2024.09.02

■コルクとの新たな出会い

 ポルトガルに到着して車を走らせると、最初はずっと荒涼とした半砂漠のような風景が続いていた。
 植わっている木はオリーブかブドウだけだと思っていたのだが、ガイドブックを読んでいた家人が「コルク樫も多い」と教えてくれた。

 今でもワインの栓などでなじみ深い、あのコルクを採取する木である。

 コルクには、幼稚園のころにはすでになじみがあった。
 日本酒の瓶の蓋に使われていたコルクを削り取り、金属の蓋をおはじき代わりにして遊んだりしていたのである。
 今でもときどき、ワインの栓のコルクを抜くのには苦労させられている。

 にもかかわらず、今回旅行に来るまで、コルクとかコルク樫とかについては考えたこともなかった。

 なんでも、コルクというのはコルク樫の樹皮を剥いで作るのだそうで、その樹皮は再生するため、昨今 はやりの持続可能性を備えているのだそうだ。
 そして、驚いたことに、そのコルクで作った財布やカバンや帽子!などがそこここで大量に売られているのである。コルクは、ここポルトガルの特産品であるらしい。

 コルクと言えばほとんど栓とかコースターしか知らなかったので、あらためて自分の無知を再確認した。

 最初は、ドン・ルイス一世橋のたもとのドウロ川の岸辺の露店で、綺麗なデザインの小銭入れのようなものが1€で売られているのを見て、軽い気持ちで買った。
 次の日、さまざまなコルクのカバンを見た中で、自分が使えそうなものとしてウエストポーチが気に入り、露店ではなくちょっと高級そうな土産物屋に、わざわざ戻って購入した。

 そのときは別に何も期待していなかったのだが、店員が「皮革と同じくらいの耐久性があるし、皮革とは違って耐水性もある」と説明するので、「まあ、都合のいい売り文句だよな」と思いながら話半分で聞いていた。
 でも、買ってから調べると、どうも実際にそのとおりのようなのだ。

 皮革と同じくらいの耐久性??

 まだ信じられないのだが、実際、ヴィーガンレザーとも呼ばれ、環境意識の高い人々に人気なのだという。

 たまたま気に入って衝動買いしたようなものなので、なんだか得をしたような気分になった。

 ただ、予想もしなかった問題点があった。

 腰に回すベルトが長すぎ、いくら縮めてもフィットしないのだ。結局、これ以上は無理というところまで短くして、やっと何とか使えるくらいにはなった。それでも、まだかなり余裕がある。
 いったい、どんなウエストを基準にしているのか。これが家人や息子だったら、まったく使いものにならなかったところだ。

 ともあれ、皮革と同じ耐久性、皮革にはない耐水性・・・

 信じて長く愛用したいと思う。

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2024.08.20

★「おはよう」の不思議

 ポルトガル語の挨拶を覚えようとしている。「おはようございます」は bom dia だ。

 ただ、それだと、bom(≒good) dia(≒day)(よい日)なので、good morning(よい朝)的な言葉はないのだろうかと思った。
 そもそも、英語で good day というと、どちらかといえばむしろ「(この後)よい一日を(≒さようなら)」という意味になってしまう(オセアニアを除く)。

 待てよ、そういえば、フランス語でも「おはよう」は bon jour、つまり「よい日」である。スペイン語は buenos días、イタリア語は Buon giorno、ぜんぶ「よい日」だ。

 つまり、ラテン系(ロマンス諸語)の言語である仏・西・伊・葡はそうなのだ。

 それに対して、英語は good morning、ドイツ語は Guten Morgen、オランダ語は Goedemorgen、その他、調べてみると、デンマーク語やスウェーデン語なども、ゲルマン系の言語は「よい朝」なのである。

 おそらくは常識に属することなのだろうが、今まで整理してみたことがなかったので、こんなにわかりやすく分かれているとは思っていなかった。

 でもやっぱり、「おはようございます」には、Good morning ! や Guten Morgen ! のほうがしっくりくる。最初に習った外国語が good morning(よい朝)で、bon jour(よい日) ではなかったことが、いまだに尾を引いているのかもしれない。

