だと勘違いしたヤギ)に追いかけられて池に飛び込む男性の姿が描かれているのだが、それを解説した記事では、なぜこの男性が池に飛び込むのかにはまったく触れられていないし、恐水病の恐の字も出てこない。ずっと一貫して「狂犬病」である。
 おそらく、狂犬病に罹った犬が水を恐れること自体、記者は知らなかったと思われる。

 「狂犬病」が別に問題のない言葉だとすると、冒頭のアメリカドラマの翻訳は、狂犬病を知らない若い?翻訳者が、特定の辞書を引いただけでそのまま訳語を採用した可能性が高いのだろうか。

 その回の鍵概念・キーワードだったので、「恐水病」がわからなくて興味半減、何のことかと再生停止して調べたりした。

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『ランダムハウス英和大辞典』第2版(小学館)

ra·bies [réibiːz]

n. 〘病理〙 恐水病,狂犬病(hydrophobia):犬や猫,その他の動物のかかる伝染病; ラブドウイルス群のリボ核酸(RNA)ウイルスが病原; 人間は主に感染した犬にかまれて発病する.

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2022.12.03

★喪中につき年末年始のご挨拶を失礼させていただきます

 いつも年始のご挨拶は欠かしていないと思うのですが、喪中につき(と言いつつぜんぜん喪に服している感じではありませんが)年末年始のご挨拶を失礼させていただきます(決まり文句ですが、年始はともかく、年末のご挨拶って何なんでしょうね。お歳暮? それなら毎年失礼してるし、もしかして「よいお年を」のことでしょうか。それなら先日、「ちょっと早いですが」と言いながら、もう言ってしまった気もします😅)。

 このブログにも書きましたが、3月に母親を、7月に義姉を、8月に父親を亡くしました。両親は高齢ですが、義姉は同い年でした。

 両親も、まだあと数年は・・・という感じもあり、大往生というふうには受け止められていません。
 私自身も信じられないような年齢になってしまいましたが、これまでに近しい血縁者を亡くしたのは祖母2人のみで、それも十数年おきくらいでしたので、1年に3人はそれなりにきついものがありました(義姉とは血縁はありませんが、何しろ若いのがこたえます)。
 今年はその他にもつらいことがあり、まあ相変わらず平凡な日常を送り続けられてはいるものの、そのことに感謝できるような心境ではありません。

 そんな今年もまもなく終わり、新たな年がやってきます。
 来年こそはよい年であるようにと、毎年決まり文句のように繰り返していた言葉が、今年は少しだけ実感を伴って身に沁みます。

 ウクライナの受難(に限らず世界中でさまざまな戦争・紛争・テロ・飢餓など)やコロナ禍もあり、また、そうでなくとも、今年もさまざまな人々が亡くなりました。ただ、その中に身内が複数含まれていることが例年とは異なり、死や、むしろ生について考えさせられる年でした。

 兵士の母に向かってプーチンが「人は誰でもいつかは死ぬものだ。問題はどう生きたかだ」と語ったというのですが、(その非道さは別にして)問題はもう一つ、「いつ死ぬのかだ」と思います。「いつかは死ぬもの」ではあっても、「いや、今じゃない」のではないでしょうか。

 母親は、急にものが食べられなくなってきたというので、その対処について話しあうために会いに行くことになっていた日の、前日に亡くなりました。
 父親は、病院を退院して高齢者住宅に移った6日後に亡くなりました。
 義姉は、おめでたい誕生日を迎えることなく亡くなりました。


 自分が「どう生きたか」には自信は持てませんが、もうそれでいいのだと開き直りつつあります。
 「いつ死ぬのか」に関しては、「今でしょ」と思えるときが来るのかどうか、わかりません。とりあえず、父親の年齢を超えるまではそれなりに健康で生きられたら・・・と願うばかりです。