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2024.08.19

★マイナーなポルトガル

 自分自身が何も知らなかったくせにこういうことを言うのもあれなのだが、ポルトガルって思った以上に観光地としてマイナーなようである。少なくとも、日本からの旅行者にとってはそうらしい。

 楽天マガジンというのを契約しているのだが、「8,000冊以上いろいろなジャンルの雑誌が読み放題!」という謳い文句にもかかわらず、「ポルトガル」で検索すると、観光の記事は1つ!しかない。
 しかもそれは、『航空旅行』という、飛行機オタク向けのマイナーな季刊誌(だと思ったが、今年からは年2回のみ発行らしい)が「国際線フライトを楽しむ!」という特集の中で触れているだけなのである。
 あとは、サッカー・ラグビー・車・バイク・ワイン・猫!、それに、通訳翻訳と経済財政の関連で言及されているに過ぎない。

 昨年行ったニュージーランドなら『るるぶ』が、雑誌丸ごと一冊あったのだが、ポルトガル版の発行は2020年3月が最後のようだ。コロナ以降、復刊されていないのである。いま見ると、ニュージーランドはやはり、2024年3月にも発行されている。

 ポルトガルってそんなにマイナーなのかな?

 いやまあ、私もこれまで行ったことがなかったから今回行くことにしたのだが・・・
 確かに、旧東ヨーロッパや、旧ソ連のバルト三国、それにアイスランドよりもあとになってしまった。

 でも、さすがに『地球の歩き方』はあって、2023年12月に出版されている。ただ、これとて「2024〜2025」をうたっており、毎年は発行されていないようだ。
 「今、世界も注目している”サウダーデ”の国を徹底リサーチ!」と表紙にあるのだが、サウダーデって何だよ・・・と思った。
 しかしなんと、『大辞林』と『大辞泉』には、「サウダージ〖ポルトガル saudade〗」として載っており、それぞれ「昔のことをなつかしく思いだすこと。郷愁。」「遠い昔や失われたものにひかれる気持ち。郷愁。」という語釈がある。「ノスタルジー」とはちょっと違うのだろうか?

 ニュージーランドに行ってちょっと残念だったのは、やはり文化や文明の歴史が浅く見えることだった。言葉にはイギリスを感じるのに、街や文化は基本的にアメリカ的だったように思う(もちろん、マオリは別)。

 日本に生まれ育った私が、ポルトガルに出かけて郷愁(サウダーデ)を感じるというのもヘンなのだが、これまでの経験からすると、確かにヨーロッパにはそういうものを感じさせる古い伝統・文化・文明がある。
 ___

 いま、ふと気づいて調べてみると、かつて栄華を誇った旧西ヨーロッパの国に行くのは、2012年のウィーン(オーストリア)を除けば、なんと20年ぶりだ。えっ!?
 あ、違った、2010年にフランス、2014年にイタリアへ、それぞれ仕事で行っている。それでも10年ぶりなのである。

 いろいろ面倒で杞憂(に終わるはずのこと)も多く、なんとなく憂鬱だったのだが、なんだか少し楽しみになってきた。

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2024.03.13

●DTP(Desktop Publishing)

 仕事柄というか、若いころからDTP(Desktop Publishing ≒ 机上出版)というものにそれなりに親しんできた。

 それこそ35年以上前、パソコンの性能もプリンタの表現力も今とは比較にならぬほど劣っていた時代から、細く長く付き合ってきた気がする。

 しかしながら、本当の意味での DTP を経験したことはまだない。完成データは渡すものの、結局は印刷所や出版社と打ち合わせをしながら書籍の形にするのが常であった(というほど出版の経験があるわけではないが)。

 そうこうしている間に、Amazon が Kindle Direct Publishing というのを運営するようになり、タブレット端末やスマートフォンで読める電子書籍が個人で簡単に出版できるようになったので、以前、試しにやってみたことがある

 少し労力はかかるが、まさに DTP そのもので、個人の机上(パソコン)で作業が完了する。費用もかからない(どころか、売れれば印税が入る)。

 先日、仕事の本を KDP(Kindle Direct Publishing)から電子書籍(Kindle 版)として出版しようとして、ひさしぶりに KDP にログインしてみると、なんと、紙の書籍も同様に(つまりはちょっとした手間だけで)出せることがわかった。同じように、費用もかからない。

 これにはさすがにびっくりした。たぶん、以前はなかったと思うのだが、どうなんだろう。

 電子書籍として出そうとしていた仕事の本も、とりあえずはやっぱり書籍として出版することにし、さっそく予行演習を兼ねて、かつて Kindle 版を出したものを書籍として出版してみた。

 短編一つだと薄すぎて本にならないので、書きはじめてすぐに挫折していた小説もどきの断章を4つ加え、なんとか体裁を整えた。
 現在審査中だが、うまくいけば2〜3日中には Amazon で購入できるようになる。

 文字どおりの DTP で、やっと時代がここまで来たかと、ちょっとした感慨がある。

 それにしても、ここまで長かったなあ・・・

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 世に「自費出版」というものがある。何十万円か何百万円かを出版社に支払って、数十部から数百部の本を出版してもらうのがふつうだろう。

 しかしながら、KDP(Kindle Direct Publishing)を使えば、一円も使うことなく、一冊からでも出版できる。オンデマンド(注文が入ってから)印刷なので在庫はゼロ、売れ残りの心配もない。
 億万が一、百万部売れても、増刷の手間すらない。
 定価は、印刷費用の1.67倍以上であれば自由に決めることができ、高く設定すればそれだけ自分の収入にもなる。できるだけ安く設定して自分で購入し、友人知人に配ることもできる。

 こんないい話があるだろうか。

 自費出版したい方は、ぜひ KDP の検討をお勧めする。
 もし、「私には難しそう・・・」ということであれば、代わりに私がやってあげてもいい(実際には無理です、すみません)。

 あ、ひとりで出版仲介業が運営できるではないか。けっこうなビジネスチャンスかも(笑)

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2024.02.26

◆「お釣り」雑感

 日曜日の朝日歌壇に

  物買へばお釣りあること知らぬまま幼子育つデジタル社会 (酒田市)朝岡 剛

という歌が掲載されていた。

 身近に幼子はいないが、なるほど、いればそうなるかもしれないと感心させられた。

 息子がまだ幼かったころ、ガレージの前にある水道から水が出せないのを見てびっくりしたことがある。
 カランの栓をひねる旧来のタイプだったのだが、幼いといっても小学校低学年、まさかそんなことができないとは思いもしなかった。
 だが、考えてみると、家のほとんどの水栓はレバーの上げ下げになっていて、ひねるタイプはガレージ前と庭だけだった。保育園の水栓もレバーだったのだろうか?

 昨秋、自宅の水回りをリフォームした際、キッチンの水栓は自動にした。
 これは私自身のことだが、そのせいで、手動の洗面所でも手を突き出して待ってしまうことがある。
 今のところ、1秒以内には気づくものの、あっちもこっちも自動水栓がふつうになれば、手動で水を出す方法を知らぬまま育つ幼子も増えてくるかもしれない。

 さて、お釣りの話。

 最後にお釣りを受け取ったのはいつだろう・・・と考えて、もしかすると昨夏のニュージーランドではないかと思った。
 現金が必要な機会が2度あり、キャッシングで現地通貨を引き出した後、残った10NZDを使って土産物を買ったときに受け取ったお釣りの1NZDがそれで、持っている唯一のニュージーランドドルでもあり、大事に机の引き出しにしまっている。

 それ以降、お釣りをもらった記憶はない。もしほんとうにそうだとすると、半年くらいお釣りを受け取っていないことになる。
 あんまり意識してはいないが、私(たち?)はそういう社会を生きているのだ。

 ニュージーランドのコインが生涯で受け取った最後のお釣り・・・ということになればなかなか楽しいエピソードになるのだが、残念ながらそうはなるまい。
 そうだ!、今後、現金での支払いでお釣りが出そうなときは、家族に支払わせるようにしようか(笑)

 それはともかく、「物買へばお釣りあること知らぬ」「幼子」っていくつくらいなんだろう?