 長くなってしまいました。
 急に冷え込んできましたが、ご自愛の上、よいお年をお迎えください(あ、年末の挨拶をしちゃった😅)。

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2022.08.30

★初めての写経

 父母の葬儀や法要を執り行ってくれた(る)僧侶に言われて、般若心経を写経している。

 正直、はた迷惑な話だが、「写経をして四十九日に持参しなさい」と言われて、「嫌です」というのも角が立つので、仕方なくだ。

 重い腰が上がらず放置していたのだが、以前買った新品の筆ペンがあると家人が言うので、少し書いてみた。

 想像より量は少なく、ものの20〜30分で終わりそうではあるが、何しろ字を書くことなどこの30年以上ほとんどないので、なかなかに疲れる。

 職場で、「よろしくお願いいたします」と自分の名前とをポストイットに書くのすら面倒なのに、筆ペンで写経というのはハードルが高い。
 それでも、なんとか半分くらいは書いた。

 「こんなに字を書くことが他にあるかなあ・・・」と考えてみると、唯一、年賀状の表書きだけがあった。
 しかし、それも数年前にやめてしまった。

 もはや、字を書くことはほとんどない。

 気が小さくて「やめたい」と言うことができず、小中高と12年間も仕方なく通っていた書道教室で培った中途半端な腕を、発揮する機会はほぼ絶無だ。
 中学に入るときとか高校に入るときとか、やめるきっかけはあったのに(そして実際、そのタイミングでみんなやめていったのに)、ずるずると厭々つづけていたのは、いったいなんのためだったのか。
 通っている高校生は、私ただひとりであった。

 情けない話だが、大学に入り、通学に時間がかかるからという理由でやめることができたときには、ほんとにほっとした。

 もっと真面目に取り組んでいれば・・・というふうにも、ほとんど思わない。


 ただまあ、お蔭で、般若心経を写経しても、字が下手すぎて見られない・・・というほどではない。
 もとより、薄い文字をなぞるだけなのだから当然なのだが、これとて、書道をやったことがなければ悲惨な文字の羅列になったことだろう。

 これが少しでも父母の供養になるというのであれば、せめて厭々ではなく、なんとか最後まで写経したい。

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2022.08.09

★生前整理・・・

 過日、1か月以上入院していた父親が退院することになり、コロナで面会もできなかったことから、会えるのをそれなりに楽しみにしつつ、実家近くの病院まで迎えに行った。

 行けそうなら、退院祝いに寿司でも一緒に食べに行こうかと思っていたのだが、出て来た父親を見ると、すでに立って歩けなくなっていて、呼吸もちょっとままならないような様子であった。
 太ももを見ると、痩せ細って小枝のようになっている。

 これが自宅なら、救急車を呼ぼうかと思うような状態だし、今すぐ病室に戻してほしいような気もしたが、退院せよというのだから仕方がない。
 退院する2週間くらい前に、療養型病院に転院させてくれないかとも頼んだのだが、「病院で診なければならないような状態ではない」という判断であった。

 車椅子を押して、弟と一緒に病院の玄関まで連れていき、私は駐車場から車を出して、車寄せへと向かう。

 幸い、車椅子から車への移乗(これってテクニカルタームですね)は何とか自力でできる。つまり、とりあえず何かにつかまれば立てるというくらいだ。
 4月に母親の四十九日の法要をしたときには、ふつうにとは言わないまでも歩いていたし、場を主宰することもできていたのに、数か月でたいへんな衰えようである。
 もちろん口には出さないが、年は越えられそうにないな、とは思った。

 サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)に連れていってからも、たとえば車椅子からベッドに移乗するだけで息が切れ、5分10分と呼吸を整えないと何もできないというような状況だった。
 サ高住で待っていたケアマネージャーも心配してくれ、ホーム長にパルスオキシメーターを持ってきてもらって、経皮的動脈血酸素飽和度(SpO2)を測定してもらった。
 最初右手でやったときに低かったのでびっくりしていたが、手が冷えているからかもということで左手に変えると正常だったようだ。

 「サ高住ではどうにもならないのではないか」と心配したが、受け入れ側はプロなので、私たちほどうろたえていなかったし、そのうち少しは体調も回復してきて、自分で車椅子に乗ってベッドとトイレを往復できることがわかり、ちょっとほっとした。
 近くのスーパーで買ってきた巻き寿司も、2つだけだがまあ食べた。聞けば、病院食をずっと完食していたのに、体重が11kgも減ったのだという(あとで弟が16kgだと言っていた。どちらが正しいのかはわからない)。