 まだ親がすべての支払いをしている年齢か、それともデジタルデバイスで自ら支払っている年齢か。
 いずれにせよ、その間に、現金で買い物をする数年間があると思うんだけれど・・・

 その際にお釣りの経験を積んでおくことは、意味のあることなのか、それとも、どうでもいいことなのか。

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2024.02.20

◆アンコールワット神殿の向き

 父親が撮影したアンコールワット遺跡(カンボジア)の写真をリビングに飾っている。
 おそらくは、亡父もっともお気に入りの一枚で、パソコンのデスクトップピクチャ(壁紙)にもなっていた。
 朱色の僧衣を着た少年僧が左下に佇んでる。この子も今は高僧になっているかもしれない。

 さて、先日の朝日歌壇に

  クメール朝の石の神殿に印された方位はスマホの磁石とぴったり (東京都)上田 結香

という短歌が掲載されていた。

 「クメール朝の石の神殿」がアンコールワットかどうかは定かではないが、まあその可能性は高いだろう。

 ともあれ、これを読んでまず思ったのは、「そんなバカな」であった。

 ご承知の方も多いと思うが、方位磁石が指す北は「磁北」と呼ばれ、実際の北(「真北(しんぽく)」)とはかなりのズレがある。
 私の住んでいる場所では8°以上西偏している。それだけ違えば、「ぴったり」に見えるはずがない。

 クメール朝の神殿がいつ建てられたのかはわからないが、羅針盤(方位磁石)を利用してそれにあわせたとも思えないので、おそらくは天体の運行から真北を求めて建てられたはずだ。

 ただ、調べてみると、羅針盤は「11世紀に中国で発明され、13世紀末までに全世界に広まった」(wired.jp)とあり、クメール朝は「九世紀から一三世紀にかけてアンコール−ワット、アンコール−トムなどの造営を行な」(日本国語大辞典)ったとあるので、造営にあたって羅針盤を利用した可能性も否定できない。

 でも、せっかく正確に東西南北にあわせて神殿を建てたいときに、たとえば太陽の南中がずれるような建て方をするだろうか。

 そう考えると、たとえ羅針盤を知っていたとしても、真北を基準に建てたのではないかと思える。

 なのに、「スマホの磁石とぴったり」・・・

 と考えて、ハタと思いあたった。もしかして、アンコールワット周辺では、偏角がほとんどないのではないだろうか。

 ネットで調べようとしても、出てくるのは日本の情報ばかり。まあ、日本語で検索するから当然なのだが、信じられないほど細かく調べられていることに感嘆するものの、カンボジアの情報はない。

 しばらくして、世界の偏角を即座に知ることができる便利なサイトがあることを知った。

 そこで調べると、アンコールワット遺跡の西偏は1°未満!
 なるほど、「スマホの磁石とぴったり」になるわけだ。
 ___

 ちょっとした疑問を持ち、これほどすっきり解決するのも珍しくて気持ちが良い。

 あ、でも結局、逆にというか、真北を基準に建てたのか磁北を基準に建てたのかは謎のまま残ってしまった(笑)

 

 追記:

 あとで気づいたのだが、もしかして「スマホの磁石」というのは、実は方位磁石など使っておらず、GPS情報に基づいて方位を示しているのではないか・・・と思いはじめた。
 実際、私の古い iPhone 7 Plus でも、設定に "Use True North"(真北を使う)というのがあり、忘れていたが、私もオンにしていた ^^;
 もしかすると、短歌の作者の上田さんも同様の設定をしていらっしゃるのかもしれない(カンボジアではどちらでも大差ないけれど)。

 ところが、調べてみると、やはり磁石を使っているようだ。Appleのサイト

重要: コンパスの正確さは、磁気的な妨害や環境的な妨害によって悪影響を受けることがあります。iPhoneのEarPodsに含まれる磁石が、ずれの原因になる場合もあります。 

とある。

 それでも、今の iPhone は方角だけではなく、緯度経度や標高まで表示できるらしいので、GPSを使っていることは明らかだ。
 どうして方位には GPS を使わないのだろう? 使えないときだけ磁石に頼るとかでもいいのに(そうなってるのかな?)

 →一箇所に静止している場合、経緯度の変化がなく方位を計算できないため、GPSは方位を示すことができないそうです。

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2022.08.30

★初めての写経

 父母の葬儀や法要を執り行ってくれた(る)僧侶に言われて、般若心経を写経している。

 正直、はた迷惑な話だが、「写経をして四十九日に持参しなさい」と言われて、「嫌です」というのも角が立つので、仕方なくだ。

 重い腰が上がらず放置していたのだが、以前買った新品の筆ペンがあると家人が言うので、少し書いてみた。

 想像より量は少なく、ものの20〜30分で終わりそうではあるが、何しろ字を書くことなどこの30年以上ほとんどないので、なかなかに疲れる。

 職場で、「よろしくお願いいたします」と自分の名前とをポストイットに書くのすら面倒なのに、筆ペンで写経というのはハードルが高い。
 それでも、なんとか半分くらいは書いた。

 「こんなに字を書くことが他にあるかなあ・・・」と考えてみると、唯一、年賀状の表書きだけがあった。
 しかし、それも数年前にやめてしまった。

 もはや、字を書くことはほとんどない。

 気が小さくて「やめたい」と言うことができず、小中高と12年間も仕方なく通っていた書道教室で培った中途半端な腕を、発揮する機会はほぼ絶無だ。
 中学に入るときとか高校に入るときとか、やめるきっかけはあったのに(そして実際、そのタイミングでみんなやめていったのに)、ずるずると厭々つづけていたのは、いったいなんのためだったのか。
 通っている高校生は、私ただひとりであった。

 情けない話だが、大学に入り、通学に時間がかかるからという理由でやめることができたときには、ほんとにほっとした。

 もっと真面目に取り組んでいれば・・・というふうにも、ほとんど思わない。


 ただまあ、お蔭で、般若心経を写経しても、字が下手すぎて見られない・・・というほどではない。
 もとより、薄い文字をなぞるだけなのだから当然なのだが、これとて、書道をやったことがなければ悲惨な文字の羅列になったことだろう。

 これが少しでも父母の供養になるというのであれば、せめて厭々ではなく、なんとか最後まで写経したい。

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2021.10.17

◆「手良乎」の謎

 追記:下記に関して、『日本国語大辞典(第2版)』に記載があるとの懇切丁寧なご教示を賜りました。ありがとうございました。
 「辞書にないのに」と繰り返しておりましたが、単なる私の見落としでした。お恥ずかしい限りです。
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 本日付の「朝日歌壇」に、

  「手良乎」とう『色葉字類抄』にもある言葉今も津軽の地には生き延ぶ

という作品が掲載されていた。選者は馬場あき子である。

 馬場によると「手良乎は蝶のこと」だそうだ。
 『色葉字類抄』は、平安時代末期、12世紀半ばに成立したと言われる古辞書。

 最初は「なるほどなあ。方言周圏論(中央の言葉が同心円状に地方に波及していくという考え方)はここでも有効なのだ」と思っただけだった。

 だが、気になって「手良乎」(新聞には「てらこ」と振り仮名がある)を辞書で調べてみても、手元で見られるあらゆる辞書に載っていない。
 「手元で見られる」とはいってもネット時代、日本最大の『日本国語大辞典(第2版)』(書籍だと全14巻、23万1000円)まで含むのに、である。

 『色葉字類抄』そのものは家で見られないが、そこに載っている語であれば、辞書に載っていてもよさそうなものなのに。

 そもそも、馬場はどうして「手良乎は蝶のこと」だと知っているのだろうか。辞書にないのに。
 馬場あき子ほどの人であれば、自宅に色葉字類抄くらいは置いているのだろうか。
 あるいは、作者がハガキに書いていたのか。
 もしかすると、一流の歌人には常識なのか。辞書にないのに(しつこくてすみません)。

 辞書にないどころか「手良乎」を漢字でネット検索しても、ヒットするのは朝日歌壇だけなのである。
 「"てらこ" "蝶"」で検索しても、関連のありそうなのは「つがる弁」について述べた1つのみ

  諸賢のご教示を賜れれば幸いです。

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2021.05.18

■夫婦同姓の「伝統」

 まず、事実確認をしておきたいのだが、法律的なカップルに同姓であることを強制している国は、現在世界中で日本だけであり、それは法務省も内閣も一致して認めているところである。