 多くは弟に頼ったが、サ高住とはいえ、人ひとりがそこで暮らすためには、運び込む荷物もけっこう大変である。まず、借りた医療ベッドにマットと布団を敷き、掃き出し窓にカーテンをかけるところから始めなければならなかった。
 冷蔵庫や洗濯機は兄弟3人が揃う8月20日に運ぶことにして、それまでの算段やら軽トラの手配やら、ここに書き切れないもろもろがあった。

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 入院時や退院時と相前後して、何度か実家に寄り、生前整理をする必要に迫られた。

 新聞を休止するのから始まり、いろんなところに解約の連絡等をしていく。
 愚にもつかない健康食品やらサプリメントやら野菜ジュースやら青汁やらを、いずれも定期購入しているのに嘆息する。
 極めつけはウォーターサーバーで、喜んで元気に使っているときから懐疑的だったのだが、やはりというか、面倒くさそうな会社の商品だった。そもそも、毎月5千円近くを飲み水に費やしているのが信じられない。上記もろもろを含め、毎月いったいいくら支払っていたのやら。
 まあ、だから90歳を超えても元気だったのだと言われれば、関係ないとは思うものの、そうではないと断言はできないのだが。

 ウォーターサーバーの会社に電話すると、「契約申込時の電話番号と違う」と自動音声に文句をつけられ、一方的に切られてしまってそれ以上進めない。門前払いである。
 仕方なく、父親が契約に使ったと思しき固定電話からかけ直し、当時はまだ帰宅する可能性があったので、自動音声相手に次回配送を9月に延ばしてもらう手続きをした。携帯で契約していなくて幸いだった。

 この会社、解約しようとすると解約金やら何やら法外な金額を要求してきそうだ・・・と取り越し苦労をしていたが、その後、解約の連絡がメールででき、「長年お使いくださっていたので特別に解約金はなしで・・・」のようなニュアンスで無事解約することができた。
 ただ、巨大なウォーターサーバーを回収しないといけないというので、その手続きや費用もばかにならない。比較的近所に住んでいる弟の家にいったん移して、そこから回収してもらうことにした。
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 インターネットを解約しようとすると、そこにケーブルテレビとNHKと電話もついていた。さらには電気までネット会社(eo光)で契約していることがわかった。
 電話番号に未練はあったのだが(私が小学校1年生の絵日記に書いた電話で、下4桁が7555なのである)、兄弟で相談して電気以外はすべて解約することにした。

 それを父親に(LINEで)説明し、了解を得る(電話がかかってきた)のがちょっとした苦労だった。何しろ息も絶え絶えに話すので、電話では何を言っているのかが非常にわかりにくい。ぜんぶ録音されるようになっているので、切ってからそれを聞くと、2度目ということもあってまあわかったのだが、電話している最中は、ほんとに苦労した。

 サ高住に入ってから、LINEでの簡単なやり取りのほかに、3回ほど電話があった。

 最後の電話は、3食出してくれる食事を、旅行に行くときなど、食べないときはどうすればいいのかと聞いたりするもので、「この期に及んでまだ旅行するつもりか」と、うれしいやら悲しいやら可笑しいやら・・・だったのだが、その翌日には、実際、旅に出ることになった。
 もちろん、気楽な温泉旅行などに行けるわけもなく、帰ることのできない永遠の旅となってしまったけれども。

 「後を追うように」というには少し長いような気もするが、母親が死んでから5か月足らずであった。

 せっかく病院を退院したのに、サ高住に入居してからわずか6日で、92年と2か月あまりの生涯を閉じ、きょうが告別式だった。
 2週間前に義姉のそれを終えたばかりだというのに。

 「コーヒーが飲みたい」と言っていたので、私が送ったドリップパックが到着する日に、到着を待たずに死んでしまった。
 前日の夕方には、弟が組み立て家具を用意し、3つのうち2つを苦労して組み立てたところだった。

 通夜の日には、入院直前に父親が購入した宝くじを手に、兄が半ば本気で怒っていた。
 あの年齢であの健康状態で、たとえば3億円が当たったとして、いったいどうするつもりだったのか、どういうつもりで1万円近くを無駄に浪費したのか、というのである。

 まあもちろん当たらないのだが、仮に高額当選したとしても、それを私たちに残そうとしていたとは思わない。
 たぶん、人生はずっと続いていくと漠然と考え、従前の生活習慣を漫然と続けていただけなのではなかろうか。
 兄には理解できないようだが、まあ人間、ふつうはそんなものだと私は思う。
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 もともとは「生前整理」というブログを書こうとしていたのだが、書く前にこうなってしまい、「・・・」がつくこととなった。

 告別式の後、お骨揚げを待つ間に、まだまだ片付かない実家に寄り、ふだんほとんど入らなかった寝室を覗くと、3月に亡くなった母親の衣服が、まだいくつも壁に掛かったままであった。

 両親ともに他界して、これから死後整理が始まる。

 立秋は過ぎているが、長い夏になりそうである。

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2022.07.25

●いつもとは違う通夜

 先日、父親が入院したあと、いちど病院と実家へ行ってもろもろの用事を片付けた帰り、兄から電話がかかってきたのを車の中で受けた(ハンズフリーです)。

 父親の退院後の生活について相談していると、兄が「○○も末期がんやし、どっちが早いかわからんなあ」というようなことを口走った。

 「え? だれが末期がんやて?」
 「○○や」

 義姉、つまり、兄の配偶者である。私と同い年だ。

 10年以上前に乳がんを発症し、その後も完治とはいかないらしいのは知っていたが、まさか末期だとは知らなかった。

 その2か月ほど前には、遠方から母の四十九日に元気に?来てくれていたのである。
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 きょう、その義姉の通夜を終えた。明日は告別式だ。

 こんなに若い身内を見送るのは初めてである。
 いつもの(まあ順番だから仕方ないよね)感を伴う親戚の集まりではなく、「もっとええことで会えたらよかったのになあ」という定番の軽口をたたく者もいない。

 残された長女が弔辞を読むに至って、葬儀場にはすすり泣きの音がいつにも増して響きわたる。
 現役世代なので、親類ではない弔問客も後を絶たない。
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 理不尽な死である。なにせ、娘を見送る母親が通夜に来ているのだ。

 今年に入って、うちの母親と義姉が亡くなった。父親だって年を越えられるかどうかわからない。

 死だとか生だとかについて、以前にも増して考えるようになった。
 死生観というような大げさなことではないが、なんかそういうものも変化しつつある。

 死者はむろん、何も語らない。
 生きている者が、語りかけられたように感じるだけだ。

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2022.03.31

●だれかのいない世界

 母親が他界してから2週間になる。

 いわゆる?二七日(ふたなぬか)というやつだ。

 あと5週間経てば七七日(なななぬか・しじゅうくにち)、満中陰だ。

 別に仏教徒ではないのだが、父親は仏教徒っぽいし、今後も死者(=母親)への儀礼は仏教式で続いていく。
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 ところで、というか、母親はもちろんもうこの世にいないのだが、仮にいたとしてもそれほど変わらない。

 生きていて、もっとも頻繁に会っていたときですら、数か月に1度顔を合わせれば多いほうだっただろう。
 別に仲が悪いわけではないし、帰省すればいろいろしゃべって一緒にお寿司を食べたりもするが(あ、たまには旅行にも行った)、手紙類は父親の出す印刷の年賀状だけだし、電話も滅多になかった。

 なので、たった2週間の音信不通くらいでは、生きていようが死んでいようが大差ない。

 あるとすれば、何かの折りに、「もう会うことも話すこともできなくなってしまった・・・」と考えるということだろうが、今後そういう感慨に耽ることはあるのだろうか。

 考えてみると、母親に限らず、例えば小中高大学の同級生や複数の職場の元同僚・教え子など、ふだんから音信不通の人たちは、生きていようが死んでいようが大差はない。
 まあ、たぶんほとんどは生きていて、まだこの世界にいるのだろうが、仮にこの世が彼(女)らのいない世界であっても、私にとっては何も変わらない。