 この「強制的夫婦同姓」が仮に「日本の素晴らしき伝統文化」なのであれば、たとえ世界唯一であろうと、誇りととも続けていってもかまわないかもしれない。

 「素晴らしき」かどうかには個々人の価値観が伴うのでここでは扱わない(しかしながら個人の権利を制約する点や利便性から見れば素晴らしくない可能性は高い)が、はたして「強制的夫婦同姓」は「日本の伝統文化」なのだろうか。

 もはや周知のことだと思うのだが、それまでふつうは姓を持たなかった日本の住民は、戸籍制度の確立にともない、1875(明治8)年になって姓をもつことを強制された。
 そして、翌1876年の太政官指令では、それまでの武家等の「伝統」にしたがい、夫婦は「所生ノ氏」(生家の姓)を用いるべき(=夫婦別姓)と定められた。

 夫婦同姓になったのは、明治も半ばを過ぎてから、1898(明治31)年に施行された明治民法以降のことである。たかだか120年ほどの歴史しかないのだ。
 今年は「皇紀」2681年であるから、実にその最後の1/20以下の「伝統」ということになる。

 だが、こういうことを言っても、夫婦が同姓であることを「伝統」だと言いたがる人たちは、いろいろと理屈をつけてどうしても伝統にしたいとがんばり続けている。

 それに対する便利な反論をひとつ思いついたので、この文章を書く気になった。

 いま私たちのほぼ全員が日常的に着ているような衣服を、「日本の伝統文化」だという人がいるであろうか。

 そう、夫婦同姓は、まさに洋服と同じくらいの伝統しか持たないのである。

 そういうものを日本の伝統文化だと言い募るのは、恣意的を通り越して捏造に近い。
 まあ、あと100〜300年もすれば、洋服も立派な日本の伝統文化の仲間入りをする可能性はあるかもしれないが、今はまだそのときではない。これは、衆目の一致するところであろう。

 強制的夫婦同姓は、日本の伝統文化でもなんでもない。むしろ、伝統文化に反するものと言っても過言ではない。
 まあ、そんなことを言えば、全国民が姓を持つこと自体が伝統ではないのだが。

 伝統伝統と言いたがる人たちが好きなのが、なぜか近代以降の帝国主義・植民地主義・君主制・家父長制の「伝統」であることは興味深い。
 己を大きく見せて他を支配したいという醜い心根の反映でないことを願うばかりである。
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 夫婦同姓や洋服に限らず、日本の多くの「伝統」は、明治までしか遡れない。そして、残りの少数の「伝統」も、多くは江戸時代までしか遡れない。それ以前の「日本古来の伝統」は、ごくわずかである。

 たとえば、江戸時代になるまでは、醤油も清酒もなかった。砂糖も貴重品でほとんど使われなかった。
 かつおや昆布の出汁はもっと古くからあったようだが、それでも室町時代後期からであるらしい。合わせ出汁が文献に登場するのは、江戸時代になってからだそうだ。

 いわゆる日本料理の源流はおそらく茶の湯の懐石からだと思われるが、こう見てくると、現在の日本料理の伝統はせいぜい江戸時代からのものだと言っていいのではないかと思う。
 醤油も合わせ出汁も清酒も砂糖も?ない料理が、現在考えるところの「伝統的日本料理」であるはずかない。

 なにも料理に限らない。日本の、いや、あらゆる国や地域の伝統は、外来文化の受容と、発見・発明とからなる、ダイナミックな変化の歴史として紡ぎ出されてきたものである。

 ごく一時期に歴史の偶然から生み出され、しばらく続いただけのものを墨守することは、伝統を大切にすることでもなんでもない。

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2020.07.13

●『猫を棄てる 父親について語るとき』村上春樹

 本を読まなくなった。

 映画は毎日のように見ているのだけれど、本はダメだ。

 脳が劣化して文字を受け付けないのかとも思ったが、連日ネットや新聞の文字を大量に読んでいるので、そういうことではなさそうだ。
 ただ、「情報」は読んでも、それ以上のものはしんどくなっている可能性はある。
 iPhoneのアプリでいちばん利用しているのは、SmartNews だが、Screen Time で調べると、2位のアプリの十数倍の時間を費やす圧倒的1位だ。読んでいるのはほぼ「トップ」と「まとめ」だけである。