 少しでも何かが変わるとすれば、少なくとも10年に1度くらいは、会わないまでも何か音信があるとか、そういう人でないと、かつて何らかの縁を結んだことは、私の世界に何の影響も及ぼさない。
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 たまに思い出すのだが、生死や行方のわからない、かつての友人・知人が数名いる。

 特にそのうち一人は、こちらが努力して消息を尋ねたり探したりしても手がかりは得られない。

 それこそ10年以上音信不通なのだし、別にあいつがこの世に存在しようがしまいが、この世界は何も変わらないのだが、間違いのない死者とは違って、またこの先、突然、この世界があいつのいる世界に変貌する可能性はある。

 その点、死者は甦らない。二七日や七七日は輪廻転生の思想と密接に関わっているが、人類史上、実際に転生した者も(たぶん)存在しないし、まして甦った者などいない。
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 この世界は、毎日毎日、というより、毎秒毎秒、だれかのいない世界へと変貌を遂げている。

 だが、その変貌は、具体的な自分の生活に関わってこない限り、ほとんど感知されない。

 であれば、だれかのいない世界は、いた世界とそれほど変わりがあるわけではない。

 たとえそれが、自分の母親であったとしても。

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2022.03.20

●「生きとうもんのほうが大事や」

 「生きている者のほうが大切である」

 まだ私が20歳にもならないころ、知人の通夜に向かう車の中で、母親が私に言った言葉だ。

 翌日に大学のフランス語の試験を控え、一夜漬けで勉強しようという計画?が頓挫した私が、「お通夜に伺ってそそくさと帰るわけにもいかへんし、明日の葬式には出られへんし・・・」とちょっと困っていると、母親が「生きとうもんのほうが大事や」と言ったのである。

 幼いころから死に対する感傷を抱えていた私は、もしかするとお通夜なんかに行くのも初めてだったかもしれず、「ものすごい冷酷なことを言うなあ」と内心穏やかではなかった。
 と同時に、大人の余裕というか、物事に動じないところにはちょっと感心してもいた。

 知人といっても、老人の大往生ではないのである。小さいころにお世話になっていた近所のおばさんの娘さんで、当時たぶん、40歳前後だったのではないかと思う。
 夫婦でテニスをしにコートまで出かけたが、忘れ物を取りに帰ろうと娘さんだけで車を運転中、交通事故に遭ったというようなことだったと記憶している。

 突然娘に先立たれたおばさんの心中はいかばかりかと思うと、フランス語の試験なんてほんとにどうでもいいことのように思えるのだが、そうはいっても現実問題として、単位を取れずにもう半年か1年同じ科目を履修するというのも確かに避けたかった。

 結局、お通夜には出席して、早々に帰宅した。
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 後年、あのときの「生きとうもんのほうが大事や」というのは、太平洋戦争中、幼かった母親に祖母が言っていた言葉をそのまま繰り返していただけなのではないかと思うようになった。

 死が周囲にあふれていて、自分にも近々訪れる可能性があり、かつ、毎日食べて生きていくこと自体が困難であるとき、ほとんどの人は死者にかまっている余裕はない。
 「生きている者のほうが大切だ」と言い聞かせて、死者を顧みない自分たちを免罪しなければ、生きていくのが辛かった時代の言葉なのだろうと思う。

 母親はたぶん、深く考えもせず、戦時中にしょっちゅう聞かされていたフレーズを口にしただけなのだ。
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 その母親が他界した。

 先日ここに書いたとおり、「敗血症・脳梗塞・肝臓がんをそれぞれ乗り越えてきて、糖尿病ともずっとつきあってい」た母親である。
 もう一つ忘れていたが、パーキンソン病とも診断されており、脳梗塞の後遺症とも相まって、歩けなくなっていた。

 最後は新型コロナに感染し、せっかくそれを生き延びたのに、後遺症もあったのだろうか、体が弱って食事が取れなくなって亡くなった。

 食事が取れなくなってきたというので、その対策を相談しようと、母親にも会うことになっていた、その前日に死んでしまった。

 これがその翌日なら、「最後に顔が見られてよかった」と思えたのだが、「明日会えたのに」と、ちょっと無念に感じながら遺体と対面する羽目になったのは、コロナ禍で碌に面会もできないことをそれほど不自由にも感じていなかった罰なのかもしれない。

 額に手を置いて、「あんまり会いに行けなくてごめんな」と今さら懺悔しても、死者には何も伝わらない。
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 唯一よかったのは、コロナ死ではなかったことである。

 専門家が「死体は呼吸しません、死体からは感染しません」と力説しているにもかかわらず、亡骸を袋に入れられて、顔も碌に見られないまま荼毘に付されてしまう理不尽を嘆いた遺族のことを思えば、立派な布団を掛けられて、きれいに死に化粧をしてもらった母親に触れ、眉毛や睫毛まで生きているかのように感じられたのは、僥倖と言ってもいい。

 たとえばウクライナやコロナ死や大震災のことを思えば、人なみに通夜を執り行い、葬儀を出せるだけでも幸せだ。
(いまこれを書いているのは母親が没した当日だが、公開日時は葬儀後に設定している。)


 いずれにせよ、母親なら、自分が死者の側である今こそ「生きとうもんのほうが大事や」と言ってくれそうな気がする。

 やすらかに。

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2022.02.28

◆長いお別れ

 標題は、レイモンド・チャンドラーの小説とは何の関係もない。 
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 もう先々週のことになるが、高齢者施設に入所している母親がコロナに罹ったという知らせを受けた。

 調べてみると、クラスタとしてニュースにもなっていた。

 まあ、半々くらいで覚悟はしつつ、ふつうに日常生活を送っていたのだが(旅行にすら出かけた)、今夜になってやっと、無事回復したことを知った。
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 母親が現実に死ぬかもと思いはじめてから、もう10年近くになる。

 敗血症・脳梗塞・肝臓がんをそれぞれ乗り越えてきて、糖尿病ともずっとつきあっている。まだ他にもいろいろあったような気もするが、もはや思い出せない。
 そこへきてコロナである。身内の罹患者は初めてだし、知り合いですらまだ1人しか知らない。

 母親に関しては、少なくともこの10年ほどずっと、いつ死ぬかいつ死ぬかと折りに触れては思い出すので、長い間、お別れの精神的準備をしているような気分である。

 お蔭で、もはやいつ死んでも大丈夫な気がしている。
 もちろん、葬式で涙くらいは流すかもしれないが、それだけのことだ。
 しょせん、ひとはみな死ぬのである。

 息子に精神的準備期間をくれただけでもありがたい。

 伊勢物語に

  世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もと祈る人の子のため

という歌があるが、「さらぬ別れ」(避けられぬ別れ=死)はいつか必ず来ることがわかっているのだから、「千代もと祈る」ことすら私はしない。
 詮のないことだからである。

 いつのころからか、「家内安全」を祈るときにも、両親は外している。
 どんな神仏であろうが、絶対に無理なことを頼まれても困るだろう。

 元気だった父親も、卒寿を越えてしばらくしてからは介護認定を受けるくらいには弱っている。

 さらぬ別れを、遠かれと思わないでもない。

 だが、遠くなっても、長いお別れがさらに長く続くだけのことだ。
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 生老病死とはよく言ったものである。
 この四苦に続くのが愛別離苦であることもやるせない。

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2020.11.29

●謎のB型肝炎

 職場の健康診断で息子が「B型肝炎の疑い」を告げられた。

 「C型肝炎」の欄には「著変なし」と書いてあった。

 だが、結果の紙を隅から隅まで詳しく見ても、どうして「B型肝炎の疑い」があるのか、逆に、なぜC型肝炎の疑いはない(「著変なし」って妙なギョウカイ用語だけど)のかがわからない。

 なにしろ、抗原検査や抗体検査をした形跡自体がない!のである(いわんやDNAのPCR検査をや)。

 なのになぜB型肝炎の疑いがあり、C型肝炎のそれはないと判断できるのか。

 確かに、肝臓検査の項目のうち、ひとつだけがほんの少し、基準値を超えている。息子の年齢では珍しいだろう。
 しかし、その項目で考えられる疾患をいくらネットで調べても、肝炎は出てこない。