 パソコン(や新聞)の方は少しマシで、小難しい評論なんかもけっこう読んでいる。
 でも、少し読んですぐ引き込まれるような、よくいえば文章のうまいものしか読まなくなっている気がする。目に入る文章の質の平均が(たぶん)下がっていることも影響しているだろう。

 であれば、ある程度の質が保証されている(はずの)本をもっと読んでもいいと思うのだが、どうもその気になれない。なんとなく、コストパフォーマンスが悪いような気がするのがいちばんの原因かもしれない。
 いま、「コスト」と書いたときにもっとも念頭にあったのは「時間」だが、それ以外にも、金銭と置き場所の問題も大きい。

 そして、文字が小さくて眼にやさしくないことも大きな原因だと思う。
 昔やっていたような、寝転がって眼鏡なしでは読めなくなったし、iPhone や Mac ならいくらでも文字を大きくできてフォントのデザインもすぐれている。
 また、一般的な単行本よりも、新聞の文字の方がはるかに大きくて読みやすい(面積あたりの文字数はそれほど変わらないのに!)。

 もしかすると、文字を読みやすくしてくれるだけで、いまよりは本を読むようになるかもしれない。
 (あ、iPad で本を読んでいないんだから、ダメだな・・・)
 ___

 前置きが長くなった。

 そんな状態ではあるが、村上春樹(まだまだご存命だが、もう敬称抜きでいいのではないか)の本はたぶんだいたい読んでいる。
 標題にした『猫を棄てる 父親について語るとき』をきっかけに、『村上春樹 雑文集』というのを読んだかどうか気になって本棚を見てみたら、やはりというか存在していた。
 今週は『一人称単数』も発売される。

 『猫を棄てる』は、とうとうというか、村上が父親に向き合った随筆?だ。
 いま、「正面から向き合った」と書こうとしてやめたのだが、まったくもって正面からは向き合っていない。肝心?の、父と息子の確執が、精神面からまだ?具体的に書けないようなのだ。
 この本はハードカバーではあるものの、B6判と新書判の中間くらいのあまり見ない判型で、イラストを含めても100ページに満たない小品だが、いつか亡くなるまでには、ご尊父と正面から向き合った大作を書いていただきたいと思う。

 『猫を棄てる 父親について語るとき』という題名だけから想像したのは、泣いて嫌がる村上少年の哀願をものともせず、非情に猫を棄てた冷徹な父親像なんだけれど、まったくそういう話ではなかった。

 それはともかく、村上家にはいろんな猫が入れ替わり立ち替わり飼われていたようなのだが、その記憶がいちいち曖昧なのがおもしろい。

 うちはそれほど動物を飼わない家だが、それでも、鯉やら金魚やら文鳥やらを飼っていた。それらがどうしてうちにやってきて、どういう最後を迎えたかは把握している。
 つまり、うちの息子にとっては、少なくとも父親である私に尋ねさえすれば、曖昧になることはない。

 ただ、私の実家は、インコやコリーやジュウシマツやベニスズメやマルチーズやシーズーなどを飼っていたが、トラウマティックな記憶であるベニスズメと、比較的最近のマルチーズを除き、最後がどうなったかは記憶にない。入手の経緯はどれも不明だ。
 子どもの記憶というのはそういうものかもしれず、村上の記憶が曖昧なのは、尋ねる父はすでに亡く、母の意識も混濁の中にあるからだろうか。

 うーん、でも、90歳になるうちの父親は、まだ何とか働けそうなほどしっかりしているが、飼っていたペットのことを聞いても覚えているような気がしない。
 私自身、もう20〜30年経てば、うちで飼っていたペットの記憶がなくなるのか、それとも、父親がそういうことにあまり関心がないのか、いや案外、実際に聞いてみれば覚えているのか、わからない。

 週末に会う機会があるので聞いてみようと思う。

 父の人生は村上千秋さんのように波瀾万丈ではないし、仮にそうであったとしても、私にはああいう文章はとても書けないけれど。

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