 その時点で考えたのは、健康診断で出た種々の数値を総合的・俯瞰的(冷笑)にAIが判定し、疫学的?に「こういう場合はB型肝炎の疑いがある」と判断したのだろうか・・・ということだった。

 でもまあ、素人判断だとはいえ、健康診断の結果をどう見ても、「B型肝炎の疑い」など感じられない。
 その時点で、「99.9%間違いやで」とLINEで伝えたが(フォーナインにするほどの自信はなかった)、現状では治癒しない疾患だし、感染症でもあるし、心穏やかではいられなかった。
 愚かな息子はB型肝炎がどんな病気かも知らず、ひたすら怯えて「入院なんていやだよ」とか言っている。
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 昔は予防接種の注射針を使い回したりしていたため、医療行為が原因の肝炎がかなりの広がりを見せている。

 今でも鮮明に覚えているのだが、私の小学校時代の集団接種の折りには、ワクチンの入った透明のガラスシリンダに青いピストンの注射器をトレーのうえにずらりと並べ、1本で3〜4人に接種していた。
 私は幼いころからどちらかというと潔癖症なので、他人の体に刺した針をまた自分に刺されるのが嫌でたまらず、ちょうど新しい1本になったところで自分の番が来ることを、毎回切に祈っていたものだ。

 数十年前とはいえ、小学生でもわかるような「汚い」行為が感染を引き起こす可能性について、政府から末端の医師までの誰もが思い至らなかったというのは、恐るべきことである。
 いや、もしかすると「その針、イヤや。新しいのんに変えて」と言い出せなかった小学生同様、厚生省などの方針に大人も口を出せなかったのかもしれない・・・とも、今では考える。

 いずれにせよ、結果として、多くの人々を肝炎や肝癌で苦しめ、時には死に追いやり(大学の同級生のひとりも、妻子を残して若くして死んだ)、最高4000万円を被害者に給付するというような仕儀に陥っている(予防接種だけではなく、輸血や血液製剤によるものも同様だ)。
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 さて、B型肝炎の代表的な感染経路は、母子感染・血液感染・性感染である。詳細は省くが、息子は間違いなく(親が断言できるところが情けないのだが)、このどれにも該当しない。

 ただひとつの可能性は、医療行為による血液感染である。特に、今年1月に比較的大きな手術を受けているので、それが怪しいといえば怪しい。

 だが、一流の大学病院で執刀された2020年の手術で、肝炎に感染したりするだろうか?

 手術前には緊急時の輸血のためにあらかじめ自己血を採血しているのだが、それすら使わなかったと聞いているし、ましてや他人の血液は使っていない。
 (もちろん、仮に使っていたとしても、現在ではきちんとスクリーニングされていて、輸血で感染する確率は極めて低い。)

 可能性としては、手術に使った器具が汚染されていたか・・・

 考えても仕方がないのだが、万一感染が確定した場合、大学病院を相手に訴訟を起こすことになるのだろうか、でも、どうやって手術による感染(それ以外の感染経路はないこと)を証明できるだろう? どう考えても不可能だ・・・などという思いが頭をよぎる。
 手術をした病院に息子が「B型肝炎の疑い」を告げると、「それはすみません」(たぶん何気ない挨拶のようなものだろう)と言われたというのだが、まさか、集団感染で同様の訴えが相次いでいるのではあるまいな・・・と、あらぬことまで考えてしまう。

 病気そのものの心配に加え、感染源のミステリー、さらには今後の取り越し苦労までを折り込んで、落ち着かない10日間ほどを過ごすことになった。
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 職場の人に勧められた(なんと息子は、すでにB型肝炎(の疑い)をカミングアウトしていた ──保健所が匿名で検査してくれるような疾患なのに)という医院で検査を受け、結果が出たのが昨日の午前である。

 結果はまさに予想どおりであった。

 5種類もの抗原・抗体精密検査はすべて陰性で、医師によると「陰も形も、ウイルスが存在した痕跡もない。何をもって「B型肝炎の疑い」などと診断されたのかも心底わからない」ということだったそうだ。

 後半は私の診断?と同じである。

 ほっと安心したものの、ミステリは残った。

 ほんとにいったい、「何をもって「B型肝炎の疑い」などと診断された」んだよ(怒)

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